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街亭の戦い。
馬謖が何故、孔明の命令に反して山の方に登ったのかという事に付いての
新たな仮説と検証。
馬謖は何故、山に登ったか?
《第一次北伐遠征の開始》

228年春、
諸葛亮は斜谷道から、を奪うと喧伝しつつ、
趙雲と鄧芝トウシをその囮として、
魏の迎撃軍本隊を率いる大将軍・曹真を箕谷で防がせると、
孔明自身は関山道から祁山を攻撃。
するとたちまち南安・天水・安定の三郡は魏に背いて蜀に呼応し、
関中には激震が走った。

「六年春、揚聲由斜谷道取郿、使趙雲鄧芝爲疑軍據箕谷、
魏大將軍曹真舉衆拒之。
亮身率諸軍攻祁山、戎陳整齊、賞罰肅而號令明。
南安、天水、安定三郡叛魏、應亮、關中響震。」(『蜀書』諸葛亮伝)

挿絵(By みてみん)
孔明第一次北伐 行軍図

この時、魏から蜀に寝返った三郡の内、涼州天水郡内での出来事。
その方面には雍州刺史の郭淮と天水太守の馬遵が赴任していたのだが、
彼らは自分達の管轄する南安・天水・安定の三郡が
孔明の進軍によって蜀の手に落ちた時、
たまたま領内巡察の為に城を離れて外出中だった。
そしてその時、馬遵には、
姜維(中郎)、梁緒(功曹)、尹賞(主簿)、
梁虔(主記)、子脩(郡吏上官)らの面々も部下として
一緒に付いて来ていた。

天水郡の治所は城だったのだが、
馬遵は城の領民達の離反の心配や郭淮の判断を受け、
上司の郭淮と共に城の東方の上邽ジョウケイへの退避を決め、
そこに入城する事に。
しかしその事は姜維らには知らされず、郭淮と馬遵は彼らを置き去りにして、
自分達だけで上邽へと立ち去って行ってしまったのだった。

もし城が蜀軍への寝返りを決めていたとすれば、
姜維達の家族も同様に蜀に寝返っている事になるので、
馬遵には彼らの忠誠心が信頼出来なかった様だ。
馬遵の出身地は不明だが、
この当時、中央の都から派遣された地方の任命太守達は単身赴任が基本で、
その上自分の周りを固める役人達が皆、地元の人間達ばかりとなれば、
馬遵が疑心暗鬼に陥るのも無理からぬ事ではあったが。

姜維達は始めは直ぐ馬遵の後を追って上邽ジョウケイへと
駆け付けて行ったのだが馬遵から直接入城を拒否され、
仕方なく城へと帰還するも、そこでもやはり締め出しを食らい、
そうして結局、蜀へと自分達が降参するしか無くなってしまったのだと言う。
馬遵が心配した通り、
実際その頃、天水郡は既に蜀軍に寝返ってしまっていた。
「張既伝」によれば、
天水・南安の二郡では領民が孔明の遠征軍に応じて
太守を追放してしまったとの事で、
詰まり姜維達一行は、
馬遵からは蜀に寝返った県の領民の仲間として、
逆に地元の県では魏軍の官僚として、
双方から追い出されてしまったという事の様だ。
演義と違って別に孔明が特別な策を使った訳ではなかったが、
取りあえず魏軍の配置として、
上邽ジョウケイに郭淮と馬遵が居る。

孔明は祁山周辺。
孔明はそこから北方の街亭に馬謖を送り込む事となるが、
実はこの時、
街亭の後方の列柳城という城に、
高翔という将軍が馬謖達と一緒に派遣されており、
彼は街亭で敗れた蜀軍の撤退を王平と共に支えて奮戦したが、
郭淮の攻撃を受け撃ち破られてしまったと言う。

「太和二年、蜀相諸葛亮出祁山、遣將軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。
張郃擊謖、淮攻詳營、皆破之。
(228年、蜀相の諸葛亮は祁山に出て、街亭に将軍の馬謖を遣わし、
列柳城に高詳を駐屯させる。張郃が馬謖を攻撃し、郭淮が高翔の営を攻めた)」
『魏書』「郭淮伝」

