2011年の春に出版されたルーシー・ブラックマン事件についてのすぐれたノンフィクション、「People Who Eat Darkness: The Fate of Lucie Blackman」(Richard Lloyde Parry)
http://www.guardian.co.uk/books/2011/feb/27/people-who-eat-darkness-lucie-blackman-review
には、ルーシー・ブラックマンの父親が日本の警察を訪れて、警察官たちが働く部屋のなかにコンピュータスクリーンが見あたらないのを見て、「こんな原始的な警察に捜査ができるだろうか?」と不安に陥るところがでてくる。
結局、言を左右にして捜査をさぼり続ける日本の警察に失望した父親は、たまたま日本に来日した、当時の連合王国の首相トニー・ブレアに直接面会して日本の警察に捜査を始めるように圧力をかけてもらうように懇願し、話の内容に呆れかえったブレア首相は、異例どころの話ではないが、日本の森首相に要望を申し入れ、森首相は警察トップを呼んで厳重に捜査を申し渡したもののよーである。
時代劇ならば、ここで警察官僚は恐れ入って大布陣を張って捜査を開始するところだが、現実の日本警察はシブイ役所なので、それでもああだこうだと言ってマジメに仕事をしない。
「お偉いさんには現場はわからん」という反抗心があるのでしょう。
トニー・ブレアは、イギリス本国でも事件がおおきなニュースになってきたのを見て、日本の警察に仕事をしてくれるように懇願するために高官を派遣する。
しまいには顔を真っ赤にして怒る高官を前にしても、シブイというか、プロいというか、日本の警察幹部は、まあ、がんばりますから、という調子で全然仕事をしようとしない。
日本にいたときに最も驚かされたのは警察のありかたで、中国の警察どころかミャンマーの警察よりも、もっと酷いのではないか、と考えることがおおかった。
わかりにくいこともたくさんあった。
「職務質問」というものがあったが、なぜこれで犯罪を防げるのか理解するのが難しかった。
誤解されると困るので慌てて説明する。
街頭で道行く人を見ていて、「長年の経験」から「挙動不審者」を発見して尋問する、というのは群衆にまぎれている犯罪者を発見するには良い方法なのである。
警察官の側に立って想像してみれば、それはほとんど「当たり前」のことに属するだろうと思われる。
あるいは顔をおぼえてさえいる「地元のごろつき」を職務質問して軽く恫喝をくわえるというのは、犯罪で「食っている」箸にも棒にもかからないおっちゃんたちを抑止するには極めて有効であるだろう。
だが職務質問を端緒にして犯罪者を逮捕できるというのは、法治社会ではありえないことである。
なぜ?って、だって職務質問は違法でんねん。
(こう書くと日本のひとは必ず「これこれこういう場合は違法ではないから一概に言い切ることは出来ない」と憤慨の面持ちで言ってくるが、悪い事はいわぬ、そんな「正しさ」は自分の虫かごにでもいれて、帰って寝なさい。おかーさんに添い寝してもらえば、蒸し暑い夜でもよく眠れるであろう)
捜査のどの過程でも違法な手続きがあれば容疑者が無罪になるのは法治社会の常識で、のっけから「あんた悪いことやってんじゃないの?」から始まって、たまたま見つけた犯罪など裁判で有罪になりようがない。
ところが日本では有罪になるものであるらしい。
恫喝も、相手が「悪い人」なら全然OKです。
いや、それはですね、大陸法が法治主義で英米法は法支配で、とかゆわないよーに。
わしは、そういう話をしているのではない。
職務質問で、「ちょっと来い、おまえ」をされた元国家公安委員長のブログ記事
http://www.liberal-shirakawa.net/dissertation/policestate.html
を読むと、日本の警察では遵法精神が退廃して「法律なんかどうでもいい」という気分が充満しているのが看てとれる。
警察が法律を守らないのでは悪い皮肉で書かれたSFの社会のようだが、日本ではそれが現実であるらしい。
