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短編を書くつもりだったのですが、気に入ったので長編にしました。
と言っても一話完結の形式で行きたいと思います。
イヌガミ×カノジョ
挿絵(By みてみん)


僕の普通の街に住んでいる。毎日どこかで誰かが悲しみ、苦しみ、そして喜ぶ。そんなどこにでもある街だ。そして僕はその街の高校に通っている。変な噂もなければいじめもなく、授業は事もなく行われ放課後は部活にいそしむ学生がいる。特筆する事は何もない、そんな高校だ。
そして僕自身、超能力もなければ空も飛べない普通の高校生だ。
とりわけ明るい人間じゃないけれど友達がいないわけじゃないし、自分自身に不満がないわけじゃないけど悩む程じゃない。誰にも言えない秘密なんてないし、ただ大学受験に備えて勉強している。そんな普通の高校生だ。中学校ではバトミントン部に入っていたが、高校に入ってからはやっていない。
そんな僕の普通の物語を始めようと思う。


「あれ? 帰るの?」

ふいに声をかけられて振り返った。
「長谷川って部活やってなかったっけ?」
「うん。僕はほら、家の事やらなくちゃだからさ。朝日はこれから部活?」
朝日は中学校の同級生だ。少し短めに切られた髪は、いかにもスポーツマンらしく見えるが朝日の場合、スポーツウーマンとでも言うべきか。そんな彼女は中学校から陸上一筋で、高校に入った今でも毎日飽きもせず走っている。中学ではそんなに親しくなかったけれど高校に入ったばかりの僕らは、お互いに親近感が沸いてつるんでいた。
「うん、まだ練習についていけないけどね」
「頑張れよ。陸上部期待のエース」
「やめてよ。そういえば長谷川はもう授業決めたの?」
明日はカリキュラム講座らしい。
帰りのHRで担任が言ってた話によると、この進学校は必須教科と選択教科で自分の進学に合わせた授業を受けられるのだとか。目指す大学に合わせた参考書だとか授業内容とか説明するらしい。結局のところ進学率が進学校自体の成績という事で学校も会社も、中身は同じなわけだ。
そう思うと少し大人になった気分がする。
「ああ僕は現国とかは苦手だからな、理系中心かな?」
「じゃあたしも、そうしようかな――」
高校も入った途端もう卒業後の事を考なくちゃいけないなんて、頭では分かってはいるけれど肩がこってしまう話だ。
「へぇ。朝日も理系得意だったんだな」
「別に……得意ってわけじゃないけど。それじゃまた明日ね!」


駅へ向かう歩道は綺麗に整備されていて、僕は足を止めた。
(部活か……)
中学校ではバトミントンをやっていた。僕が高校に進学した時に母親も働き出したため、夕食等の家事をやる事にした。そのため部活をやってる時間がない。高校で部活ができないのは残念だったけれど、それを悲しいと思った事はない。
(できる事を一生懸命やればいいさ)
僕は駅へ続く横断歩道を渡った。


 おかるとかのじょ


体育館で1年生全員が集められカリキュラム講座のダラダラと長い説明が始まった。内容はとどのつまり、何とかして良い大学入りなさい。だそうだ。先生たちは並んで「将来のため」だとか「君のため」だと声高に語る。そんな事を言われ続けて16年も経つそれでもピンと来ないのは、その将来が見えてないからなんだと思っている。

それでは物理を選択する者はこちらへ。と先生が促すままに教室を移動する。
なるほど、必須科目以外の授業は科目別にクラスが用意されるわけだ。本来の自分のクラスがあって科目別にクラスがあって、クラスメイトが何人いるのかも分からなくなりそうだった。科目的にも難易度の高い物理を選択する生徒が多いらしく用意していた資料が足りないだとかで、しばらく待たされる事になった。
科目で分けられた新しいクラスは見た事のない顔ぶればかりで、いたたまれない感じがする。皆そんな気持ちなのだろうが、早く友達増やさないと窒息死しそうだった。今まで朝日がいてくれてどれほど助かっていた事か痛感した。
はぁとため息をついて窓を眺めた時、僕とその窓を挟んで隣に座っていた子がこちらを向いた。自分のクラスでは見た事のない子だった。
(あ。僕が彼女を見てたと勘違いされちゃったかな)
恥かしさにとっさに顔を背けてしまった。