高翔は後の第4次北伐でも、
魏延や呉班と共に司馬懿率いる魏軍を撃退して活躍したそうなのだが、
しかし陳寿の記した『三国志』の蜀書には伝も立てられず、
後の第二次北伐の際に、武都・陰平を攻略した陳式などと同様、
こういう人達は何故その様な扱いなってしまうのか。

街亭の馬謖は明帝の曹叡が派遣した援軍の張コウを
迎撃する為に派遣された訳だが、
列柳城の高翔はさらに、その馬謖の背後を守るべく遣わされた
将軍なのだろう。

そしてまた一方、斜谷道の箕谷では陽動の趙雲と鄧芝が、
魏の本隊、大将軍・曹真率いる大軍を防ぎ止めて戦っている。

それと、
誰かは不明なのだが、
孔明は遠く西方の隴西郡にまで将兵を送り込んだらしい。
先に寝返っていた南安郡の領民がその蜀軍の軍勢と一緒になって
隴西郡にまで攻め寄せて行ったと言う。
隴西郡の太守は游楚ユウソという人だったが、
彼は動揺する領民に対し、「やがてこの地に、蜀に寝返った
天水・南安の二郡から軍勢が押し寄せて来るであろうが、
それも本国からの討伐軍が来ればまた逃げ去って行くだろうから、
先ずは城門を固く閉ざして彼らの侵入を防ぎ、
逆に魏の救援軍が破れ、いよいよ城が危ないとなれば、
その時はこの私の首を君達の手柄として、
蜀軍に降伏してくれればいい」と言って説くと、
官民皆、涙を流し、
共に一丸となって城を守る事に決したと言う。
そうして、やがって遣って来た蜀軍に対し、
游楚は長史の馬顒ばぎょうを城外に布陣させると、
一方で蜀の敵将に向かっては「我々はこうして一ヶ月程も
敵から遮断されれば、そのまま降伏するしかない。
今、諸君らが無理してこの城を攻める必要があるだろうか?」と言い送った。
(『張既伝』注、三輔決錄注に曰く、
“卿能斷隴、使東兵不上、一月之中、則隴西吏人不攻自服。”)
すると言われた相手もその通りだと思った様で、
そこに游楚が命令して馬顒に敵陣を攻撃させると、
蜀軍はもうそのまま撤退して立ち去ったと言う。

それと今一人、
涼州刺史の徐邈ジョバクという人が、
孔明の北伐軍に呼応して起こした涼州内異民族叛乱の鎮圧に活躍し、
その後も長く同州の統治の安定に大きな功績を残したと言う。

一方、孔明の北伐に対し、
魏の明帝・曹叡は蜀軍の本隊が斜谷道ではなく祁山に現れたと知ると、
歩騎5万の援軍を従えて自ら洛陽の都から長安にまで出兵。
さらにそこから祁山の蜀軍本隊撃退の為、
曹真には箕谷で趙雲・鄧芝軍の相手をさせたまま、
別働として張郃チョウコウを派遣する。

馬謖はこの張郃の侵軍を阻むべく、
孔明によって祁山から街亭へと送り込まれた。

「亮使馬謖督諸軍在前、與郃戰于街亭。」(『蜀書』諸葛亮伝)

街亭は敵が六盤山山脈を抜け、
隴西方面から天水・祁山方面へと向かうルートの出入り口に位置する要衝の地で、
蜀軍はここさえ押さえておけば、
魏軍のその方面からの侵入をシャットアウトして
締め出す事が可能だった。

しかしこれは先ず第一の疑問として、
増援の張郃は何故、祁山の蜀軍に対し渭水沿いにそのまま西に直進して行かず、
わざわざ面倒な山脈越えで、
街亭から大回りして祁山の地へと向かわねばならないのか?