もう何度も書いたが日本語ではまったく報道されないが日本にいる外国人のあいだではあまねく知れ渡っていた事件に、新宿で、「紀伊國屋書店はどこにあるか?」と道を訊きに交番へはいってきた74歳のアメリカ人観光客に唐突に「ナイフをもっているか?」と尋ねて、アメリカ人じーちゃんが小さなポケットナイフをみせたら、いきなり留置所にぶちこまれた、という(日本にいる外国人のあいだでは)有名な事件があった。
あるいは、こっちは日本社会からは見えないようにするために閉じたコミュニティの内部のフォーラムなので具体的な内容を明かすわけにはいかないが、まだなれない日本で夫が十日間も行方不明になってパニックに陥ったアメリカ人の妻が、大使館に通報し、アメリカ大使館が手をつくして調べたら、夫は日本の警察に拘束されていて、家族との連絡を禁じられている状態であることがわかった、という出来事があった。
「日本では当たり前のことです」という警察の説明に、日本はすげえ、とみなでぶっくらこいたものだった。
またあるいは、これは日本の社会でも話題になったので、おぼえているひともたくさんいると思うが阪南大学の下地真樹が、大阪駅前で瓦礫搬入に抗議していたら逮捕されていきなり勾留された。
逮捕した警察の理屈を読むと、大阪府警の前に立って「あほー、おたんこなす、大阪府警、法律がんばろー(註)」とか述べると逮捕されてしまう、というすごい立件の仕方だった。
法律に従わない警察を「警察」と呼ぶのは難しい。
普通に考えて、それは政府が設立したただの無法集団だろう。
日本語のyoutubeを観ていたら警官たちに違法職務質問されたチンピラやくざたちが、110番して警察を呼ぶところが出てきて可笑しかったが、あれは理屈としては正しい。
自分たちが何であるつもりであっても遵法精神を失った警察は単なる暴力組織で、「警察」とは呼び得ないなにものかであるにすぎない。
犯罪者をつかまえてみたところで、自警団と同じで、「自分達が正しい」と何らかの理由で信じている集団が自分達が「悪だと何らかの理由で信じている当該人間を制圧」しているだけで、警察行動とは本質的に異なるという以外には言いようがない。
日本の政府が発表している犯罪統計など、よほどおめでたい人間でも信じる人はいないだろう。
身の回りにいくらでも転がっている「性的被害にあったが、『身のためにならない』と言われて、ほんとうに調書をつくりますか? 自分の将来のことを考えたほうがいいと思う」と言われたという話や、「夫婦げんかは、おうちのなかのことですから、ご夫婦でよく話しあわれてください」や、「喧嘩は両成敗って、いいますよね、なぐられたあなたのほうにも悪いところがあったのではないですか」をぐるっと見渡して、それでも日本の犯罪統計が現実を反映していると考える人はおめでたいのを通り越して犯罪者的な愚か者であると思う。
犯罪者的、というのは、そういう「悪いことはないことにする」という幼児的態度は社会の角膜を白濁させていって、ついにはものを見ること自体を出来なくさせてしまうからです。
オークランドでインド人のタクシー運転手が中国人留学生にいきなりナイフで刺殺されたことがあった。
防犯カメラに映っていた画像から、犯人が手配されたが、この留学生は清掃婦の奥さんと子供をふたり残して死んだインド人を刺してからすぐに逃げる支度にかかって、ニュージーランド警察が手配したときには、もう中国本土に姿をくらませていた。
けちんぼで有名な国民がなんべんも警察予算の増大に「ダメ」と言い募るせいでチョービンボで人員も気が遠くなるくらい少ないニュージーランドの警察は、それでもふたりの刑事を中国に派遣した。
驚くべし。
中国の警察は、あの広大な中国から犯人の大学生を探し出して、あっというまに捕まえてみせたのだった。
「海外の不良中国人は中国自身の恥という気持ちがあって、中国警察はだいたいいつも非常に協力的なんです」と警察幹部のおっちゃんは述べていた。
