洗脳戦隊


 

 
A2B 〜The Gift of the Magi〜







「ぷはーーーーーーー。長かったー」
 分厚いマニュアルをバタンと閉じると、シモンは疲れた眼をしばたたかせた。
 飛ばし読みだったが、大まかな流れは理解した。もとより、これだけ大掛かりな艦船であれば、実際にマニュアルで操作するべきところはそれほど多くない。第一マニュアルで操作しなくてはならないような事態が起これば、所詮一人や二人では対応できない。そこで一巻の終わりだ。
 ・・・それに、いざという時のために、ある程度小細工は既にしてある。シモン一人でも概ねこの旗艦は動かせるはずだ。
 薄暗い操縦室に備え付けられた、座り心地が良すぎて長く座っているとかえって気持ち悪くなるくらいに柔らかい座席シートに身を沈めながら、シモンは目の前のコンソールパネルに目をやった。
 コンディション、オールグリーン。
 数年間動いていなかったこの旗艦の操縦系を短時間でこれだけ整備したダリアの腕は流石だ。・・・正直、ベリルとの1戦も・・・自分の策がうまく働いたのはダリアが強引にこの船を位相転移させたおかげだ。そうでなければ果たしてあのベリルに弾丸が当たったかどうかも危ういのだから・・・。
 だからこそ・・・。
 その思索を破るかのように、操縦室の自動ドアが開く。白衣のダリアが現れる。
「どうした、シモン。ここまで来て怖気ついたか?」
色とりどりのグラフが表示されているパネルを腕を組みながら見つめるシモンに、ダリアは軽口を叩きながら歩み寄る。
「・・・馬鹿言うな。ここまで来た以上、腹は据わってる」
 シモンは反動をつけて座席から立ち上がる。
「ほう・・・それは豪気なことだな」
 ダリアが軽く笑う。
「これから一体どういうスケジュールで運航をする気だ?」
「そうだな、さっきのジャンプで既に今我々は大気圏外にいる。これからエネルギーを使い切るまで、何万光年レベルのジャンプを何度も繰り返すことになる」
「・・・成功率はどれくらいなんだ?」
「・・・さあな。今にもエネルギー溢れ出しそうなエネルギータンクが爆発するタイムリミットが先か、連続長距離ジャンプに耐えかねたエンジンが焼け付くのが先か、はたまた、跳んだ先が事象の地平線の内側だとか、小惑星群や磁気嵐のど真ん中だとか・・・。そしてエネルギーを無事使い切った後に、我々炭素生物が生存可能な惑星が存在するのかどうか・・・。分母にゼロが延々と並ぶような楽しい要因が目白押しだが、成功率でも計算するか?」
「・・・いや、せんでいい。高くない、ということさえわかればいい」
 シモンは暫く目の疲れをほぐすかのようにマッサージをしていたが、やがてダリアの方を向き、頭一つ下にあるダリアの頬を撫で上げ、髪の毛をすっと梳いた。
「!」
 びくっ、と体を強ばらせるダリアに向かって、
「・・・ダリア、一つ約束だ。・・・いや、命令といった方がいいかな?」
「な、な?」
 狼狽するダリアに向かって、
「何があっても、精一杯努力して生き残るように。たとえお互い離れ離れになったとしてもだ」
 一瞬ぽかんとした表情でシモンの顔を見上げるダリア。しかし、すぐにいつものダリアに戻って、
「・・・何をアホなことを言っているか。お前にそんなこと言われるまでもない。お前が宇宙の藻屑になろうとこの銀河系が消し炭になろうと、私は生き残るに決まってる!」
 シモンはニタリと笑った。
「・・・ゴキブリ並の生活力だな。まあそれならいい。ついでにその生活力を生かしてサファイアとベリルの面倒も見てくれ。あの二人は戦闘能力はともかく生活能力がゼロだ。とても生き残れないだろう」
 ダリアはシモンをジロリと睨む。
「・・・貴様、あの二人の面倒を私に押し付けて、自分は一人のんびりするつもりだな!」
「ん。まあそんなところだ」
 緊張感の無いあくびを一つして、シモンはどさっと椅子に座りなおした。
「・・・何にせよ、今は次の長距離ジャンプの準備中だ。・・・本格的なジャンプは60分後。せいぜい今は遺言でも書いてるんだな」
 ダリアはそう言い捨てると、髪の毛をふわりと舞わせて後ろを向き、そのまま操縦室を出て行った。
 独特の間の抜けた音を出しながら閉じた自動扉が、シモンとダリアを隔てる。
「・・・遺書、ねぇ・・・」
 部屋を出る前のダリアの真っ赤な顔が思い出しながらシモンはマニュアルをペラペラとめくる。
「・・・誰が読むんだよ、その遺書を・・・」
 胸ポケットからペンを取り出し、シモンはなにやらマニュアルに書きつけ始めた・・・。