が、この点に関しては、実は後の第4次北伐の時にも、
やはり祁山の蜀軍に対し、
司馬懿と張郃が街亭から迂回する大回りルートで
敵の撃退に向かっていた。

とすれば蜀軍が先に隴関辺りに兵を送っていたのではないかと思われるのだが、
ともかく魏軍は東から渭水沿いに入っては行けないらしい。
しかしこれが、
魏軍が渭水沿いに天水方面に向かう事は出来ないが、
蜀軍の方は逆に、祁山や天水方面から渭水沿いに長安に向かって
進撃して行く事は可能なのだ。

第4次北伐の際、張郃が司馬懿に対し、
「敵に襲われる心配があるから、
雍との二城に守備兵を残して置いた方がいい」と進言している事から、
それがわかる。


挿絵(By みてみん)
街亭古戦場地図

街亭の実際の場所は石碑が残っていて、
そこが街亭の古戦場跡地という事にされている。
ただこれは飽くまで現代の地図から見ての事なのだが、
現代に石碑の置かれたその街亭古戦場跡は山脈の東側と道が繋がっておらず、
馬謖が登ったという南山の位置や、高翔の入っていた
列柳城の場所などもわからない。

ただ街亭という場所を簡略化して単純に見た場合、
細長く切り立った谷間の、出口付近の開けた場所が、
街亭だと思って貰えばいい。

敵はその細い道を大人数では通れず、少人数ずつで進んで行かねばならない。
対してそれを迎え撃つ方では、細い谷間の出口の所で散開して待ち、
チビチビと出て来る敵を各個撃破して行けば、
簡単に撃退する事が出来る。

所が街亭に派遣された馬謖は何故か細道の出口を塞がず、
南側にあったと思われる山の方に登って、
敵の大軍を全て素通りさせてしまった。

「謖、違亮節度、舉動失宜、大爲郃所破。」(『蜀書』諸葛亮伝)

“だから馬謖はバカだった”と、
現代に至るまで酷評される次第となっている訳なのだが、
・・・が、
これが実際の戦史に於いて、
この街亭の戦いと非常に良く似たケースでその隘路の方を塞がず、
南側にあった山の方に登って敵を防いだというケースが、
実際に存在していた。

それは有名な日本の「大阪夏の陣の戦い」で、
しかもその山に登った武将というのが、
名将の誉れ高い、後藤又兵衛基次だった。

挿絵(By みてみん)
「道明寺・誉田の戦い」布陣図

大阪夏の陣に於ける道明寺・誉田の戦い。
この戦いで後藤又兵衛・真田幸村ら率いる西軍の大阪方は、
東方、大和口から河内平野に侵入して来る幕府軍に対し、
国分村付近の狭隘の地を利用して敵を迎え撃つ事に決定した。

地図を見ると、
戦場は街亭と似た様な隘路を持ち、川が流れ、
南方には小松山という小高い山まであり、
しかも後藤又兵衛がその山の方に登って戦っている。

しかし西軍本来の作戦でなら、
又兵衛は小松山ではなく、
図で水野勝成・堀直寄の部隊のいる、その場所に布陣して
戦わなければならない。
所が後藤隊は何故か山の方に登り、
しかもその為に敵の大軍から包囲される格好となってしまっているのが
見て取れる。

まさに街亭の馬謖状態。

何故、後藤又兵衛ほどの名将が、
そんなマネを仕出かすのか・・・?

実はこれ、
地図では後藤又兵衛一人が小松山に登って敵と戦っているが、
まだ他にも真田幸村以下、
後から味方の部隊が一緒にそこまでやって来る事になっていた。
しかし不慮の濃霧の為に道に迷って、他の隊は戦場への到着が遅れ、
それで、後藤隊のみが単独で先に現場へと
来着してしまったという訳なのだ。

それで本来なら隘路の出口の方を塞がねばならないのだが、
元より敵は大軍。
少数の後藤隊だけでは防ぎ切れず、
そのままでは何れ南の山から敵が越えて、
後藤隊の方が逆に隘路の中に包囲されてしまう
危険性が生じたのではないか。
“それならばいっそ・・・”と、
又兵衛は小松山の方に登って敵を防ぐ事を考えたのだろう。
ただ敵を防ぐだけなら高い山の方に登って戦った方が防御力は高い。
これはもう時間の問題だが、
とにかく後からやって来る援軍の来着まで、
又兵衛は何とか山の上で粘る事に決めたのだろう。
味方がやって来さえすれば、
彼らがまた隘路の方を塞ぐ事で当初の作戦計画も全く完成を見る。

