1971


沖縄に初めて行ったのは1971年の事です、
 つまり返還前、沖縄から言うと復帰前です。

この時は夏休みに大学の有志が集まって行きました、
当時は船です、神戸まで行き、神戸から関西汽船です。
片道36時間、行きも帰りも台風でした。
那覇港へ着き、帰りは泊港からでした。




 

 これはイエローカードと呼ばれたもの、種痘の予防接種の証明です、
 当時は沖縄に行く為には予防接種が必要でした。

 

通関は船中です、
左が那覇に到着時、右が神戸に戻った時の通関済みシールです。
記憶が定かではありませんが、
これからすると7月27日に那覇に着いて、
8月1日に神戸に戻ったようです。
出発は7月25日の夜でしょうか。



  

 これは観光パンフレットに載っていた地図、コザの文字があります。



 

 これは「守礼の光」、琉球列島米国高等弁務官府の発行物です。

 
 「守礼の光」の1ページ目です。



上の1ページ目の一部です、
当時の那覇市内の道路は両端は舗装されず地道のままのところが結構ありました。





時計屋で貰ったパンフレット「観光視察団」の文字に驚いた覚えがあります





ツァー中にアメリカ軍キャンプの中で夕食を取りました、
これはその時のメニューの一部です。

よく軍隊の食事と言うと、トレイを持っていって
順番に料理をよそってくれるものを連想しますが、
これはBuffetと書いてあります、
ビュッフェ形式だったのでしょうか。
余り覚えがありません。

99¢とありますが、まぁ1$ですね、
当時の1$といえばアメリカ人からは100円くらいの価値でしょうか、
日本人としては360円ですし、
基地内なので一般人は入れず、
中へ入る口利き料も含めてもっと高かった覚えがあります。
珍しさだけで、余り安い感じはしなかったです。

1971年の7月29日の文字があります。





当時の向こうのタバコのパッケージです
「琉球煙草株式会社」の名前が見えます。
この煙草は今でも売られています。
勿論今はJTですが。



 

当時の守礼門、今と違って道路端にぽつんとあるだけです。
車で通ると、うっかりすると通り過ぎてしまいます。
これは写真ではなく資料からです。

上の切手の図柄は「ゆうな」です、
「ゆうな」と言えば、帰りの船の中で子供たちが、
「ゆうなの花」を歌っていました、とてもきれいな歌でした。
先生らしき人も付き添っていて、
恐らく合唱コンクールに出る為に内地に渡るところだったのでしょう。
歌の練習中のようでした。







当時の国際通り、車は右側通行です、
.これも資料からです。

上の切手の図柄は「てんさぐ」です、
てんさぐと言えば「てぃんさぐぬ花」ですね。
わらび唄(童歌)ですが、いい唄です、これも好きな曲です。

わらび唄ですので教訓歌になっていますが、
教訓も沖縄口だと柔らかい感じです。

 てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染()みてぃ
親(うや)ぬ諭()し事(ぐとぅ)や
肝(ちむ)に染みり 

この唄の歌詞の一番です。



 

名護の七曲がりと言われた道路です、
今は整備され、ほぼまっすぐになっています。





昔の琉球大学です、首里城跡に建てられ、
今は再現された首里城になっています。
手前は龍潭です。





ひめゆりの慰霊碑です、
今とはちょっと違うようです。





泊港です、当時は船便が中心なので、
やはり今とは活気が違います。

'92年にはここから離島へ渡りましたが、
当時は整備の為の工事中だったので余計に寂しい感じでした。





万座毛です、普段見る方向とは逆の方から写しているようです。
見学路の風景が今とは全く違います。





当時の行政府だそうです。

 

 





もう30年以上経っているので時効でしょう、
当時の記念写真です。

上は琉球料理での食事です、
琉球舞踊も見せて貰いました。
次は守礼門、
3枚目は南部戦跡にある岐阜県の慰霊碑です。
何故岐阜県かというと、大学が岐阜だったからです。



これは「戦跡政府立公園」切手です。
滞在最終日の7月30日がこの切手の発売日で、
朝から那覇郵便局に並びました。

切手を買う為に並んでいた時、
前に居た人と少し話をしていたのですが、
「内地からみえたのですかぁ」と言われ、
内地という言葉に驚いた覚えがあります。



これは航空便用の通常切手です。



 





トップへ
トップへ
戻る
戻る



1