先日、掲示板で”判っているな”という人間の書き込みを見ました。
人と言う実態を三つに分けて説明していたものです。
まず、本体としての”意識(魂=霊体)”があって、”肉体と言う器”があって、
”それを動かすエネルギー”のようなものが存在していると言う内容でした。
人の機能を三つに分けて説明していたわけです。
私や兄弟姉妹と理解者であれば判るように
これはまさに私達が学んでいる生命の実体でもあります。
さらに、これはそのまま三位一体と言われている
キリスト教の教えとも無関係ではないと思います。
以前三位一体を説明するにあたり、三位一体というのは私達、
創造主の分身としての人間そのものでもあると言うコメントを
させて頂きました。
”三位一体”は生命そのものを表現するための例えになると言う話でです。
アダムスキーの言葉で言えば1+1=3が
数学方程式ではない、生命の方程式でした。
これは二つの異なるものが交わる時に、そこにもう一つの物が生まれると言う
宇宙の法則を現した数式だと言う話でもありました。
万物は全てそのようにして生まれることになります。
陰と陽、光と影、男と女、三次元と四次元、
そんな異なるもの同士が交わる時にそこには新たな現象、存在が生まれる。
人間であれば母親の遺伝子と父親の遺伝子を受け
その両方の遺伝を受け継ぎながらも
それとは別の存在として子供が生まれることになります。
そして万物はすべてが似ていながらも全てが微妙に異なり
全く同じ存在はないのだと言う事を
アダムスキーも取り上げていたはずです。
二つの要素が交わる時にそこにもう一つの要素が生まれる。
その結果万物は全てが似て非なるものとして
存在することになるようです。
その存在は当初の両方の性質を持ちながらも
その両方とは異なった性質を持つ存在として表現される。
それは時には三つが一体化して機能する。
これが1+1=3の本来の意味だと私は理解しています。
三位一体というのは元々がキリスト教の聖書には一切記述がないはずですし
古代のエジプトなどの古文書や言い伝えに起源を発しているようです。
それをキリスト教社会がイエスの神性を議論する上で
三位一体という言葉と結びつけて
聖書の神を、父なる神であり、精霊なる神であり、
神が肉体を持った化身であるイエスと言う名の人間であると解釈したわけです。
宇宙の法則的に言えば三次元を司るのが創造主の母性原理で、
四次元空間を意識を覆っているのが父的原理であり
その交わりで生命が生まれていると言う説明でもあったはずです。
ここでは創造主の存在が父なる存在と母なる存在に分けられて
それぞれ三次元と四次元を司ると言う表現をされていました。
(これをもまとめて理解しようとすると混乱するので気をつけてください)
元々の創造主が男でも女でもなかった事や、(男性面と女性面を併せ持つ存在)
金星のシンボルが母性原理と父性原理からなる事を思い起こしてください。
あれは生命の起源であり神の現われの象徴のようです。
私達は三次元と四次元の両方に実態を持つことになり
その境界で生命を与えられた存在です。
私達人間は魂という本体を持ち、肉体と言う実態をもち
その境界でエネルギーを与えられて存在していると
理解する事になるのだと思います。
つまり冒頭で引用した、
三つの要素が私達を生命としていると言う話は
そのままこの法則に繋がる事になります。
それは真理を語っているわけです。
父なる魂の実態と母なる肉体と、
それを生かす生命と言うエネルギーが一体化して機能する。
そんな例えだと判りやすいかもしれません。
これはそのまま三位一体として理解できます。
その場合にもしも生命エネルギーを”聖霊”として認識すれば
これはそっくりそのまま
父なる、子なる、”聖霊”なる存在としてのイエスキリストの事をも
表現できると思います。
つまり聖霊なるものは独立存在しているわけではなくて
創造主のエネルギーや其の知識や知恵として認識できますし、
テレパシーでもあります。
私達の魂は四次元空間の創造主の残留思念の一部ですし
