こちらアピタルです
2013年6月14日
私が所属する教育総合センターはまだ新しい部署で、新聞記事を教育に生かす展開を考えている。学習教材をつくったり、ベネッセと共同で「語彙・読解力検定」という検定を行ったり、大学生の就職活動を応援したりしている。
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当然、かかってくる電話のほとんどは、教育関係者からだ。ところが先日、「カリフォルニアからです」と同僚の女性に告げられた。周囲も驚いたが、私も驚いた。電話の主は、二十数年前に取材でお世話になった米国在住の女性であった。彼女は、拙著『大いなる看取り』(新潮社)を読んで電話をくれたのだ。
「不思議なものでね。本っていうものは、どこかで誰かが読んでくれているんです」。若いころにノンフィクション作家の後藤正治さんから伺った話を思い出して、うれしくなった。
『大いなる看取り』の舞台は、東京・山谷のホスピス「きぼうのいえ」である。かつては日雇い労働者の街だった山谷も、労働者の高齢化が進み、近年は、生活保護受給者と、保護の網からこぼれた路上生活者の街と化している。
「きぼうのいえ」には、行き場のない人たちが入居している。部屋は個室だ。私は、1990年代から新宿のホームレスの取材をしていたこともあって、2004年に「きぼうのいえ」に通いはじめた当初は、山谷の路上生活者たちのホスピスだと思っていた。
ところが、その予想は違った。路上生活をした人もある程度はいたが、中小企業の社長、銀座のママ、商社マン、ミュージシャン、軍人、料理人、やくざ、主婦、駆け落ちをした女性……。ここで人生の最期を過ごす人たちは、世の中の縮図のように多様だったのだ。
一般の人と違うのは、家族ではなく、スタッフら他人に看取られること。一見すると、寂しい旅立ちに映る。だが、取材を進めていくうちに、他人に看取られるからこそ得られる幸せがあることがわかってきた。
彼らは、「きぼうのいえ」で、それぞれの形で輝いていたのだ。
都内の料亭で働いたこともある元板前の男性は、スタッフのために料理をつくった。ホタテ焼売、フォアグラ豆腐、うに豆腐、イチジクの赤ワイン漬け……。「懐石料理をコースで出したい」というのが夢で、「六月御献立」などと紙に筆ペンで15品ぐらいの料理を書き上げていた。
筆耕の会社の社長だった80代の男性は、スタッフが胸に付ける名札を筆で書いた。ダンディズムを失わない人で、食堂へ行く前にも髪をとかしてワイシャツに着替えていた。
軍属として七三一部隊にいた人は、自らの体験・目撃談を懸命に語った。すでに90歳を超えていて私を研究者と勘違いしているフシもあったが、彼にとっては、貴重な体験を語ることが人生の総仕上げのようだった。
談話室で開かれるお茶会は入居者でにぎわう。さまざまな人生経験を積んだ人が集まっているから、四方山話に花が咲く。
私が取材していたころは、緑内障で視力を失った男性の話が抜群に面白かった。戦後間もないころは浮浪児として上野の地下道にいて、すりの親方に拾われたという彼は、捕鯨船の船乗り、キャバレーの調理人、便利屋、ダンプの運転手など本人も把握しきれないほど仕事を転々としてきており、「少年院から脱走してシェパードに捕まった」といった虚実綯い交ぜ(?)の物語を披露しては周囲を笑わせていた。
この人の話を楽しみにしているという女性は、俳句が得意で、折にふれて17文字に心情を詠んでは、私に見せてくれた。
末期の喉頭がんで胃ろうから栄養を取る状態だったにもかかわらず、親しくなったスタッフと一緒に何年ぶりかで北陸の故郷へ帰った男性もいる。彼は「きぼうのいえ」に入らなければ、家族と再会することがなかったかもしれない。
一方で、人付き合いをほとんどしない人もいる。自分の部屋で梅干しをマグカップいっぱいに入れながら焼酎を飲んでいた男性は、取材もかたくなに断った。
「きぼうのいえ」には、日本で暮らす米国人女性のキャロル・サックさんがハープを弾きに来ていた。音楽療法ではなく、心を安らかにして天国へ旅立つためのハープで、各部屋を回っては、聖歌や童謡などを弾いていた。
重い病気をきっかけに周囲に心を閉ざすようになった男性は、スタッフにも怒鳴り、スタッフが部屋に入ることさえも嫌がっていた。しかし、初めてハープを聴いたとき、「ありがとう。こんなに清らかな気持ちになったのは初めてです」と涙を流した。
認知症が進んでいた女性は、「さくらさくら」や「春が来た」などをハープに合わせて歌った。キャロルさんが聖歌を弾いたあとは、「すごくきれいなところに行っていた。お花畑があって……」と、臨死体験をした人がよく見る光景を語った。
(『下』に続く)
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