 暫くして、ダリアが再び操縦室にやってきた。いくつかセッティングを終えると、あとはただ機械の調整を待つだけになったのか、二人の間には沈黙が続く。
「さて・・・少し暇になったなあ・・・ダリア、暇つぶしに、前にやったルールでしりとりでもやるか」
「・・・ほほぅ。前回のリベンジというやつか」
 ダリアは目を細める。
「リベンジも何も、あの時はお前が途中でズルして中断しただろうが」
「ズルではない!あれは策というものだ!!」
 大真面目に反論するダリアにシモンは手を振って
「わかったわかった。まあ、じゃあもう一度やって見ようや。同じようにな」
「・・・いいだろう。ただ、前は通常の会話の単語も制限対象だったが、今回はそれは無しだ。純粋にしりとりを楽しみたい」
 真剣にしりとり、というのも妙におかしいが、ダリアの表情はあくまで真剣だったので、シモンは敢えて突っ込まないことにした。



 シモンとダリアは操縦席に身を沈めながら、再びしりとりを始める。真剣勝負のやり取りは続き・・・残りされた文字はわずかになっていった。



「・・・うーむ」
 文字数も残り少なくなった段階で、シモンは唸り始めた。
「どうした、シモン、降参か?」
「・・・いや、思いついてはいる」
「じゃあ言ったらどうだ?」
「いや、言えない」
 ダリアが鼻で笑った。
「ふん、口ではどうとでも言えるというものだな」
「・・・今思いついている言葉があるんだが・・・これはキーワードなんだ。お前のな」
「・・・?」
 訝しげな表情をするダリアに、シモンは説明する。
「つまり、マジカルキーというか・・・、お前を含めて俺が洗脳した連中全部の共通鍵なんだ、この言葉は。だからいうわけにはいかないし・・・。お前にかけた催眠も解くのにも使えてしまうし・・・」
 ダリアは口を歪めて笑った。
「・・・くっくっく、シモン、ぬかったな。そんなこと私に言ったらたちどころに解読してしまうぞ。もう残された文字はわずかしかないのだからな・・・」
「ん、そこは抜かりない。俺に洗脳された連中はこの言葉を忘れてるように暗示をかけている。だから絶対思い起こせない」
「な!」
 ダリアは唸りながら真剣に考え込んでいるが、どうしても思いつかないようだ。
「駄目駄目、絶対無理。思い起こせないって。ちなみに日本語辞書をひいたりしてもお前の目はその文字を読みとることはできないからな」
「ぬぬぬぬぬぬ・・・つまらないことにばかり気の廻る奴だ・・・」
 悔しがるダリアを尻目にシモンは立ち上がる。
「・・・じゃあ、この勝負は、お預け、ということにしておこう」
「な、何!貴様!逃げるのか!!」
「・・・続きは、生きて帰ってからにしようや」
「・・・・・・」
 ダリアは沈黙する。さすがに軽々しく生きて還れる、と言うことは、科学者としての良心が許さないようだ
「さて、ダリア。ここで一つ提案がある」
「?」
 ダリアがシモンを見つめる。
「・・・幸いお前の尽力により旗艦のセッティングも無事終了した。俺もマニュアルは一通り読んで、最低限の操縦はできる。つまりこの旗艦は俺一人でも操縦ができる状態になった。・・・だから、お前はサファイアとベリルを連れて、地球に帰れ。緊急脱出用のミニカーゴを使えば、大気圏突入できるだろ」
「な?」
 ダリアが勢いよく立ち上がる。白衣の裾がまくれあがる。
「何をアホなことをいってるんだ!」
「どこがアホだ?」
「アホはアホだ!お前、ここに来る前に言ったではないか!『おまえも来い』と!」
 やれやれ、とシモンは肩をすくめる。
「・・・ダリア、ちょっとは考えろ。まず第一に、この旅行はどう考えても無謀だ。つまりほぼ成功率はゼロ。それはお前もさっき認めたな?」
「・・・認めた」
「次、本当は自動運転ができればよいのだが、この船は底意地の悪いことに操縦に生体認証が必要で、最低一人は残らざるを得ない。そしてどうせ失敗するなら、この船と運命を共にする奴は可能な限り少ないほうがいい。それも認めるな?」
「・・・まあ、な」
「さらに次、じゃあ、誰が残るべきか。サファイア、ベリルは操縦できないから論外。あの二人はいてもいなくても仕方ないからどちらにしろこの船から降りるべきだ。となるとお前か俺かだが、この無謀ツアーのきっかけを作ったのは俺だ。となれば、俺がツアーコンダクター兼運転手をするのが筋というものだ。どうだ?」
「お前一人じゃ操縦できないだろ!!」
 そのダリアの反論は予測済みだ。
「もう、最低限のことはできる。お前が渡してくれた分厚いマニュアルは一通り読んだしな。あと多少の細工はさっき施したから俺一人でもほとんど問題は無い、筈だ」
「何が、『筈だ』、だ。何か起こったとき、お前じゃ対処は無理だ!私が残ったほうがいい!」
 ダリアはなりふり構わず大声をあげる。が、シモンもここで退くわけにはいかないのだ。
「・・・そもそもこんなでかい船で何か起こったら、お前がいても解決するのは無理だ。せいぜい生存率が小数点以下ゼロ3つくらい減るだけで、そんなもの大した足しにもなりゃしない。それに、誰かが地球に戻っていれば、最初の大ジャンプさえ成功させれば、後はその最果ての地でこの船が爆発しても、このチキュウと最低限のネメシスの血は無事残る。あとは、生めよ殖やせよ地に満ちよ、偉大なるガイア、万歳。かくて、我々ネメシスの最終目標は達成される。・・・だが、このまま雁首揃えて全員この船に載ってたんじゃあ、その成功率はゼロ。この差は大きいとは思わんか?」
 ダリアは俯いたまま、声を押し殺すように呟く。
「・・・だったら・・・だったら最初からお前一人だけがこの船にのればよかったではないか・・・。・・・何で、あの時、私に、『お前も来い』と言ったんだ・・・」
 部屋が暗すぎたせいもあって、ダリアがどんな表情をしているか、シモンにはよくわからなかった。
「・・・あそこでもし誰かが地上に残ったら、身内に甘く部外者に冷たい人間共のことだ、予算と人員をどっさりつけて、ネメシスの残党狩りに血道を上げてくれることだろうよ。あの時は、俺達が全て消えたことを奴らの前で見せつけることが重要だった。幸い、お前を含めて全員騙されてくれたようだし、世界征服という派手なことさえしなければ、奴らが我々を追いかけることは無いだろう」
 ダリアは俯いたまま乾いた声を出す。
「・・・なるほど。・・・あれは、連中をたばかる為の台詞だったわけか・・・」
「・・・まあ、そういうこと。というわけで、ダリア、お前は私に代わってせいぜい地味にチキュウを支配してくれたまえ。聞き分けの無いお嬢様が二人がいるが、お前の言うことをきくように躾けておいたからな。大丈夫だろう」