しかし結局味方の援軍は間に合わず、
後藤又兵衛は小松山に戦死する結果となってしまうのだが・・・、
だから街亭の馬謖も、
この小松山の後藤又兵衛と同じ様な考えを持っていたとしたらどうか。


そこで一つ気になるのが、
街亭での敗戦後、
孔明から直接処断される事となった馬謖は孔明に対し、
『襄陽記』によれば、
「明公は私を我が子の様に思って下さり、私も明公の事を父の様に思っておりました。
舜が鯀を誅しその子の禹を取り立てた如くに、明公が私の遺族を遇して下さるのなら、
私は死んでも恨みません
(明公视谡犹子,谡视明公犹父,原深推殛鲧于羽之义,
使平生之交不亏于此,谡虽死,无恨於黄壤也。)」との手紙を
残したとされているのだが、
これはしかし、
馬謖は自分の刑罰に対し、
全く「済みませんでした」との一言すら残していない。

馬謖が手紙で言っていた舜がこんを誅して云々の故事というのは、
鯀とはかの有名な夏の帝禹の実父だったという人で、
帝堯の治世の或る時に、黄河の氾濫がひどく、その治水対策の為、帝堯から鯀が、
治水工事の役目を任される事となった。
しかし黄河の洪水を鎮めるには“息壌”なる物が必要だと聞かされた鯀は、
苦労して昆侖山の天帝にまで、その“息壌”を貰える様に頼みに行くも、
無下に断られてしまう。
そこで鯀はもう天帝の“息壌”を無理やり盗んで持ち帰り、
それでやっと黄河の氾濫を収めた。
しかし直ぐ、怒った天帝に“息壌”を取り返されてしまうと
また再び黄河は氾濫した。
だがそれを見た帝堯は「全く治績が上がっていない」と誤解し、
鯀は最後には処刑されてしまったという。
帝尭は治水の任を鯀から舜に代え帝位も舜に譲ったが、
舜は鯀の息子であった禹に治水を任せる事にした。
禹は治水事業に大きな功績を現し、
やがて舜から禹へと帝位も禅譲される事となった・・・。

と、
この逸話から考えて見た場合、
馬謖本人としては良かれと思ってそうした事だったのに、
それが認められずこの様な結果になってしまったのだといった、
そんな感じのニュアンスで、
だから馬謖自身はやはり、街亭での敗戦をそれが失敗だったなどとは、
全く考えていなかったのではないか?

詰まり馬謖は自らの確信で山の方に登った。

元より馬謖はインテリである。
しかも「才器過人、好論軍計」と、
取り分け軍事面に堪能な知識と優れた才覚を持っていた。
だから馬謖が街亭の戦いで隘路の出口の方を塞がず山の方に登ったのも、
それは馬謖がインテリだからこそ、
敢えて山の方に登る選択肢を取る、それだけの何か、
確かな理由が存在していたのではないか・・・?


《街亭の戦い》

この点、正史の「諸葛亮伝」中に裴松之が
注釈として引用している「袁子」には、
“馬謖が街亭で大敗した時、諸葛亮は距離的には馬謖を
救援出来る場所に駐屯していたが、彼は馬謖を救援をしなかった
(亮之在街亭也、前軍大破、亮屯去數里、不救。)”などと書かれたりしていて、
馬謖がもしその援軍を待っていたとしたら、
それは大阪の陣に於ける後藤又兵衛と同じだったと捉える事も出来る。

ただ大阪の陣では後藤又兵衛の戦った道明寺付近のその場所が、
西軍と東軍の主要決戦場であった訳なのだが、
孔明の第一次北伐に於ける街亭で言えば、
そこは孔明の予定していた両軍の決戦場ではなかった。
例えば良く現代でも、
“もし蜀軍が街亭の戦いで勝っていたら・・・?”との
議論がなされるが、
しかしもし馬謖が指示通り隘路の道の方を塞いでいたとしたら、
その時はもう戦争自体になってない。

街亭の敗戦の際、王平の率いる僅か1,000人の部隊が陣鼓を打ち鳴らして
踏み留まると、張郃は伏兵の存在を疑い、
それ以上、無闇に近付こうとしなかったと言う。
詰まりその程度の事でもう、
敵は満足に攻め寄せて来る事も出来なかった。