「亘理沙織と言います。よろしくお願いしますね」

隣の子が僕を見て、にこっと微笑んだ。まっすぐ伸びた綺麗な黒髪で瞬きするたびに長いまつ毛が揺れる。確かに今時ロングストレートの髪型は珍しいけれど、特別彼女に何かを抱いたわけじゃない。けれど何か不思議な雰囲気のする子だと思った。

「あ……長谷川裕也です、よろしく」

僕は軽く会釈した。彼女はもう一度、呟くような小さな声でよろしくねと言って前を向きなおした。
(そういえば、あいつもこっち選択するのかな)
朝日はこの日、学校へは来なかった。

思ったより遅くなってしまった。まさかカリキュラム講座にこんなに時間がかかるなんて思わなかった。外はすでに日が落ち、外は暗くなっていた。こんな時間じゃ妹はお腹空かせて待ってるだろう。早く帰ってハンバーグでも作ってやらないとな……。
一応メール送っておこうとポケットをまさぐるが携帯電話がない。
(しまった。教室に置いてきちゃったか)
僕は出てきたばかりの校舎へ戻った。こんな時は廊下がやけに長く感じる。校内は消灯時間が過ぎたらしく、さっきまで点いていた電灯が切れている。それでもトイレの前や非常扉、職員室前などには電球が点いているので真暗闇というわけではなかった。おそらく点検のための切らずに残しておいてるのだろう。

ガラリと音を立てて教室のドアを開けた。案の定、電気は消されていて薄暗い教室には机が並んでる。
一瞬、電気をつけようか迷ったけれど急いでいたのでそのまま自分が座っていた机に歩み寄り、少しかがんでその机の中に手を伸ばした。
コツンと何かがぶつかる感触がしてその形から分かる。僕の携帯電話だ。
(あった。よかった)
僕は携帯を持ちながら机から手を抜き体を起こした時、視界の隅に何かを捕らえた。

誰かいる。

「はせがわ……」
「うわぁ!!」

薄暗い教室でも分かる。朝日だ。
いつの間に教室に入ってきたのだろうか。それとも僕より先に居たのか、それは分からないけれど朝日は僕が入ってきたドアとは違う方のドアに立っている。ここが校内だというのにも関わらず、着ているものは制服ではなくパジャマのような私服だった。
どうして制服を着ていないのか?いやそれ以前に朝日は今日、学校に来ていなかったはずだったし、もちろんカリキュラム講座にも来てなかった。こんな所にいるのが不思議で仕方ない。むしろ不自然。と言った方がいいかもしれない。

「どうしたんだ?その格好? パジャマ?」
「長谷川。あたしどうしよう?」

俯きながら僕の方へとゆっくりと机と机の間を歩いてくる。この暗さで顔はよく見えないけれど、今の朝日が普通じゃない事は一目瞭然だ。ぺたりぺたりと床を弾く音に目を向けると靴も履いていないし、パジャマもところどころ汚れている。どう考えても何もかもが普通じゃない。
やがて僕の目の前まで来て、顔をあげた朝日はボロボロと涙を流していた。

「ちょ!? 朝日!?」
「どうしよう。あたし変なんだよ……」

そう言いながら突然僕の手を取りぎゅっと握り、ガラガラと机を倒しながら僕を押し倒した。
腕に激痛が走る。制服の上からだというのにまるで刃物が刺さるような鋭い痛みが突き抜ける。一瞬、何が起こったのか分からなかったけれど、朝日が僕の腕に噛み付いているのだ。
噛み付く朝日を引き剥がそうと、朝日の額に手を当てて押し上げた。そしてハッとする。赤く血走った目が暗い教室の中で赤く光っているのだ。

