映画「言の葉の庭」で見えた監督 新海誠が内包しているバグ [2200字]
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皆さんは手紙って送りますか?
私はついこの間、書いて、送りましたよ。宮崎あおいさんへ。(気持ち悪いと思ったかたには謝りますね。)「ペタルダンス」という映画でトークショーがあったものですから、その時にちょっとした小物のプレゼントと手紙を添えました。
では、話を「言の葉の庭」にうつらせてもらいますね。
私は、「言の葉の庭」に関しては非常に素晴らしい作品だと思っています。新海誠作品の中では特に前向きなメッセージが述べられていたと思います。前々作の「秒速5センチメートル」では主人公の遠野 貴樹がヒロイン篠原 明里と小学生で離別。そのあと、中学で苦労をしながらも再開をした。その再開のあと二人の距離はどんどん開くばかりだったという、なんとも悲しげな物語でした。であるのに対し、「言の葉の庭」では、思いのたけを本音でぶつけ合うことで、お互いに納得をした。それでも二人は別々の生活をすることになるが、手紙のやり取りは続くという主人公とヒロインの恋心が救われる物語であったように思います。
ここから新海誠の限界について言及したいと思います。そのためには少しばかり事実を積み上げたいと思います。新海誠とは「言の葉の庭」の監督です。大注目な監督です。
なぜ、この時代に、あの物語だったのか?
「言の葉の庭」を受け入れられない人というのが少数ながら私の周辺にはいました。理由は、そもそもこの情報化社会の時代に短歌の相聞歌で、思いを伝えるユキノっておかしくないか?
ユキノはタカオと同じ学校だったということを隠し続ける理由って?・・・などなど。
鳴る神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ
雷が少し轟き、曇ってきて、雨でも降らないかしら。あなたを引きとめられるのに。
鳴る神の 少し響みて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば
雷が少し轟き、雨が降らなくても、私は留まりますよ。あなたが引きとめて下されば。
↑初対面の相手に短歌って不親切極まりないよね。
そして、注目してほしいことがあります。ユキノは四国の地元に戻った。そうして、タカオとユキノは手紙による文通が始まる。
ここでのお互いのやりとりは手紙。
普通だったら携帯のメールを使いますよね。高校生なら尚更。27歳でも尚更です。
しかし手紙。これが何を表しているのか。
私が思うに、二人は現実世界に生きていけない存在だったから、現実とはかけ離れた手段で連絡を取り合ったと思います。彼、彼女らは少なからず、社会に不適合な部分を持ち合わせている。もちろん、ほとんどの人がそういう社会に不適合な部分を持ち合わせているとは思います。しかし、タカオとユキノの場合、決定的に周りとの世界がズレている。まるで俗世間で生きるかのように。世間とかけ離れた場所というのが、二人が出会い続けていた場所である新宿御苑のあの休憩所なのです。そして、新宿御苑というのは入るのに入場料がとられます。これは出会いの場としては、かなりめんどくさいことだと思うのです。金銭的に恵まれない高校生ならなおさら。それも、バイト漬けで専門学校に通うお金を捻出しているのならなおさら。
ここから言えることは、
タカオとユキノは異質であり、世間とかけ離れている存在であることが言えると思います。
二人が異質であるから、この言の葉の庭は成り立っているのです。
この「言の葉の庭」という物語は実はかなりアナログで、古くさいんです。
現代社会とは別の世界を生きたい二人の物語なのです。
その結果、まるで昭和のすれちがいラブストーリーのようになっています。
「言の葉の庭」では現代を描きながら、現代っぽくない物語を描いている。
ユキノが最初から全てを打ち明けていたなら、相聞歌なんていう面倒くさいことしなければ・・・
雨の日にしか会えないという変なプライドを捨てていれば・・・
(これが無くちゃ物語になりませんけど、こういう稚拙さで物語を作っているのです)
携帯でメールアドレスを交換していれば・・・
つまり、新海誠が考える物語というのは、過去っぽいものです。時代設定を現代にして描くには、とてもとても違和感があるのです。
私個人の意見なら、本来、言の葉の庭の物語をやるなら時代が過去であったほうが、なにも問題はなかった。時代が過去なら手紙による文通もおかしくない。大量生産、大量消費の社会で靴を手づくりする意味も失われていない。
