2010/8/10  1:07

米軍の作成したレポートに見る、韓国人従軍慰安婦の実態  
(旧)社会党については、そもそも"そうゆう政党"なのですからまだ良いとしましょう。
ここで"そうゆう政党"とは、いくら善人を装い日本の良心を気取っていようとも、1995年の阪神神戸大震災において自衛隊への出動命令や在日米軍への応援要請をためらい、結果、多くの被災者を見殺しにした殺人狂、村山富一総理(当時)に代表されるような反日左翼の偽善者という事です。
しかし、日本新党を核とする細川護煕連立政権の誕生に伴い野に下っていたのを、そうと知っていながら自民党は社会党と連立しました。

その結果が、"歴史は勝者によって作られる"という真理の通り、戦勝国に都合の良い"自虐史観"を丸出しにした、>"「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)"です。
政権党に復帰したいと思うあまり、そうと知っていながら社会党との連立を選択し、あまつさえ村山富一を総理の座に就ける事を決断した自民党首脳部(当時)、売国奴です。
結果、"敗戦国として戦勝国により押付けられたので止むを得ず"というだけでなく、日本は自ら積極的に"絶対悪であった"と認めてしまったのです。
 
日本と半島の間の歴史問題を象徴するのが従軍慰安婦問題です。2007年には米下院で従軍慰安婦非難決議が採択されましたが、定員 425人の米下院において、採決に参加したのはわずか10人です。
朝日新聞などは"全会一致で採択された"と大はしゃぎでしたが、確かに"採決に参加した10人全員が賛成すれば、全会一致は全会一致"で間違いありません。
決して捏造でも虚偽でもないのですが、こうした報道の仕方は悪質な印象操作と言えましょう。
 
やはり、朝日新聞を筆頭に反日左翼勢力の牛耳る日本の偏向メディアが決して報道しない事実として、他ならぬ韓国の大手新聞社である朝鮮日報の報道する事実は、>"【コラム】「慰安婦決議案」のその後(上)(下)"の通りです。
記事原文は現在、登録しないと読めないようになっていますが、私の記憶する限り、記事原文はこのサイトにコピペされている内容で間違いありません。
これらの事実は、反日左翼メディアの"都合の悪い事は報道しない"という報道の自由により、"無かった事"にされているのです。
 
ただし、それでも悪いのは日本です。旗振り役のマイク・ホンダ議員が現地の中華帝国の息のかかった勢力から多額の献金を受けておりその手先となっていると揶揄する声があります。
しかしそれが仮に事実としても、従軍慰安婦問題は元々は日本国内の自虐史観派の反日左翼メディアと政治勢力が反日キャンペーンに利用しようと捏造した物です。
中国や韓国、あるいは米国は日本が自ら作り出した問題に便乗しただけであり -- 従軍慰安婦問題に限らず、他にも同様の事例は多いのですが -- 文句を言うのは見当違いです。
 
そして、"日本が強制し、性奴隷として使役した"という証拠もないのに、>"慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話"出して日本を貶めた、河野洋平外相および宮沢喜一総理のような自民党首脳(いずれも当時)、売国奴です(>"幻の従軍慰安婦")。
さらに、米国の非難決議が間近になると、河野談話を継承するとしながら狭義の意味での強制性を否定するという珍妙な事をしたのが安部総理(当時)です。
狭義での強制性を否定しながら河野談話を再確認したのは、論理的に完全に矛盾しています。
 
もともとからして反日左翼自虐史観派の政治家であるならまだましであったでしょう。
しかし、本来は保守でありながら土壇場で日本を裏切り日本を貶めた安部総理および自民党、売国奴です。様々な圧力があった事は承知ですが、それなら最初から狭義うんぬんなどと言わない事です。 
今年は大日本帝国による韓国併合(1910. 8/29th)の100周年であり、韓国は -- 別に今年に限っての事ではなく、いつもの事ですが -- 反日活動に余念がありません(>"猛暑の東京で、植民地支配に対し謝罪と補償を要求するデモ -- 韓国メディア")。
 
日本国内の謝罪マニア(自虐史観派反日左翼勢力)もそれに呼応し、"日本は絶対悪であった"と半島に土下座するべく画策しています(>"韓日議員で過去清算促す共同声明、民主党議員が推進"
>"日韓併合100年の首相談話、与党とも協議 官房長官"