「フッ! フー!」
「痛てぇ! お、おい!」

必死に引き剥がそうとするけれど、ギリギリと歯と制服の袖が擦れるだけで朝日は離れない。フッフッと短く息を吐きながら、僕の腕を引いたり左右に振ったりするそれは、犬の仕草に似ていたのかもしれない。

「何なんだよ、離れろよ!」

僕の言葉に反応はなく、段々とより強く力で噛み付いてくる。頑丈な制服の生地が破れそうなほど引っ張り、僕の体が少しずつ宙に浮いていく。どう考えても人間も力とは思えないし、鬼の形相とでも言うのだろうか? それほどに変貌している。
何とか朝日を振り払おうと腕をゆするが、いっこうに離れる気配もなく制服の下から血が滲んでくるのが見えた。

突然、パチリと小さな音を立てて教室に電気がついた。

「誰かいるの? ……きゃ」

教室のドアの所に亘理さんが不思議そうな顔で立っている。僕に覆いかぶさっていた朝日はその腕を口から離し、亘理さんを押しのけ教室を飛び出して行った。


      おかるとかのじょ


僕は、ふーっと息を吐いて目の前にある椅子に座った。
噛み付かれていた腕が痺れる。まだ噛まれてるみたいだ。
「長谷川くん大丈夫?」
亘理さんは僕の前に立ってさっきまで噛まれていた腕を痛そうに見る。
「大丈夫、それより……今の見た?」
今の見た?というのはもちろん朝日の事だ。
どうして学校にいるのか?
どうして噛み付いてきたのか?
どうして瞳が赤いのか?そのどれにも答えが見つからない。
「あいつどうしちゃったんだ……」
「知りたい?」
「え?」
亘理さんは少しかがんで、僕を覗き込むように言った。

「イヌガミ憑き」

「……は?」
「愛犬を殺す事で霊を自分に憑依させ、使役する呪詛の一種ね」
「亘理さん?」
「もしかして、その霊が勝手に動いちゃったのかもしれないわ」
「……冗談やめろよ」

そんな訳のわからない話したくない。そんなもので理解も解決もできるはずもない。
亘理さんはゆっくりしゃがみこんで、僕の朝日に噛まれた腕の制服の袖をまくった。そして鞄からハンカチを取り出すと、噛まれた傷口を押さえた。ハンカチにうっすら血が滲んでいる。

「あ、ありがとう」

僕はハッとして息を呑んだ。
血をぬぐった朝日の噛み跡は犬の歯型だったのだ。
「た、たとえばっ……それが本当だとしてイヌガミって何なんだ?」
そう言ってハンカチを綺麗にたたんで鞄に戻した。
「長谷川くんはイヌガミと聞いてどんなものを想像するのかしら?」
……。正直僕はこういう話は全く信じてなかったし、どんなものと言われても具体的に答えられるわけがない。でも言葉くらいは聴いた事があるし、漠然とした想像はできる。
(犬のおばけみたいなものだったはずだけど)
「誰かにとり憑く呪いみたいなものかな?その代わり自分も呪われたりするんだろ?」
「正解だけれど不正解でもあるわね。本来、イヌガミは他人ではなく自分自身に憑くものなのよ。もちろん、他人に憑かせる事も可能だけれど、さっきの彼女のように表面に出てくることはまず不可能ね」
亘理さん制服のスカートを指でつまみ、ふわりと机の上に座った。
「例えば、ここに絵の具があるとして」
空中を指さして、くるくると回す。
「赤は人。イヌガミは青だとして、ね?」
「うん」
「呪いを自分に受ける事で、赤い絵の具に青い絵の具を混ぜるの。紫になったその人は、朝日さんのようになるわ。そうして力を得る事をイヌガミ憑きというのよ。誰かに憑かせようとしても、自身から離れたイヌガミは微力でしかないわ。パレットいっぱいの赤い絵の具に微量の青い絵の具を足したところで、紫にはならないでしょ?」