ニュージーランドにいたらつかまらなかったかもしれないのに、中国に逃げるなんてバカなやつだ、と危ない冗談までかましていた(^^
ここまで読んで「ありっ?」と思ったひとがいるのに違いない。
ニュージーランドの警察の話に出てくる中国警察と、日本の警察が示唆する「暗黒大陸中国警察」の印象が違いすぎるからで、「いったん犯人に逃げ込まれたら、それで終わり」の非協力的な中国警察は、どこに行ってしまったのだろうか。
さんざん大騒ぎをして、2ちゃんねるの管理人は許せんということになって、N村ひろゆきさんを絶対につかまえてやる、と意気込んでみせたのに、「会社がシンガポールにあります」と言われると、「そーですか」で思考停止状態に陥り、かつての歴史をみると三浦和義に「日本の警察って海外ではなにもやらないから」と鼻で笑われた伝統は、いまでも生きているのではなかろうか。
むかし義理叔父が鎌倉に住んでいた頃、花見の季節になると決まって門の「なか」にクルマを駐めてゆく観光客が続出した。
警察に電話してみると「門のなかだと私有地なので手がだせないんですよねー」
と言う。
じゃあ、どうするんだ、と聞くと、「お互いに話しあってなんとかしてください」というのだそーでした(^^;
話を聞いたわしが、「そんなクルマ、ガソリンかけて燃やしちゃえばよかったんちゃうの?」と言うと、そんなことをやったら警察がとんできて捕まってしまう、という。
なんだか、よく判らない話だのお、と思ったのをおぼえている。
日本語インターネットの世界では、日本の警察は世界一で、おかげで犯罪発生率が最小で、性犯罪もなく、ほとんど無犯罪世界に向かって着々と社会が歩んでいるのは日本の勤勉な警察のおかげだ、ということになっているのはよく知っている。
いつかもスウェーデンスウェーデンというが強姦発生率は世界一で、あの国はスカンジナビアのコリアと言われているんだ、という「スウェーデン在住歴があってスウェーデン人の友達がたくさんいる」日本の人がいたが、スウェーデンの「強姦」の定義を知っていますか、というときょとんとしていた。
スウェーデンでは夫が妻の合意を得て性交して、もういちど性交したいときには、もういちど尋ねないと強姦罪が成立する。
日本の「アダルトビデオ」で「いやああああー」という日本の女の人の性交時の叫び声が有名になって、成田空港で風に帽子をとばされた日本の若い女びとが「いやああああー!」と叫んだら、そばにいた中国の団体のおっちゃんたちがいっせいに赤面した、という有名な冗談があるが、スウェーデンでは冗談ではなくて、そんな叫び声をあげている女びとと性行為を継続すればまっすぐに刑務所行きである。
実際には合意であったかどうかは関係がない。
Jurian Assange
https://en.wikipedia.org/wiki/Julian_Assange
が「自分はワナにかかったのだ」と考えたのも、それが理由だった。
警察の現場での方針を考えると、レイプキットさえもたない日本の警察が「強姦」を立件するのは、よほどのこと、という表現ではすまないほどの条件の重なりが必要で、また、性犯罪者たちがそれを熟知しているからこそ日本は名だたる性犯罪王国で、英語世界では渡航先として「旅行者が女である場合はたいへん危険な国だ」ということが常識になっているのだと思う。
こーゆー記事を書いてしまうと、また、(そこが日本の人の頭のいいところだが)全然ちがうことにからめて集団で攻撃してくるのが見えているが、ちょっと理由があったので日本語で日本の警察のことを書いてみることにした。
義理叔父は第5回サミットのとき、大学生だか大学院生だかで四谷の迎賓館のすぐそばに住んでいた。(迎賓館は通常「赤坂迎賓館」と書かれるが、実質的には四谷にある)
サミット直前は毎日豪雨だったそうで、その豪雨のなかに、若い、東北からやってきた(ライオットポリスだと思うが)若い警察官たちがじっと濡れそぼって警戒に立っている。
あらゆる裏通りの十メートルおきだかなんだかにひとり、立っていたのだそーです。