> 仙谷由人官房長官は2日午前の記者会見で、日韓併合100年となる29日に日本政府が発表を検討している首相談話について「発表するとすれば当然、与党のしかるべき部署とも協議することになる」と述べた。談話をめぐっては民主党内から与党との調整が必要との意見が出ていた)。
 
加えて、米国においても従軍慰安婦問題で日本をさらにつるし上げようという動きがあります(>"慰安婦:米議員「日本政府は積極的に決議履行を」")。
ここに、2007年に米下院による従軍慰安婦非難決議の採択の前後に話題になりましたが、太平洋戦争の最中に米軍情報部心理作戦班が、捕虜とした韓国人従軍慰安婦に尋問を実施した結果をまとめたレポートがあります。
このレポートから判断する限り、韓国人従軍慰安婦の実態は、↓のようになります。

 ・募集は日本軍が直接行ったわけではなく、業者が仲介した。
 ・応募者の多くは無学であり、家族の借金のために数百円の前金を受取り契約した。
 ・慰安婦の収入は総売上げの半分程度であり、平均的な月収は 750円程度(当時、日本軍将校(少尉)の月給は 70円)。
 ・食事は十分であり、軍医による定期的な健康診断も実施され、慰安婦の健康状態は良好であった。
 ・規則により夜間と早朝の接客は禁止されていた。但し、将校は割増料金を払う事で宿泊できた。
 ・慰安婦には避妊具が支給され、接客拒否の権利もあった。例えば、酔った客は時に拒否された。
 ・週休1日制であり、オフの日に健康診断が行われた。
 ・オフには、客の将兵とスポーツやピクニック、デートや食事等を楽しむ事もあった。
 ・町にショッピングに行くことが許されており、その為のお金も持っていた。
 ・借金を返済し、契約条件を満たした者は、帰国が可能であった。
 ・客から求婚する例が多くあり、実際に結婚に至った例もある。

米軍情報部心理作戦班というからには、心理戦が任務です。具体的には"米国は正義の名の下に、悪の大日本帝国を成敗する"という、敵味方双方への宣伝も任務の1つです。
従って、この尋問も"日本とは如何に悪い国であるか"と宣伝するための材料探しが目的であったと言えるでしょう。
'多くの"主人"が、彼女らに食物その他の物資に高い価格を請求する事で、彼女らの暮らしを非常に苦しくした'といった表現に、"韓国人慰安婦がどれほど酷い目にあわされているか"と印象操作しようと苦心した跡が伺えます。
 
実は、同レポートに明記されている韓国人従軍慰安婦の平均的手取り収入は、日本人少尉の10倍以上という金額なのですが・・・・・
↓に、同レポートの全文(>"Report No. 49: Japanese POW Interrogation on Prostitution.")、およびその邦訳を記載します。
(ただしこれは冗長ですので、面倒な人は"慰安婦の実態とは上にて要約されている通りなのだ"と理解して、レポート本文については飛ばして先へ読み進み下さい)。
 
UNITED STATES:米国
OFFICE OF WAR INFORMATION:米軍情報部
Psychological Warfare Team:心理作戦班
Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater:米軍インド・ビルマ方面作戦部隊付
APO 689:(郵便番号)
Japanese Prisoner of War Interrogation:日本軍の捕虜尋問
Report No. 49.:レポートNo. 49
Place interrogated: Ledo Stockade:尋問場所:Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944:尋問期間:1944年 8/20 - 9/10日
Date of Report: October 1, 1944:レポート発行日:1944年10/1日
By: T/3 Alex Yorichi:レポート作成者:T/3 Alex Yorichi
Prisoners: 20 Korean Comfort Girls:捕虜:20名の韓国人慰安婦
Date of Capture: August 10, 1944:捕虜とした日:1944年 8/10日
Date of Arrival: August 15, 1944 at Stockade:Stockade到着日:1944年 8/15日

PREFACE
:序文
> This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyina in Burma.
このレポートは、ビルマのミートキーナ陥落後の掃討作戦において1944年8/10日頃に捕虜とした、20人の韓国人"慰安婦"、および2人の日本の民間人の尋問から得られた情報に基づく。
 
> The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.
レポートは、日本人がどのように韓国人"慰安婦"を募集したか、彼女達の置かれた生活や労働の条件、日本兵との関係や対応、そして軍事的状況への理解を示す。
 