信じられなかった。亘理さんの説明によれば、朝日が自分自身でイヌガミを生み出して僕を襲ったという事実に他ならないけれど、襲われる理由も見当たらないし教室にいた朝日を思い返してみれば、自身の変化に気づきながらも、その対応に窮してるように思えるからだ。
「それって治せないのか?」
「長谷川くんは、絵の具で作った紫を赤と青に分けられるのかしら?」
できない。という事らしい。
「本来、宿主である朝日さんの方が色が濃いはずで、その力も制御できるはずなのだけれど、半々になってしまうと猫娘ならぬ犬娘ね」
机からぶら下がった足をふらふらさせ、空中を蹴るようにつま先を遊ばせる。
「呪いを解く方法は分からないけれど、呪いを終わらせる事はできるわ」
「呪いが終わる?」
「呪詛主の願いが叶った時じゃないかしら」
「願いが叶った時?」

亘理さんは机から降りて僕に顔を近づけ、覗き込むようにを見上げる。
「そう。願いが。叶った時」


      おかるとかのじょ


……朝日ちゃん?何もないかなー
……あれ? 朝日ちゃんペット飼った事ないでしょ?
……またね。長谷川くん


僕は屋上のフェンスの寄りかかって空を見上げた。
夏に向けて雲が流れてるけれど、まだ少し湿った風が吹く。
(ペットを飼った事がないのにイヌガミ憑き?でもイヌガミを生み出したのは朝日自身だ。わけが分からない。もういっそ、朝日本人に聞いた方が早いんじゃないか?)
僕はフェンスを掴んだ。

「そうだ。もういっそ……」
「早まらないで、長谷川くん」
振り返ると亘理さんが立っていた。風になびく髪を押さえながら、伏し目がちに僕を見ている。ぱたぱたスカートが揺れた。
「長谷川くん、割り込みはいけないわ」
「僕は誰にも割り込んでないよ」
「……」
「……」

ここにいると思って。と小さく呟いて亘理さんは僕の隣に腰を下ろした。
亘理さんは、何でこんなに詳しいのだろう。朝日の事を見た後じゃ、ここまでオカルト好きなんてちょっと痛い子だな。なんて済ませられないけれど、聞くのもはばかられる気がした。
「気になるのね? 朝日さんの事」
「あんなの見た後じゃ気にしない方が難しいよ」
僕の言葉は空に消えて行った。
「朝日はペットなんて飼ってなかったんだ。原因はイヌガミ憑きじゃないかもしれない。もっと別の何かだったのかもしれない」
「あら。あれはイヌガミ憑きよ」
「だって……」

あ……。
もしかして……。

「鈍いのね。長谷川くんは」
そう言って微笑む亘理さんと僕に風が吹き抜ける。
「イヌガミが呪詛主にも、誰にも憑かない場合はどうなるんだ?」
そうだ。そういう場合どうなるんだ? 亘理さんの言うように誰かに使役されたものを使うのなら、弱くなってしまうかもしれない。けれどもし生み出されたイヌガミが呪詛主にも憑かず誰にも憑かず、1人歩きしてしまったら? そしてそれが偶然にも朝日に憑いてしまったのだとしたら? どうなるんだ?」
「こんな言葉は不適切でしょうけど、そうね。長谷川くんに分かりやすく言うならば、それは悪霊とでも言いましょうか。呪詛主自身にも拘束もされず、目的を果たすまで彷徨うと思うわ」
「それでも何かしらの目的があるのか?」
「霊は目的がないと存在できないからね。その時の呪詛主の目的を手段を選ばず実行するかもしれない。でも呪詛主自身も危険だから、そんな事は有り得ないと思ってくれていいわ」
フェンスから体を起こして鞄を担いだ僕を、亘理さんが横目で眺めてる。
「どこへ行くの? 長谷川くん」
「朝日の家に行って来る」
本当のところ呪詛主が朝日なのか、他の誰かなのか分からない。けれどあの時、朝日は僕のところへ来た。イヌガミは目的を果たすために僕のところへ来たんだと思う。それに・・・。
(あの時、朝日は泣いていたんだ)
「あなたがイヌガミの望みを叶えると言うの?」
「……できるならね」
「そう。優しいのね」
朝日の家まで電車で30分。どうやら今日もハンバーグらしい。