それは父としての本体を持つ事になります。(父なる神)
私達の肉体はこの母性原理で三次元で元素を持って作り上げられたものですし、
それを実態としています。(人の子なるイエス)
その両者は三次元と四次元の中間で
エネルギーによって結び付けられ生命を得ている。(聖霊)
三位一体と言う言葉は
本来はイエスの神性を表す言葉ではなかったと言うこと。
しかし聖書では神としての三つの主体が認識されています。
イエスの語っている”父なる神”の存在を認め、
そして人々は更にイエスを”神の一人子”と信じた。
更には聖書では”聖霊”と言う存在が頻繁に現れます。
私達にしてみれば、
イエスキリストは神の子であり同時に人間ですし
”神の一人子”などではあり得ません。
(ヨハネの福音書はイエスを神としていた
一派の作成だと言うのは有名な話です)
私達人間の誰もが同様に神の子であり人間のはずです。
しかし宇宙の法則を理解できない私達の社会では
その事さえ認識できない事もあり、
これらの要素を”神の三つの現われだ”と勘違いしては
それをまとめて神として奉っている事になります。
何を持って神とするかは、ある意味どうでも良いことで
私達が魂から其の御心を受けて生きる事が出来るかどうかが
大切なのだと思います。
私達の進化と転生に関わってくるからです。
何を神と信じるかは本来は重要ではないのです。
問題は魂の意識の経路から受け止めた
神の御心を実践することだからです。
そして自分が受け止められなければ新約聖書の
イエスの言葉を実践する事になります。
しかし”イエスを神と信じると救われる”としている人間達にとっては
イエス=神でなければいけないのかもしれません。
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ところで、元々の三位一体という説明が”生命の摂理”を説明する時に
使用されていたのだとすれば
イエスの場合は、神なる父の分身を四次元で魂として持って
この三次元で”万物の母”の子としての肉体を持ち
そこに精霊と呼ばれているエネルギーを注いで
生を受けている存在だと言う事にもなります
”父”と”子”と”聖霊”がイエスと言う存在を通じて表現されている。。
そんな言い方も出来るかと思います。
これは人間の本来あるべき実態そのものですし、
イエスを見習うのなら人間誰もが実践しなければならない
私達の生き方そのものでもあります。
しかし私達は父なる魂をその本体として受け継ぎながら
それを意識として受け止める事が出来ません。
でもイエスキリストは人間としての肉体を持ちながら
その父の意志を強く表現する事が出来ました。
「私が為しているのではなくて父が私の肉体を通じて為している」
と言う表現は、イエスが自分の心の意志を持って行動しているのではなくて
自分が魂から受け止める父の意志を表現しているのだと言う事に他なりません。
勿論、時には心を持って暴走し、
両替商を神殿から追い払ったような記述もありますが
イエスは常に創造主の意識を受け止めて
それを表現する事に勤めていたはずです。
イエスは四次元の神の残留思念を自らの魂を持って感じていて、
その時に降りてくる印象やテレパシーを聖霊と呼んだはずです。
そして自らは”人の子”と名乗るようにしていたはずです。
(神の子と触れることで誤解が広がるからだと思います。)
そんなイエスを神の化身として見つめた人間たち、
そしてその奇跡を持って神の身業と認識した人間たち、
更にはイエスの教えを福音するためにイエスを意図的に美化した使徒や、
ヨハネの福音書を記述した人間達によって
イエスは神に奉りあげられる事になります。
しかし勿論、実際には神には三つの形態があるわけでもなく
イエスは自分をもっと創造主の意志を表現し、それを私たちに伝え、
超能力をも実践して見せた生身の人間だと言うことです。
(時には天使達のハイテクをも効果的に利用しながらです)
そして私達はイエスがスペースブラザーズのメンバーの一人であり
その中でもマスターと言われる存在の一人(おそらくは地球担当のマスター?)