初めは黙って通り過ぎていた近所のひとたちが、毎日濡れ鼠になって警戒する警察官たちにやがて「ご苦労様」とねぎらいの言葉をかけて通り過ぎるようになる。
そのうちに、ことわってもことわっても、お茶やコーヒーや弁当までもってひとびとがやってくるようになって「雨に打たれて、ばれなくて助かったが、冷たいと聞いていた東京の人の気持ちの暖かさに触れて涙がとまらなくなって困った」そーでした。
わしは「マッポ」という俗語を義理叔父から教わったが、義理叔父は警察が大嫌いで、マッポの野郎がふざけやがって、というような「いけない日本語」で警官を平然と罵るひとである。
「でも、おっさんも、ほんとうはコーヒーもっていってやったんちゃうの?」と、わしが言うと、「バカ、ウイスキーだよ」と小さい声で言う。
ガメ、ヒトに言うなよ、カッコワルイから。
あるいは「官邸前のデモ」の動画だったと思うが、なんだかえーかげんぽいにーちゃんが警官に顔をくっつけるようにして、「あんただって、フクシマの子供がかわいそうだと思ってるだろ? 人間の気持ちがないのかよ」と怒鳴っている。
歯を食いしばって、いまにも涙があふれそうな顔で警備線を保っている若い警官の顔が映っている。
いまの日本の警察では人間でいようとおもえば良い警官ではいられないが、警官になろうと思う若い衆には、単純で、世故に長けた人間が聞けば噴きだすに違いない正義感に燃えて職業につく人がたくさんいる。
そのひとびとに「警官は警察の一員であるよりも人間であることのほうが大事なのだ」と教えるのが政府の役割であると思う。
日本の人には気の毒だが、日本の警察は世界でも指折りの悪名たかい組織になりはてている。でも、あの歯をくいしばって自分自身のやさしい心、人間らしい気持ちと戦っていた警官の顔を思い出せば希望はここでも若いひとびとのなかに十分な量で存在する。
祈っている。
なにを、と言われても、困るけど。
(註:小学校などの教育機関において、通知表での低評価(5段階評価で言うと2・1など)を表す婉曲表現_wikipediaより)
もう20年近く前、私が未熟な17歳の少年だった頃のことです。当時私はヘヴィーメタルが大好きで髪を腰まで伸ばし金髪に染め上げ、毎日を淫らに過ごしておりました。
そんなある日の事、ライブ帰りに打ち上げをしてビールを2、3杯飲み(違法です)原付バイクにまたがり(違法です)楽しい気分で帰っていたのですが、赤信号の点滅を一時停止せずに突っ切ってしまいました。午前2時頃だったでしょうか、人気の無い交差点です。案の定というか隠れていたパトカーに追いかけられ捕まってしまいました。
パトカーに連れ込まれ一時停止をしなかったという事で何か書類に記入していたところ、若い方の警官が私の息の匂いに気付きました。「お前、酒臭いな」。ヤバいと思いました。未成年の飲酒運転、馬鹿な未熟な人間でも焦ったのは言うまでもありません。とりあえず否定しました。しかし呼気検査の結果どうやら酒気帯び運転のレベルが検知されました。
私はとにかく否定しました。息が臭いのはさっきたっぷりのニンニク入りラーメンを食べたからだとか、訳の分からない言い訳をしていたのを覚えています。一時間近く若い警官と押し問答を続けていました。その間もう一人の年を取った警官は一言も発しませんでした。私が押し問答に疲れきって白状しようかと考えていた時、突然沈黙が訪れました。何かの合図があったのではないでしょうか。
それから警官達は一言も喋りませんでした。暇だったのでしょうか。沈黙はあの時の私にとって最大の苦痛でした。そしてしばらく経った後、年を取った警官が言いました。とても小さい声でした。「そろそろ本当の事を言ったらどうだ」。しかし私はあの頃とても馬鹿だったのでそれでも否定しました。「飲んでない」。やけくそでした。すると若い警官が言いました。「署に連れて行って血液検査をするぞ」。それでも私は言いました。「いいよ、飲んでないから」。この時私はもうどうでもいいや、という気持ちになっていたのは言うまでもありません。