> A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.
"慰安婦"は、単に軍人にサービスするため日本軍に付加された売春婦、あるいは"プロの非戦闘従軍者"以上の物ではない。"慰安婦"という言葉は日本人に特有だ。他はレポートは、どこであれ日本軍が戦うために必要な場所で"慰安婦"が見つかる事を示す。このレポートはしかし、単に日本人に募集されて、ビルマの日本軍に配された韓国人"慰安婦"を対象としている。日本人は、1942年にこれらのおよそ 703人の女性をビルマに送ったと報告されている。

RECRUITING
;募集
> Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.
1942年5月初旬、新たに征服された東南アジアの日本の領土での"慰安サービス"のため、韓国人女性を募集する目的で日本の業者が韓国に到着した。この"サービス"の内容は明確にされなかったが、病院の負傷者を訪問し、包帯を巻き、そして一般的に軍人を愉快にさせる事と関係した働きだと思われた。これらの業者が用いた誘因は、多額のお金であり、家族の負債を返済する機会、楽な仕事、および新天地シンガポールにての新たな人生の見通しであった。これらの虚偽の表示に基づき、多くの女性が海外での仕事に応募し、数百円の前払金を与えられた。

> The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...
女性の大部分は無学で無教育であり、しかし幾人かは以前に"売春"を生業としていた。彼女達が前払いを受けた家族の負債に応じて、彼女らがサインした契約は6ヶ月から1年の期間、軍の規則および"舎監"との戦いに彼女達を拘束した....

> Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
およそ 800人のこうした女性がこの様に募集され、そして彼女らはその日本の"舎監"と共に1942年 8/20日頃、ラングーン周辺に配された。彼女らは8人から 22人のグループに分けられた。ここから、彼女達はビルマの様々な地域、通常は日本軍の陣地近くの相当な大きさの町に配された。

> Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.
結局、そのうちの4グループがミートキーナに到着した。それらは、"Kyoei"、"Kinsui"、"Bakushinro"、および"Momoya"であった。Kyoei慰安所を"丸山クラブと呼んだが、丸山大佐(ミートキーナ守備隊の指揮官)が自分の名とまぎらわしいと反対した事で、女性達がミートキーナに到着した時に変更した。

PERSONALITY
;個人的特徴
> The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.
尋問は、平均して韓国人"慰安婦"はおおよそ 25才、無学で子供っぽく、利己的である事を示す。彼女は、日本の、あるいは白人の、どちらの基準で評価してもかわいくはない。彼女は利己的な傾向があり、自分に関して話す事を好む。彼女の態度は、他人の面前では静かで控え目だが、彼女は"女としての知恵を知っている"。彼女は、彼女の"職業"が嫌だと主張し、その事、あるいは家族に関して話そうとしない。囚人としてミートキーナおよび Ledoの米兵から受けた親切な待遇により、彼女は彼らが日本の軍人より情緒的と感じている。彼女は中国の、そしてインドの兵士を恐れている。

LIVING AND WORKING CONDITIONS
;生活および労働の条件
> In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.
通常、ミートキーナでは女性達は各々の女性の個室がある大きな2階建(通常は校舎)に宿営した。そこでは、各女性は生活し、眠り、そして仕事をした。ミートキーナでは、日本軍からの通常の配給を受取らなかったため、彼女達の食料は"舎監"が用意した物を購入した。彼女達は、ビルマの他の場所との比較で、ほとんど贅沢に生活した。この事は、ビルマでの彼女達の2年目の境遇に関して特にあてはまった。彼女達は食物と物資について高く価格設定されておらず、そして欲しい物を購入するためのお金を十分に持っていたため、良い暮らしをしていた。家からの"慰安袋"を貰った兵士により彼女達に与えられた贈り物だけでは足りない物を補うため、彼女らは服、靴、タバコ、および化粧品を購入する事ができた。

> While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.
ビルマにいる間、彼女らは、将校および一般兵の双方と共にスポーツ大会に参加し、ピクニック、娯楽、および晩餐会に出席して楽しんだ。彼女らはレコードプレーヤーを保有し、そして町では買い物に行く事が許されていた。

PRIOR SYSTEM
;先払い制
> The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:
労働の条件は軍に規制され、そして混雑した地域では規則は厳密に履行された。軍は、混雑した地域では特定の分野で作戦中の様々な部隊に対し、価格、優先順位、およびスケジュールの制度を導入する事が必要だと理解した。* 尋問によると、平均的な制度は以下の通り;