 ダリアは返事をしない。沈黙が続く。

 そんなダリアの様子に溜息を一つつくと、シモンはダリアにマニュアルを渡す。
「じゃあ、これはもう要らないから。・・・まあ、何かあったら熟読してくれ」
「・・・何で船を下りる私がこんなものを読まねばならんのだ・・・」
「そういうな。新しい発見があるかもしれないぞ?・・・形見だと思って受け取れ」
 形見、の言葉にピクンと反応したダリアは、手を伸ばしてマニュアルを受け取り、その表紙に目を落としている。
 その静寂が耐えがたくなり、−−あるいはそんなダリアの様子を見ているのが忍びなくなり−−シモンはコンソールパネルに目をやった。色とりどりの光が乱舞して、目には悪そうだ。

「シモン・・・」
 その静寂を破ったのは彼女だった。
「・・・なんだ?」
「・・・やはりお前がこの船を下りろ。私が残る」
 シモンがダリアの方に振り向くと・・・ダリアはシモンを睨みつけている。その瞳には今までに無い強い意志が感じられる。
 シモンは溜息をついた。
「・・・はぁ・・・。お前も強情だなあ・・・」
「・・・・・・いいから、お前がおりろ」
 こっちの台詞には聞く耳持たないという風情のダリアに、シモンはやれやれとも言いたげに指を突き出す。ダリアの視点が一瞬その指に集中する。
「・・・・・・ダリア・・・これは命令だ。『サファイアとベリルを連れてお前がこの船から降りろ』」
 ダリアは暫くその指を睨みつけていたが、やがてその表情は弛緩し、瞳から意志が薄れ、次第に虚ろになっていく。
「・・・わかりました・・・シモン様・・・」
 ダリアは無表情に答える。シモンは虚ろな表情をしたダリアの髪の毛を、くしゃっとかき回しながら、
「・・・結局はこうなるか・・・。・・・最後くらいは命令したくなかったんだがな・・・」
 ピルルルル。警告音が鳴る。シモンは振り返り、コンソールパネルに目をやった。エネルギーがまもなく充填し終わることを示す警告が画面に表示されている。
 その時、シモンはふと気配を背後に感じた。