もし蜀軍に完全に道を塞がれれば、
張郃はそれ以上、進軍を諦め、
また別の道からの新たな侵入路を探し直すしかなかったろう。
だから馬謖が孔明の命令通りに従っていたとすれば、
街亭では両軍の本格戦闘は起こらない。
そしてそれは箕谷で趙雲・鄧芝軍を相手に戦っていた曹真も同様で、
もし増援の張郃が祁山の蜀軍撃退という本来の役割りを遂行出来ないとなれば、
曹真もまた箕谷から引き上げて戻って来なければならない。
然るに第一次北伐のメインとなる魏蜀両軍の本戦も、
恐らくは箕谷と街亭からそれぞれ引き返して来た曹真・張郃と、孔明との、
直接対決となるべき戦いであった筈だ。


《孔明の作戦意図》

孔明の北伐では初回の遠征から最後の遠征まで、
基本、孔明自身は渭水の河を越えてそれ以上大きく、
先の北方へは軍を進めていない。
これは恐らくその渭水を大軍が超えた場合の、
撤退の困難さを考えての事だろうと思うが、
それで孔明が魏蜀両軍の決戦の場に選んだのが、祁山及び五丈原。
或いはそこに孔明が第二次の北伐で攻め取ろうとした
陳倉までが含まれるか。
だからまあ行っても、陳倉の渭水北岸ギリギリまでの場所。
故にこの第一次北伐に孔明が考えていた決戦場も
どこかその辺りの場所だった筈で、
街亭では無い。

孔明自身は祁山付近に駐屯。
祁山の敵を攻囲して降伏させたか、或いはまだ包囲中か。
孔明は後の第4次北伐でも祁山を守っていた魏将の賈嗣と魏平を
包囲して攻撃しているが、
その時は祁山の敵は手当てして抑えつつ、
一方で孔明自ら北進して上邽の郭淮、費曜を野戦で撃ち破り、
また、街亭から大回りして祁山の救援にやって来た司馬懿と張郃の救援軍をも
祁山周辺の戦いで撃破し大勝を上げていた。
だから第一次北伐の時も多分その時と似た様な状況で、
例え祁山の敵を包囲中だったとしても、
孔明自身の行動は自由だったと思われる。

そうして、孔明は箕谷と街亭で敵を防がせつつ、
自身は東進して陳倉辺りにまで出て行く心算だったか。

これは、
『水經注』の「與兄瑾言治綏陽谷書」の所に、
「有綏陽小谷,雖山崖絕重,谿水縱橫,難用行軍。昔邏候往來,要道通入。
今使前軍斫治此道,以向陳倉,
足以扳連賊勢,使不得分兵東行者也。」などと書かれていて、
その兄の諸葛瑾に送った手紙の中で孔明は、
「綏陽小谷なる、山崖絶重にして谿水が縦横に流れる様な谷が有って、
行軍に用いる事も難しいが、
昔は人が往来していて、今、前軍を使って此の道を斫り、陳倉に向かわせれば、
以って賊の勢いの向きを変えるさせるに足り、
彼らに兵を分けて東に行かせない様に出来るでしょう」などと言っていて、
“足以扳連賊勢,使不得分兵東行者也。”とは、
詰まり箕谷で趙雲・鄧芝と戦う曹真軍の事を指しているのではないか。

と、
その様にして孔明自身は陳倉に駐屯し戻って来た曹真・張郃軍を
直接そこで迎え撃つか、
或いはまた、さらにそこから新たに兵を送り込む事によって、
箕谷と街亭で戦う魏軍の退路を断つ事まで考えていたか。
ただその点に関しては、
後の、張郃が司馬懿に言った「後方が危なくなるから雍・の二城に
兵を残して置くべき」との発言から、
魏軍でも敵に自軍の補給線を遮断される事を強く警戒していた事がわかる。
だから曹真にしても先ず、自分が斜谷道へと入る前、
始めに城に陣を構えてから蜀軍の迎撃に向かっていたし、
とすれば張郃もまた、彼は雍城の方に守備兵を残していたものと思われ、
孔明が彼らの退路を遮断して孤立させるまでは難しかったろう。