> 1. Soldiers 10 AM to 5 PM  1.50 yen  20 to 30 minutes

   一般兵  午前10時〜午後5時  1.5円   20〜30分
> 2. NCOs  5 PM to 9 PM  3.00 yen  30 to 40 minutes
   下士官  午後5時〜午後9時  3円    30〜40分
> 3. Officers  9 PM to 12 PM  5.00 yen  30 to 40 minutes
   将校   午後9時〜午後12時 5円    30〜40分
> These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.
これらはビルマ中部での平均価格だ。将校は、20円にて夜通し滞在する事を許されていた。ミートキーナでは、丸山大佐がおよそ平均値段の半分に価格を値引きした。

SCHEDULES;
スケジュール
> The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.
軍人は、しばしば慰安所の混雑に関し不平を述べた。軍は長居に関して非常に厳しかった事で、多くの状況で彼らはサービスを受ける事なく去らねばならなかった。この問題を克服するため、軍は特定の部隊に特定の日を設定した。通常、当日の部隊から2人の男性が、兵士を特定するため慰安所に配置された。秩序を保つため、憲兵が近くを巡回していた。以下は、第18師団の様々な部隊が Naymyoにいた間、"Kyoei"慰安所により使用されたスケジュールだ。

Sunday 18th Div. Hdqs. Staff
:(日)、第18師団. 指令部スタッフ
Monday Cavalry:(月)、騎兵
Tuesday Engineers:(火)、技師
Wednesday Day off and weekly physical exam.:(水)、休日および毎週の身体検査
Thursday  Medics:(木)、医療スタッフ
Friday Mountain artillery:(金)、砲兵隊
Saturday Transport:(土)、輜重部隊(訳者注;兵坦担当)

> Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

将校は、週に7晩来る事を許されていた。女性達は、スケジュールがあっても非常な混雑のため全ての客に対し対応する事ができず、結果、軍人の多くに残念な思いをさせていると不平を述べた。

> Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.
兵士は、慰安所に来て、代金を支払い、左側に順番が、反対側に慰安所名が記された2インチ四方程度の段ボール紙のチケットを受取る。各々の兵士の所属、あるいは階級は、彼が"列に順番に並んで"後に確認された。顧客を拒否する特権は女性に許容された。過度に酔っている場合には、しばしばこれが為された。

PAY AND LIVING CONDITIONS
;支払いと生活の条件
> The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
"舎監"は、契約にサインした時点で各々の女性がどの位の負債を負っていたかにより、女性の総収益の 50〜60%を受け取った。これは、女性が平均的に月におよそ1,500円を稼いだ事を意味した。彼女は、750円を"主人"に渡した。多くの"主人"が、彼女らに食物その他の物資に高い価格を請求する事で、彼女らの暮らしを非常に苦しくした。

> In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.
1943年後半、軍は債務を返済した特定の女性は帰国する事ができるという命令を出した。何人かの女性がこうして韓国に戻る事ができた。

> The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.
尋問は、さらにこれらの女性の健康状態が良好であった事を示す。彼女達は全ての方式の避妊を良く施され、そしてしばしば、兵士は自身が軍に供給された物を持って来る。彼女達は、衛生の問題に関し、自分達と顧客の両方の世話をする訓練を受けた。週に1度、日本の正規の軍医が慰安所を訪れ、病にかかった女性は治療を受け、最終的には病院に送られた。陸軍自体の者達にもこれと同じ処置が施されたが、兵士が隔離されていた期間の賃金も失効しなかった事は興味深い。

REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS
;日本兵への対応
> In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitu of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.
尋問の結果、日本人将校および兵士との関係において、結局、2つの名前だけが出て来た。それらは、ミートキーナ守備隊の指揮官の丸山大佐、および援軍を引連れてきた水上少将の物であった。2人は正反対だ。前者は、厳しく利己的でよそよそしく、彼の部下への配慮が無かった;後者は彼の下で働く者達に最大の配慮を為す、良い親切な男性で、素晴らしい軍人であった。司令官は決して慰安所を訪れなかったが、大佐は慰安所の常連であった。ミートキーナ陥落により、水上司令官は兵士を退避させる事ができなかったため自決した一方、丸山大佐は恐らく逃亡した。

SOLDIERS REACTIONS
;兵士の対応
> The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.
"場所が人で一杯の時に並んで順番待ちしなければならないなら、彼は恥ずかしく思う傾向がある"と言った女性の1人によると、普通の日本兵は"慰安所"にいる事を人から見られるとバツが悪そうであった。しかしながら、多数の求婚の例があり、そしてある場合には実際に結婚が行なわれた。