すると年を取った警官がぼそりと言いました。「お前みたいな奴は初めてだ。今日自分が取った行動をお前は一生記憶していく事になる。それをどう思うかはお前次第だ。今日我々は一時停止だけの罰則を適用するからもう帰ってよい」。正直びっくりしました。てっきり警察署に連れて行かれると思っていたのにあっという間に自由の身になりました。
気がつくと午前4時をまわっていました。
警官としてはやってはいけない事をしている、部下もいる、しかも未成年の飲酒運転という馬鹿な行為を見逃した、家に帰ってから、私はあの年を取った警官は何を考えていたのだろうとずっと考えていました。あれ出来事以来私の中で何かが変化したような気がします。
あの時の年を取った警官が只疲れていたから私を自由の身にしたのかもしれない、本当の理由は分かりません。しかしあれから20年近く経った今もずっとあの人の事、そして言葉をたまに思い出します。はっきりしているのは私にはあの人が警官ではなく人間の顔をしていた人に見えた、それだけです。
長々と失礼しました。
ガメ・オベール様
日本の警察の異様な仕事ぶりは、日本社会の根っこのところの道徳感覚を反映しているので、警察「だけ」がウチとソトを使い分けたり、個人の自由な行動に干渉したりするわけではありませぬ。これは先刻ご承知のとおり。
ガメ殿のしばしば言及する「集団サディズム」は、場の掟に従わないヤツを抑え込む仕掛けとして、日本社会の随所に自然発生します。そしてご指摘の通り「集団サディズム」の実行者側は、ともすれば、自分たちが正しいことをしているという感覚を持ちます。
この正しさの感覚は、言葉以前のある了解にもとづいている。それは、「場を定義している他人の意向に服従する」というあり方こそ、人間の行動を正しいものにするための必要条件だ、という了解だと思う。だから、場にそぐわない個人を制圧することは根本において正しい、まあちょっと行き過ぎもあったかもしれないけれど、ということになる。警察の行動原理もこんなところなのでしょう。
私の知るかぎり、多くの日本人は、「個人が自由に選択し、その選択に従って行動する」というあり方こそ、人間の行動が正しいものとなるための必要条件だ、という考え方を自然に身に付ける環境にはいません。もちろん学校で教えるはずもない。したがって、個人の自由だけが真・善・美へと到る唯一の道だ、という言葉以前の了解は人々のあいだに形成されません。(独りでこの道を往く人はいると思うけれど。)
これが、日本がキリスト教社会でない、ということの実質的な意味だと思います。個人が自由意志を通じて永遠の価値に参与するのでないかぎり、生きる意味がないことになる、という感覚が無い。
むかし授業でプラトンの『饗宴』の、愛する人の肉体を追い求める愛が実はイデアを追い求める知への愛の出発点なのだ、というお話を紹介したら、レポートに「高校生のとき、先生から、色気の始まりは知恵のおわり、と教わりました。でもプラトンは違うんですね。」と記した18歳女子がいました。あまりの発想の落差に、笑うほかなかった。
さて。
>いまの日本の警察では人間でいようとおもえば良い警官ではいられないが、警官になろうと思う若い衆には、単純で、世故に長けた人間が聞けば噴きだすに違いない正義感に燃えて職業につく人がたくさんいる。
>あの歯をくいしばって自分自身のやさしい心、人間らしい気持ちと戦っていた警官の顔を思い出せば希望はここでも若いひとびとのなかに十分な量で存在する。
あるいは日本の読者をはげます気持ちからこう書かれたのか、と拝察します。
私としては、楽観できません。「人間であること」「正義感」「やさしい心、人間らしい気持ち」の中身が、〈自由な個人〉とは別の原理に貫かれている可能性もある。というか、たぶんそうなっている。
やさしくて思いやりのあるお巡りさんが、反抗する人物に向かって、「キミも人間なんだから、そんなことして周りに迷惑をかけたりせずに、自重しなきゃいけないよ」と諭す図が思い浮かびます。
やさしさの始まりが自立の終りになってしまう。いい人がたくさんいるのに、お互い干渉しあってみんな行き詰まってしまうのは、やはり残念なことです。