 振り返ったとき目に入ってきたのは、例のマニュアル−−−人を叩いたら殺せそうな分厚さを持ったアレ−−−を振りかぶったダリアの姿だった。


 ごす。
 鈍い音を立ててマニュアルの角がシモンの額に当たる。
 目から火花、という日本語は、比喩ではない。本当に飛ぶものなんだ、とシモンは知った。


「ダ・・・ダリア・・・お・・・まえ・・・」
 床の上に倒れこんだシモンが苦しそうにうめく。うめいた声が頭に反射して、それだけでひどく吐き気がする。
「・・・ほう・・・石頭だな・・・。本気で叩いたのだが・・・」
「・・・な・・・・・・」
 あまりの激痛でシモンはまともにダリアの顔が見られない。
「・・・お前なんかに最後までかっこつけさせてなるものか。せいぜい、醜く地べたを這って生き残れ。それがお前には相応しい・・・」
「・・・・・・な、なんで・・・」
 洗脳・・・されてたはずなのに・・・。
 シモンの声に何かを感じ取ったのか、ダリアは自分の耳の中に指を入れると、何かを取り出してシモンの前に投げた。
 転がってくるのは、小さな二つの耳栓。
「な・・・」
「・・・さっきお前が向こうを向いてる隙に入れさせてもらった。所詮、暗示文さえ聞かなければいいだけの話だ。まだまだだな、シモン。詰めが甘すぎる。・・・・・・せいぜい生き延びてチキュウで人の操り方を学んでくるがいい・・・」
 ダリアは操縦席のマイクのスイッチを入れ、サファイアとベリルを呼び出す。
「サファイア、ベリル、操縦室に来い。気分の悪いお客様が降りられるそうだ。手伝ってくれ」
 シモンはずるずると這ったままダリアの方に近寄る。
「・・・お、お前・・・まさか今まで全部・・・演技・・・だったのか・・・」
 ダリアはぼそりと、
「・・・そんなわけあるか・・・。本当に、この最後だけだ・・・」
「・・・じゃあ、な、何で・・・バカな・・・」
 ダリアはシモンを一瞥する。
「洗脳されている哀れな奴隷の私は、『おまえもこの船に来い』というバカ主人の命令を忠実に果たしているだけだ。バカよわばりされるのは心外だな」
 もうシモンは顔を起こす気力も無い。ダリアが腰をかがめる気配がして、ダリアの香りがする。耳元にダリアが顔を寄せたのだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・シモン・・・私は・・・・・・・・・・・・・で・・・・・・だから・・・・・・・・・・・・・・・」
 ダリアが何かを語りかけているが、暗い闇に意識を飲まれかけているシモンには、その声は意味のある言葉に結びつかない。顔はうつ伏せのまま、ダリアに向かって手を伸ばす。触れる体温。柔らかく、細く、震える彼女の腕。もう片方の手は彼女の頬に触れかかったが、ぬるっとした何かで滑って、そのまま床に落ちる。
 駄目だ。ダリア。
 ・・・せめてあれを、お前に伝えておかなければ・・・。・・・わずか可能性もゼロになってしまう。
 それを最後に、シモンの意識は闇に落ちていった。





 


「・・・さま・・・シモン様・・・」
「んあ!」
 シモンが眼を開く。目の前には暗闇、いや、暗闇の手前に白いぼやけた塊。慌てて目を擦る。
 なぜだか、頭がジンジンと痛む。
 暗さに次第に慣れてきた眼が焦点を合わせはじめる。ルピアだ。・・・いや、私服姿だから碧というべきか。
 シモンは腰を起こし、現状を確認する。
 深い紺に満ちた空には星が瞬いている。目の前の湖の水面は時折きらきらと月の光を反射してさざめいている。午睡していた持ち主を辛抱強く待ちつづけた釣り竿は、とっくに餌を小魚に取られてしまった。今はただ風に吹かれてゆらゆら動く浮きを繋ぎとめる役割しか果たしていない。
 碧は白いワンピースに身を包み、片手には小さなバスケットを持って、シモンの脇に座っている。もう片方の手には業務用のごつい懐中電灯・・・なのだが、ちょっと持ち方が奇妙だ。
 シモンは痛む額に手を当てながら、
「・・・お前、それで殴っただろ」
「・・・何のことですか?」
 にこやかに答える碧。