> All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."
全ての女性が、彼女らに会いに来た最悪の将校と兵士は、酔っていて、そして翌日に出ていく者達だと同意した。しかし同様に、非常に酔っぱらってはいても、日本兵が彼女らと軍事の件あるいは機密について決して議論しなかった事に全員が同意した。女性は何らかの軍事の件に関して会話を始めるかもしれないが、将校あるいは下士官兵は話さず、しかし実際、"女性的ではない事について議論する事に関して私達をたしなめる。丸山大佐が酔っていた時さえ、そうした件について決して議論しない"。

> The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".
兵士達は、しばしば、家から雑誌、手紙、および新聞を受け取る事がどれほど楽しいかを語る。また、彼らは缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、ミニチュアの人形、口紅、および木製の衣服で一杯の"慰安袋"の中身について語った。口紅と衣類は女性用品であり、女性達は家の者達がなぜそうした物資を送るのか理解できなかった。彼女らは、送った者は単に、自分達、あるいは"地元の女性達"が念頭にあったのではないかと推測した。

MILITARY SITUATION
;軍事的な状況
> "In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.
"Myitleynaと滑走路への初期の攻撃では、およそ 200人の日本人が戦死し、町を防衛する 200人が残った。弾薬は非常に少なかった”。

> "Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."
丸山大佐は部下を分散した。その後の数日間、敵は行き当たりばったりに至る所に撃っていました。何であれ、彼らは特定の標的を狙っていたようには見えなかったため、それは無駄でした。一方、日本の兵士人には、彼らが確実に命中できると確信がある時だけ撃つようにと命令されていた"。

> Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.
敵が滑走路の西を攻撃する前、ミートキーナ周辺に配置された兵士は、北方および西方での連合軍の攻撃を迎撃するため、他の場所に急派された。主に第114連隊からおよそ 400人の兵士が残された。明らかに、丸山大佐は、町が攻撃されると予想していなかった。その後、第56師団の水上少将は2連隊以上の援軍を引き連れてきたが、これらは町を維持できなかった。

> It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.
連合軍の爆撃が激しく恐ろしというのが女性達の間の意見の一致であり、それゆえ彼女達は防空壕にて最後の数日のほとんどを過ごした。1人か2人は、そこでも仕事をした。慰安所が被弾し、数人の女性が死傷した。

RETREAT AND CAPTURE
;退却、そして捕虜へ
> The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any means of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.
退却および"慰安婦"が最終的に捕虜となる話は、彼女達自身の心の中でいくらか曖昧であり混乱している。様々なレポートから、以下の事が起こったように見える:7/31日の夜、3軒の慰安所("Bakushinro"は "Kinsui"に合併された)の"慰安婦"を含む 63人の集団(家族、およびアシスタント)は、小さいボートにてイラワジ川を渡河し始めた。彼らは Waingmaw近くのどこかに上陸し、そこに 8/4日まで留まり、しかし Waingmawに決して入らなかった。そこから、敵と小競り合いがあり集団が散り々々となる 8/7日まで、彼らは兵士の一団の後に続いた。女性達は3時間のインターバルの後に兵士に続くよう命令された。彼女達はこのようにした結果、兵士達の影も形も無く、あるいは渡河するための手段も無いまま川岸に残されている事を知った。英国人将校に指揮された Kaahin兵に捕虜にされた 8/10日まで、彼女達は近くの家に留まっていた。彼女達は、"Myitleyina"へ、そしてこのレポートの基礎となる尋問が行われた Ledoの営倉に連行された。

REQUESTS
;要請事項
> None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."
女性達で、ミートキーナにて使用された大音量スピーカーを聞いた者は誰もいないようであり、しかし兵士達が"無線放送"について言及するのをしっかり立ち聞きしたようだ。

> They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.
彼女らは、軍が彼女らが捕虜となった事を知っているなら、他の女性達の命を危険にさらすので、"慰安婦"の捕虜について言及したパンフレットは使用されるべきでないと要請した。彼女らは、韓国向けに計画されたどんなビラ散布計画においてであれ、彼女らが捕虜となった事実を利用する事は名案だと考えている。

 
プロのレーサーは、週末にレースを控えた週には性欲が異様に高揚すると言います。命懸けのバトルを控え、"自分の遺伝子を残したい"という本能が起動するのでしょう。
まして、戦場で日々を過ごす兵士ともなればなおさらです。適切に処理しないと、見かけた女性を強姦に及ぶか、あるいは隣の兵士を相手にいけない道に走りかねません。
従って、西洋の軍隊にも性欲の処理を任務とする非戦闘従軍部隊が当然に存在します。このレポートにもある"camp follower"という言葉が該当します。
 
