日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか? 著者:今野晴貴 はじめに どうすれば、日本の苛酷な「労働」を変えられるのか?

2013年06月13日(木)
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 あるいは、入社した会社で長時間のサービス残業を求められる。休日に出勤を命じられることもある。それでも「自分は甘い」と思って頑張ってきたけれど、もう身体も心も限界だ、といった相談。

 こうした状況に追い込まれても、私たちは「自分が悪い」「どうしようもない」としか考えられない。どんなにそれが違法な状態でも、相談に来る若者が「会社が悪い」と考えていることは、めったにない。

 だが、みんな「おかしい」と思っているはずだ。

 いくらなんでも、日本の「労働」には無理がある、と。

 最近では、ようやく「ブラック企業」という言葉が世の中に広がってきた。若者のひどすぎる職場環境が、やっと社会問題になってきたのだ。

 希望の一筋の光が、見えてきたようにも思える。

 しかし、マスコミの論調は、「ブラック企業を見分けろ」というものばかりだ。

 私自身も、昨年『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書/2012年)という本を世に出してから、そうした「見分け方」の取材をひっきりなしに受けている。

「危ない企業はどこか」「相談に来た人が所属する企業の実名を教えてほしい」と。

 正直、「見分け方」ばかりの論調には疑問を感じている。

 単純に考えてわかることだが、いくら努力したところで、見分けるのには限界があるだろう。どんなに対外的に「いいこと」を言っていても、その会社に入ってみるまでは、わからないことだらけだ。

 また、見分けたところで、ブラック企業からしか内定が取れなかったら、結局、入社するしかない。「ブラック企業からしか内定を取れなかった人間は就職するな」とでもいうのだろうか。

「見分けろ」という議論は、下手をすると、「見分けないやつが悪い」「ブラック企業にしか入れないやつが悪い」と、ブラック企業を正当化することにもなりかねない。

 これでは、せっかくブラック企業が社会問題になってきたのに、私たちの苦しさは何も変わらないではないか。

 それどころか、「見分けろ」という圧力が、さらなる負担となって私たちにのしかかってくる。

 じつのところ、「見分け方」などという議論はまったく不十分なのだ。

 それは、何も新しい光を私たちに与えてくれはしない。

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