だと想像しています。
イエスが2000年前の社会の中で
黙示録として演じて見せようとした”天からの新しいイスラエルの到来”では、
イエスの横に金星のマスターが付いて
自ら神を演じる予定があったのだろうと想像しています。
そしてイエスが時折語っていた”力ある方”は
それが人間的な表現であった時にはおそらくは金星のマスターを意識していた。
更には自ら”神”と名乗り天からイエスに語りかける役目をしていたのも
おそらくはこの人物だと思います。
少し前に記事でコメントしていたのは
この金星のマスターはもしかしたらお釈迦様だったかも知れないという可能性です。
金星由来のイエスとそしてアダムスキーが共に仏教を学んでいることは
絶対に偶然だとは思えないからです。
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私が気が付いているキリスト教の弱点は
実はイエスを神として奉っている事だと思います。
イエスは人の子です。
幾らブラザーズの転生であり聖人であったといっても、
この社会の波動の中で成長したイエスは完全と言うわけにもいかず、
天使達の域には達することは出来ませんし、
其の言動には粗を探して突っ込む余地が満載だと言うことです。
そして現に敵対者達にも随分と揚げ足を取られていたはずです。
今でもキリスト教に敵意を持つ人間達は、
そんなイエスの至らない部分や
誤解されるような発言内容などを取り上げてはそれを批判し、
強いてはキリスト教自体を否定してみせます。
例えば聖書の中でのイエスは怒りんぼに見えます。
神殿の一件もそうですが、聖書の中では悟らない弟子達に
憤りを表現する場面も出てきます。
勿論それが神への信頼や信仰から来ている事も間違いないでしょうが
聖書から見て取れるイエスはとても人間的なのです。
(地球社会の人間に見えると言うこと)
其の転生としてのスペーズブラザーズのオーソンが
アダムスキーと語っている内容を見ても
凄まじいギャップを感じることにもなります。
その様子は聖書のイエスよりも遥かに穏やかに見えます。
でも間違いなく同じ魂のはずです。
更には天使達一人一人が
地球の聖人と呼ばれた人間達などよりも
神々しくも見えます。
「この世で一番大きな者であっても
(聖書ではバプテスマのヨハネ、現実社会ではイエスや他の聖人)
天の御国ではもっとも小さき物となる」
という例えがそこからもはっきりと認識できるのです。
そしてイエスが神とされた事で、当時のイエスの欠点や至らなさが
そのままイエスの教え自体を否定する原因、
信憑性を落とす原因となっていると言うことです。
時には人間的で、
神としては時折粗も見えるイエスを
神や神の化身とすれば、
イエスの行動すべてが
神の意志であるという事にされているわけですから
其の一つ一つの行いが神の意志だという事になります。
しかし地球社会で転生し、地球の人間らしさを残しているイエスは
全知全能の創造主を完全には再現できてはいません。
結果的にイエスを神とすることで、イエスの語った”父なる神”は
人の子イエスのレベルにまで落とされる事になります。
イエスは聖人であって神ではないのですから完全ではなく、
その不完全な人間を神とする事で
イエスの語った本来”全能である万物の父なる神”は
其の信憑性をも落とされる事になるわけです。
もしかしたら大昔にイエスキリストを神として三位一体を主張した人間達の中には、
そんな意図を持っていた人間がいたのかもしれません。
イエスは旧約聖書の人格神を否定して、
滅びたイスラエルの家の羊達を父なる神に誘導しようとしたのに、
自らが神とされる事で、
今度は旧約の神と比較される対象になったとも言えます。
旧約聖書の神と比較すべきはイエスではなくて、
イエスの語った”宇宙の創造主”でなければいけないのです。
現に今の社会では、聖書の内容を取り上げては
其の中でのイエスの一般の人間と変わりない欠点などを取り上げ
イエスを異常者扱いしたり、とんでもない人間であるとしては
結果イエスの父なる神、
しいてはキリスト教を貶めている人間達がいます。
そんな弊害が現実に存在していると言うことを
クリスチャンは理解すべきだと思います。
イエスの使徒達はイエスを神だと崇める事を
求められていたわけではないはずです。
求められていたのは真理を福音することと
そして自らは神の御心を実践することです。
イエスの神聖化はそのための手段に過ぎなかったはずです。
「イエスを神と信じて救われる」
そんな極論が自分の魂には何の進化をも齎す事にならないと言う事を
私達は理解すべきではないでしょうか。
其の上にイエスを神聖化する事が
実はキリスト教の神を全知全能の創造主から
人格神レベルにまで貶める事にも繋がっている可能性があるわけです。
私は多くの宗教の教えは知りませんが
知られている宗教の中で
全知全能の神をもっとも正しく表現しているのは
勿論イエスの教えだと思います。
しかし其の神はキリスト教徒だけの神ではありませんし、
イエスの教えを理解して実践した人間ほど
その御心に近づき易いというだけの話だと私は理解しています。
天使達から与えられた最高の創造主の教えが解釈で貶められる。。。
そんな実態だけは避けてほしいと思います。
まして今の時代は其のイエスの教えを嫌っていた人間達が
支配している社会なのですから。。。
私達は意識ある限りイエスの使徒で居続けましょう。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.
兄弟姉妹と理解者は私が一々説明するまでもないかも知れませんが
私の理解の範囲で触れてみました。
イエスを救世主として認めなかった人間達も、
クリスチャンを名乗る人間達も、
今では旧約聖書を重視し接点とすることで
繋がって見えるのが不思議です。
キリスト教世界の旧約聖書重視は実質ユダヤ化に繋がり易い。
私はそんな実態に気がついていますが
この社会のそんな流れは止まらないのでしょうか。
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