例えば、日本の降伏後、米軍が進駐してきたその日の夜から米兵による日本人女性への暴行が多発しています(>"真実の証明を世界に!中")。
そのため、日本は米兵の性欲の処理を目的に公設の売春宿を用意していた事が報道されていますが、この件について The Japan Timesに記事が掲載されたのは、まさに米下院にて従軍慰安婦非難決議への気運が高まる中で安倍総理(当時)が訪米する直前でした。
私としては、米下院への牽制であったろうと疑っています(>"Coercion seen in brothels for Occupation")。
 
ちなみに、ヴェトナム戦争における米兵の性欲の処理について記されているのが>"Against Our Will: Men, Women, and Rape"という書籍です。
朝鮮戦争においてはどうであったかと知りたい人は"テキサス村 朝鮮戦争"でググッてみれば、色々と面白い事が分かると思います。
勿論、朝鮮戦争の停戦後も、韓国は駐留している米軍の兵士に対し、慰安婦を供しています(>"★「韓国は在韓米軍に慰安婦を提供していた!」 NYTが一面で報じるも、朝日新聞は黙殺")。
 
定数 425人の米下院において10人しか採決に参加しなかったのは、こうした当り前の事を"当り前"と認識している議員は、"ブーメランのように米国に戻ってきかねないと承知していた"という可能性もあるでしょう。
つまり米国も韓国も同罪なのですが、日本ばかりがバッシングされる理由は、国内の反日左翼勢力が"性奴隷問題"に話を摩り替え、しかも河野談話により国家として認めてしまったからです。
米国や韓国を批判するのは容易ですが、しかしこれは日本が自ら作り出した問題であり、誰よりも日本に責任がある問題"です。
 
現代日本においても、性欲の処理を目的に男性にサービスする産業も、それに従事する女性も健在です。そしてそれは世界中で同じ事です。
米国も韓国も例外ではありません(別にそうでなくとも、半島のようなキーセン国家においては、そもそも売春は歴史的に基幹産業であり国策産業なのですが)。だからと言って、それだけなら"性奴隷"などと非難する理由にはなりません。
そして慰安婦制度とは、その中でも兵士の性欲の処理を目的とした制度であったのです。その実態とは言えば、現代風に言えば業務の民間へのアウトソーシングです。
 
ここで、従軍慰安婦問題についての反日左翼勢力の詭弁的な常套手段は、"軍部の関与"を"軍令による強制"とすりかえる事です。
アウトソーシングであるからには、あれこれ口を出し規制や指導を行い、時に便宜を図る事、つまり軍による"関与"は当然なのです。つまり、争点は"軍の関与があったかどうか"ではなく"軍令による強制の有無"なのです。
しかし反日左翼勢力は"軍の関与があった証拠"を以て、"軍による強制が為された証拠、性奴隷であった証拠"と強弁するのが常であり、それに乗せられない事が肝心です。
 
冒頭、私は"村山談話"や"河野談話"を出した自民党(およびその連立政権)やその重鎮を"売国奴"と批判していますが、では私自身はどうなのでしょう。
やはり売国奴です。何故なら、民主主義とは1人々々の国民に広く権力を分散する制度であり、つまり政治に関し最終的には全て国民の責任です。
そして、これらの談話が出された当時の私は今より遥かに左翼思想に洗脳された状態にあり、"ハラワタ煮え繰り返る"という思いをした記憶は無いからです。"1人の国民"、"世論の一部"として、責任が無いという事はありえないのです。
 
"菅談話なんて出そうとは、民主党は自民党の愚行から何も学んでおらず同じ失敗を繰り返すのか"と文句を言っても、最早、阻止する事は出来ません。
"村山談話"や"河野談話"がどれほど日本を不当に苦しめ、どれほど日本が損をしているか。これに"菅談話"が加わるのです。
しかし菅政権ばかり批判しても意味無しです。民主党政権を誕生させたのは、この国の主権者たる国民であり、国民の責任だからです。しかし、例えば"個人補償"への道を開けば、最終的には"課税"という形で国民が支払わねばならないと覚悟せねばなりません。

NOTE;
>従軍慰安婦の真相
 
>朝日の偏向・ねつ造【社説】
 
>菅政権の売国、屈辱外交を粉砕せよ!
 
>歴史問題の公開討論会を要求する!
 
>日韓併合100周年で管談話を15日に発表か 〜管内閣は史上最悪の村山内閣を超えるか〜
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