そうするとそのまま陳倉を拠点にしての両軍の攻防。
もしくは第四次北伐の際と同様、
そこからさらに下がって祁山周辺の地にまで魏軍を誘い込む心算だったか。
そしてその辺りの意図を曹真が察した事が、
後に彼に、改めて陳倉の防備を固めさせる切欠ともなったかどうか・・・。

とにかく蜀軍にとっての最大の問題は、
箕谷の曹真軍を如何にして引き戻すかという事だった筈だ。
趙雲・鄧芝の軍は飽くまで囮である以上、
そのままではやがて敵に撃破され漢中盆地内にまで入り込まれてしまう。

何もなければ孔明の本隊が祁山方面に出て暴れる事で、
曹真軍が斜谷道から引き返して来る筈だったが、
が、そこにまた新たに張郃の援軍が現れた。
孔明が街亭から迂回して来た張郃軍を祁山で迎え撃ち、
箕谷で趙雲・鄧芝が曹真軍を相手にするだけでは、
そのまま曹真に突破されてしまうだけだ。
新たに現れたこの張郃軍にどう対処すれば、
上手く曹真軍を引き戻す事が出来るか。
で、
そこで考えられたのが、
先に街亭の難所に兵を送って張郃の侵入を塞いでしまう事。
そしてその間に、孔明本隊が渭水沿いに雍・の二城に向かって
敵の背後を窺う様な動きを見せれば、
曹真・張郃の両軍共、慌てて戻って来ざるを得ないだろう。
そして戻って来た魏軍と蜀軍の両軍とで、
そこで改めて決戦。

だからやはり、
馬謖はただ街亭の道を塞ぎ、
敵を追い返せばいいだけの役目だった筈だ。

しかしそれを敢えて、馬謖は敵を自分の方に招き寄せた。


《馬謖の思惑》

・・・と、
ここまで考えて見て、
もし馬謖が孔明の指示通りに道を塞いだだけなら、
敵はそのまま、また元来た道へと引き返して行ってしまうだけだが、
だから馬謖は決してその敵を帰してはならないと、
そう考え、
だからワザと自分の方から道を空けて、
敵を隘路から引きずり出して誘い込んだ。

何故か?

馬謖は街亭で張郃を追い返さず逆に引き付ける。
だからもう、
孔明がその張郃軍を相手にする必要などない。
一方斜谷の方でも趙雲と鄧芝が曹真を引き付けている。
その間、勿論孔明の蜀軍本隊はフリーのままの状態・・・。

と、
詰まり馬謖は敢えて自ら孔明の指示に反し、
張郃の部隊を引き付けて置く事で、
逆に孔明に対して馬謖の方から或る“決断”を迫った。

その“決断”とは、

孔明の本隊でもう一挙、渭水沿いに直行し、
ダイレクトに長安を衝けという事ではなかったか。

その長安には誰あろう、魏の皇帝たる曹叡本人が居た。
もし曹叡の首を挙げる事が出来れば、
この戦争は一気にケリが着くと・・・・・。

で、この考えは遠征実行前に魏延が主張し、
また現代に於いても良く、
“もしリスクを恐れず諸葛孔明が実行wをしていたら・・・と、言われる、
蜀軍による、長安急襲策と同じ作戦になる。

孔明の軍司令官としての消極姿勢に付いては、
魏延が度々軍中で不満をこぼしていたとして有名だが、
馬謖もどうやらその口だった様である。

しかし魏延が第一次北伐の開始前に献策した長安急襲策に付いては、
孔明が始めにキッパリと却下していた。
だから軍中に於いても今回の孔明の作戦が奇襲ではなく、
飽くまで敵を、事前に想定した予定戦場に引き込んだ上で、
ガップリと四つに組んで迎え撃つ作戦構想だったという点に付いては、
周囲で確かな確認が取れていた筈である。
馬謖もそれを承知していた筈だが、
が、
彼のその考えを変えたのが、
魏の明帝・曹叡本人の長安親征だったのではないか。
曹叡が長安に出て来るのは孔明が祁山を攻略し、
南安・天水・安定の三郡が蜀に寝返った後からである。