 ・・・何で俺に洗脳された奴らは、どいつもこいつも・・・。

「・・・目は覚めましたか?」
「・・・お陰様で」
 シモンは立ち上がると、固い土の上でごろ寝していたために痺れかけた腰をほぐすようにストレッチングをした後、釣り竿を回収する。
「・・・これを」
 碧はポケットからハンカチを取り出し、シモンに渡した。
 シモンは遠慮なくそのハンカチで顔を拭き、洟をかんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 碧の顔付きを見て、シモンは自分の行動がやや不適切であったことを悟ったらしい。
「・・・・・・西洋なら、ハンカチで洟をかむのは当たり前だぞ」
「・・・・・・ここは日本です・・・」
「・・・こんなちっぽけな星なのに、文化の差とは大きなものだな」
 シモンは湖でハンカチをゆすいで固く絞り、碧に突き出す。碧はそれを受け取って丁寧に畳む。
 虫の声が煩いくらいに地面に鳴り響く。
「・・・訊かないのか?」
「・・・・・・何をですか?」
 お互いの顔はよく見えない。それくらい、辺りには光が無い。ひんやりとした夜気を震わす声だけが二人を繋ぐ。
「・・・・・・・・・じゃあ訊いていいか?」
「・・・何をですか?」
「その箱の中の物が喰いたい」
「・・・・・・・・・・・・・・・どうぞ・・・」
 碧が持っているバスケットを開けると、そこにはサンドイッチが行儀よく並んでいた。
「お、気が廻るな。碧。いやー朝から何も食ってなかったんだよ」
 シモンは碧からバスケットを奪い取ると、サンドイッチをぱくつきながら、釣り道具一式を肩に担ぎスタスタと歩き始めた。碧は小さく溜息をついて、後に続く。
 しばらくして、サンドイッチの最後の欠片を飲み込んだシモンは、唐突に、
「・・・お前、『賢者の贈り物』って読んだことあるか?」
「・・・オー・ヘンリーですか?」
 意外な言葉に碧は戸惑う。
「そうだ、あの頭のおめでたい夫婦の、コミュニケーションの欠落を描いたブンガク史上のケッサクとかいうやつだ」
「・・・・・・昔読みましたが、そんなひねくれた話じゃなかった気がします・・・」
 シモンは、碧を振り返らずに続ける。
「あれって、不公平だよな。女は髪の毛が伸びるからいつかは髪飾りをつけられるけど、男の時計は売っちまったから帰ってこないんだぜ?時計の鎖だけでどうしろっていうんだよなあ・・・」
「・・・・・・だから、そんなひねくれた読み方は普通はしません」
 シモンは言葉を返さない。
 二人の足音だけが夜空に吸い込まれていく。
「・・・・・・・・・そういう、夢を見たのですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・髪飾りの包みの開け方を教え損ねたけどな・・・」
 シモンは口をつぐむ。
 碧も俯きながら、
「・・・みんなシモン様を心配しています。早く帰りましょう・・・」
「ああ。・・・そうだな」







 脱出カーゴのログ、さまざまな観測から得られたデータをシミュレータに放り込み、その後の船の位相転移の軌跡を計算した。そして、その成功率も。
 ゼロが並ぶなら救いようがある。だが、あるパラメータがゼロである以上、ゼロに何をかけてもゼロにしかならない。
 1000回ほどシミュレータを回した後、ようやくシモンはそのことに気がついた。
 



 でも、あいつなら。俺のヘッポコシミュレーションを嘲笑うような方法を。
 




 シモンは頭を振った。なんにしても埒の開かない想像だ。

 ただ、なんにせよ任務の達成を−−あるいは不達成を−−見届ける必要がある。その達成がどんなに薄い可能性だとしても、だ。それが命令した側の責任というものだ。
 だからせいぜいこっちは、ウドンが絶滅しない程度に、このチキュウを支配させていただこう。
 彼女が還ってきたときのためにも。

 




 
                  


             
"A"fter to "B"efore

 

        
end.

 

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