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ブンガク入門?の瞬間

◆ブンガク入門?の瞬間

中学の時、塾に通っていた。

その塾はレベル別にクラスがわけられており、私はいつも最下位のクラスだった。

この最下位のクラスというのが先生泣かせで、コンプレックスもあってか非常に騒がしかった。

しかし、先生には嫌われていなかったと思う。

京都大学の学生や院生が教えに来られていたような気がするが、今となってはさだかではない。

先生がたにしても、成績の良いクラスとは違い、最下位クラスの場合は気安さもあったかもしれない。

数学の先生が「今の君たちには、こういうものこそ必要だ」と、授業中に宮沢賢治の「よだかの星」を朗読してくださったこともあれば、国語の先生がプリントに印刷して持ってきてくださったのが川端康成の「抒情歌」だったりした。

本当にいいものを真摯に紹介された場合、子どもは黙る。

教室は水を打ったように静かになり、私たちは朗読を聞き、プリントを読んだ。

一方、そういう風潮なのだから仕方がないと言えばそれまでかもしれないが、今の日本には薄っぺらな言葉が氾濫し過ぎているように思う。

書店へ行けば、「こういう言い方をすれば、人に悪く思われずに自分の希望を通すことができる」的な本があふれている。

実際の人づきあいの中でも、誠実だと感じられるような言動はめっきり少なくなったように感じられる。

「子どものためを思って、やったんです」と言えば、何をしても許されると思っている親や教師。

「仲間に入れて遊んでやっていただけ」と嘘ぶけば、いじめが正当化されると信じ込んでいる子ども。

もちろん私を含めてだが、みな自分を守ること、自分が得することしか考えてない。

しかし、二人の先生方、特に数学の先生でありながら塾の授業中に「よだかの星」を朗読してくだった先生のような方もいる。

少なくとも、いた。

塾の経営者に見つかれば決していい顔はされないだろうに、それでも朗読してくださった。

国語の先生にしても、学校の成績や高校受験に即効性があるわけでもない「抒情歌」を「本当に良いものだから」と読ませてくださった。

もう、どちらの先生も、名前すらおぼえていない。

しかし、私の心のなかには、今なおこれら二作品がドクドクと脈打っている。


更新日:2013-05-01 15:50:32