遠征開始当初と状況が変わり、
魏の皇帝本人が自ら長安にまで出て来たとなれば・・・、
これは襲わない手は無い。

最終的に馬謖は山の方に登った事で張郃軍から包囲を受け、
水源を断たれて疲弊した所を、総攻撃で撃破されてしまうが、
しかし山に登れば水源を断たれる事など、
これは誰の目にも周知に明らかだった筈である。
或る程度は事前に汲み上げて置くとして、
それで粘れるのは果たして一体どの程度の期間か・・・。

だからもし街亭の戦場が、趙雲・鄧芝らが戦っている箕谷の戦場と同様、
敵が普通に攻め込んで来てくれる様な場所だったのなら、
馬謖はそのまま道の方を塞ぎ敵を食い止めていて構わなかったのではないか。
しかし現地の戦場の地形と彼我の戦力差などといった要素から、
街亭では敵が攻め込んで来ず、
引き返して行ってしまう可能性の方が高かった。
その為、馬謖はワザワザ自分の方から道を空けて、
張郃軍を隘路から通して誘い込んだ。
しかし当然、長くは粘れない。
それでもとにかく、孔明の本隊が長安を急襲するまでの、
その間の時間が稼げさえすればそれでいいと・・・。

ただその長安への急襲策に付いてはもう、
遠征開始前に孔明からハッキリと否定をされてしまっている。
そこで馬謖は自ら進み出て、
張郃の迎撃に、街亭に自分を派遣してくれるよう、
志願したのではないか。
そういう意味では、馬謖は任命を受ける前から
既に“ヤル気”満々だった。

だから諸将が街亭への任務に馬謖ではなく魏延や呉懿を薦めていたのも、
その辺りの雰囲気を察しての事だったのかも知れない。
馬謖の付き添いに一緒に街亭へと送られ、
彼の行動を諌めたという王平などにしてもやはり同様に、
「不穏な企みは捨て、
ただ忠実に丞相の指示に従うべきだ」といった感じの事を
言っていたのではないか。
後に、この時馬謖に配下として従っていた張休・李盛といった将が、
やはり馬謖と同罪に、戦後孔明から処断されているのだが、
彼らは王平とは逆に、
それこそ完全に馬謖の取り巻きになってしまっていたのだろう。

勿論、馬謖にも過信が有る。
先ず己の作戦の成否に関する盲信と、
自分が総司令官の孔明と特別に親しい関係にあるとの馴れ合いの感情。
だから例え命令違反をしても、孔明と親子同然の自分が行えば、
孔明もわかって作戦方針を改めてくれるに違いないといった、
そんな勝手な思い込み。


《北伐遠征軍撤退の真相》

しかし馬謖の行った命令違反は軍の統率上、
決してあってはならない、
致命的な行為だ。
これはもう、もしその策略が上手く行っていたらとか、
そんな作戦の成否の枠を超えた、重要問題で、
軍の統率上、極端には、
例えそれが明らかに間違った上からの指示だったとしても、
その確認が取れない限りは飽くまで命令は命令として、
例えそれで隊が危機的状況に晒される結果に陥ろうとも、
グッと我慢し、黙ってその命に服せる様な軍隊でなければ
シッカリとした軍の統率は保てず、
また真に強い軍隊を作って行く事も出来ない。

軍規とはそれくらい重く厳粛で、でもなければ軍隊などは直ぐにバラバラ、
簡単に軍閥化してもう手が付けられなくなる。

だから孔明が戦後、
「昔、孫武が勝利出来たのは法の執行が厳格だったからで、であればこそ、
楊干が法を乱した時、魏絳はその従者を処刑したのだ。
もしこの乱世に再び法が廃れれば、
どうして逆賊を討つ事など出来ようか」と語った通り、
彼にして見ればもう、
馬謖が自分の指示を無視したと知った時点で、
その結果の如何を問わず、
彼の中で今回の第一次北伐遠征軍は終わってしまったも同然だったか
わからない。

仮に馬謖の目論見通りに孔明が長安へと急襲して成功を収めたとしても、
そうなると今度は例え命令違反を起こしてもそのケースの如何によっては、
下がそれぞれの考えで好き勝手に命令を無視して行動しても良いという、
先例を作ってしまう事になる。