しかし、なぜ、新海誠が時代を現在に設定したのだろうか。それは新海誠の映像性が影響していると思います。当たり前ですが過去をロケハンすることはできない。新海誠はあの精緻なレベルの圧倒的映像美を過去設定で作りだすことができない。
「言の葉の庭」はこういう話をやりたいなら、せめて時代を過去に設定すべき。しかし、それをやると、ロケハンができない。
新海誠の物語性は過去のものである。新海誠の映像性は現在か、もしくは想像の未来しか切り取れない。つまり新海誠作品は構造上の齟齬=過去と現在の入り乱れを内包している
これが、新海誠が内包しているバグ=現代と過去の入り乱れだと私は思いました。
新海誠は過去作で長距離恋愛における実質的距離と心理的距離を描いてきたと思います。そして、その二つの距離でさいなまれる主人公たちの葛藤のドラマ。
主人公とヒロインとの地理的な距離と、心理的な距離の対比です。「ほしのこえ」では、もう会うことができないという絶望的なぐらい遠い距離があるけど、気持ちではお互いに好きで近くにいるということ。「秒速5センチメートル」では貴樹は今でも好きな人のことを思い続けていて、クライマックスの交差点ですぐ近くにその人がいるのに、ヒロインが貴樹のことを忘れているという残酷さ。
「ほしのこえ」では40年先の未来を描いてるから、新海誠のバグが具現化しないでいる。
「秒速5センチメートル」では第一章の桜花抄では、「言の葉の庭」同様アナログで古くさい物語=携帯電話での連絡がない。いわば、すれ違い物語的な、主人公が足止めをくらって待ち合わせ場所に時間通りに行けない。でも、彼女は待っているというやや古い物語。「秒速5センチメートル」では、その古くささが第一章で終わって、2章、3章は別れを描き続けていました。新海誠のバグ=古くさいものというのは、誰かが誰かにコミットメントするときに発生します。つまり、別れの話では、バグはでない。
「言の葉の庭」のバグは時代設定が現代の話で、その物語が過去っぽいところです。
そして、たぶん新海誠の物語性というのは過去のもので、新海誠の映像性というのは現代のもの。つまり、新海誠は構造上でバグ=過去と現代の入り乱れを内包しているのだと思います。
もう一度言います。
新海誠の物語性は過去のものである。新海誠の映像性は現在か、もしくは想像の未来しか切り取れない。つまり新海誠作品は構造上の齟齬=過去と現在の入り乱れを内包している
これには、異論もあると思います。しかし、私はそう思いました。
「言の葉の庭」が素晴らしい作品であることに間違いはないと思います。
こういう考えもあるのか、と思ってくれれば幸いです。
ではでは。アデュー
でもね、本当はそういうのいけないんですよね。時間や手間はかかっても、手紙のように心があたたかくなるようなものを、もっと重要視しないと。自分でも、それはわかってるのですが、なかなかね~
新海誠監督は、結構見てますよ。
「ほしのこえ」に始まって、「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」「星を追う子ども」あたりまで。
ま、それぞれ良さはあると思うんだけど、「ほしのこえ」以外は、あんまりSFやファンタジーの部分が上手くかみ合ってない感じがしますね。「秒速5センチメートル」みたいな現実を舞台にしたドラマを、もっと作った方がいいんじゃないかな~?と思っていました。
この映画は、そういう感じなのかな?
その上で個人的な印象ですが、こういうストーリーって現実とは薄い壁一枚隔てたような舞台設定のほうが、逆に入り込める人も居るのではないでしょうか。
現実(あるいは通ってきた過去)にぴったり合わせてしまうと、人物の心情まで無意識に現実と重ねてしまい、「こんな純情なやつ今時いねーよ」と感じてしまうのでは。そうすると結果的に肝心の人物の心情には観客は引き込まれない。
フィクションっぽさを付け加えることで、そういった思考を持たせずに感情移入できる面もあるのかなと思っています。
この現代、全ての情報伝達がはやく、そしてそれがあたりまえとなっている。でも皆があたりまえとしていることじゃなければ現代に起こってはいけないのか?そんなことはないと思います。あのような特別な関係をリアルでやっている人がいるかもしれない。そう考えるのはとても素敵なことではないでしょうか?
長文失礼しました。そしてこの文は自分のちっぽけな脳で考えた自分なりの考えであり決して上記にある文の筆者様を反対、批判するものではございません。 それでは失礼いたしました。