馬謖の処刑に対し蔣琬などは「あたら有為の人材を」と、孔明に語ったそうだが、
孔明にして見ればそれどころの話しではなかったのだろう。
例え上手く行こうが行くまいが、
先ず軍の誰もが軍規に対しては絶対の服従をするという、
そこからしか何も始まらないのだという事を、
厳しい態度で示して見せる必要があったのではないか。
例え命令を無視して成功を収めたとしても、
それはもはや功績として認められない。

孔明は最終的に涼州天水郡(旧漢陽郡)西県の千余家を移住させて、
漢中に連れ帰って撤退をしているのだが、
確かにその辺りなら、急行すれば一日で街亭への救援に行けそうな場所だ。
だからそこから援軍を送り、
飽くまで街亭の戦場を支えるという選択肢もあったかと思われるのだが、
この辺りの所が実際、
本当にもう手遅れでどうにもならなかったのか。
手遅れならば箕谷で趙雲と鄧芝が戦っている曹真軍を引き戻す事が出来ず、
そのまま彼らに漢中にまで入り込まれ、蜀の遠征軍は孤立して
そこでジ・エンドとなってしまうが、
単純にそれを防ぐ為の撤退だったのか、
或いはもう作戦自体の中止という事だったのか・・・・・。


《曹叡の軍才》

それに例え実際に孔明がその長安襲撃を行っていたとして、
成功の確率は非常に低かったろう。
実際、曹叡が長安に出て来た事で、その曹叡本人一人の首さえ取れれば、
確かに一気に両軍の戦争を終わらせる事も可能ではあったのだが、
ただ曹叡は凡愚の人物ではない。
どころか彼は、純粋に“軍才”という天分の素質で言って、
後漢末から三国の時代を通し、
その中でも際立って俊逸の、まさに天才だった。
幾度にも及ぶ諸葛孔明の北伐が失敗に終わった要因の一つとしても、
この曹叡の存在が与えた影響が非常に大きく、
それくらい、曹叡は殊、
軍事面に関しては鋭い感覚の冴えを持っていた。

曹叡は自身の判断で長安を含む三輔地方の動揺を鎮めるべく、
自ら親征して長安にまで出て来ていた。
しかしこれは、
曹叡が現れた事で彼を捕らえるチャンスが出たと考えるより、
逆に彼がやって来た事で長安はそこで固まってしまったと見るべきだ。

彼が洛陽から連れて来た援軍が5万で、
それを張郃に分けてどれだけの人数を送ったかは知れないが、
例え残りの人数が少数だったとして、
それこそ孔明第二次北伐の際、陳倉を守るカク昭のたった千人程度の軍の前に
遠征の大軍が撃退されてしまっている。

先ず曹叡の居る長安は抜けない。

抜けなければ今度は奇襲した蜀軍の方が、
引き返して来た曹真や張コウの軍に逆包囲されて壊滅となってしまう。
余りにリスクが高過ぎるだろう。

曹叡自身はまだ先代から帝位を継いだばかりだったが、
それでも凡庸な君主ならこの場面に、
自ら援軍を率いて長安には出て来ない。
しかもその内の、連れて来た援軍の殆どは張コウに引き渡し、
自分は残された少人数の方で長安を守っていたとしたら、
彼にはもう完全にその戦局に対しての見切りが付いていた。
だから例え敵からの急襲を受けてもその事に気付き、
味方が救援に戻って来るまでは、自分達だけで長安を守り切れるという、
それだけの確信。

だから曹叡が自ら長安にまでやって来たその時点で逆に、
彼に何か違った所を感じておかしくなかったが、
しかし公にはまだ、曹叡の人となりは良く知られてはいなかった。
もし馬謖が曹叡を経験未熟で“相手しやすい”と見たとすれば、
やはり馬謖の方が迂闊だったろう。


馬謖が戦った街亭古戦場の実際の場所に付いて、ブログで少し検証して見ました。「街亭古戦場の場所に付いて」(http://neri9eshi.blog.fc2.com/blog-entry-50.html)殆どネタですが。(笑)
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