        おかるとかのじょ


今が何時だか分からないけれど、夕暮になったいた。朝日の家は駅からすぐの距離だったけれど、ずいぶん遠くに感じた。正直に言うと、とても怖い。
インターホンを鳴らす指が震える。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。勢いでここまで来てしまったけれど、イヌガミに憑かれた朝日を思い出すと、とてもじゃないけど元気におじゃまします。という気分にはなれない。
(僕はバカ野郎だ!朝日が犬だろうと何だろう友達じゃないか!)

インターホンを押す指に力が入りピンポンと鳴る。が反応はない。
(留守?)
引き返そうか迷ったがドアに手をかけ、ノブを回してみた。こういう時に限ってちゃんと開くものだ。
ゆっくりドアが開いていく。しっかりに掃除された玄関に綺麗に並んだ靴と傘。靴箱の上にはおしゃれな観葉植物が置かれている。

「すみませーん。朝日……遥さんいますか?」

僕の声は静かで暗い家の中に吸い込まれていった。
(朝日の部屋は2階だって聞いた事あったな)
何の変哲もない。机に並ぶ綺麗に整頓された教科書や、ベッドの横に置かれたテレビ。ごく普通の高校生の部屋だった。電気はついておらず薄暗い部屋の中をカーテンの隙間から僅かな日が差し込む。
僕がドアを開けたのに気づいて、朝日が振り返った。
「何しに来たの?」
「お、お見舞いに……」
朝日には先日のような気配もなく、意外にも普通な様子に言葉を詰まらせてしまった。
「本当にお願い。お願いだから、あたしに構わないで」
「ご、ごめん」
「知ってるでしょ?あたし変なんだよ。もう死にたいよ……」
朝日はとても悲しそうな顔で微笑んで俯いた。
人間。どういう心境になればそんな顔ができるんだ? 辛い時は辛い顔をするし嬉しい時は笑うものだ。本当の意味での人の絶望なんてものは分からないし、見た事もない。でも今の朝日の様子を言葉にするならそれが一番的確だと思った。
「僕が何とかするから、そんな顔するなよ」
「……」
「き、きっと治るよ」
朝日はふいに俯いていた顔をあげた。
ぐるぐると喉を鳴らしながら、その瞳はみるみる赤に染まり呼吸が短くなる。まるで犬のようだった。
背中にぞくぞく寒気が走り心臓がどんどん早くなっていくのが分かる。間違いない。これは前を同じだ。イヌガミ憑きの瞬間だ。
「お、お前は何がしたいんだ?」
「……」
イヌガミの赤い瞳が僕を捉えて離さない。恐怖で声が裏返りそうだ。いや裏返っていたかもしれない。
「僕に何か用があったんだろう?」
「欲しぃ……」
イヌガミから発せられた声は、当たり前だけど朝日の声だった。
その声を聞くと、不思議と怒りがこみ上げてくる。
(その声でその体で、何やってんだよっ!)
「欲しい?何が欲しいんだ?」
「……」
「何でもくれてやるよ! 早く朝日から出て行けよ!」
「長谷川裕也、ワタシはお前が欲しい。ワタシはそのためにここにいる」
どういう事か分からない。
(欲しいって何なんだ? 僕の何が欲しいんだ?)
返答に迷っているとイヌガミが体を屈めたように見えた。が、次の瞬間にはイヌガミの顔が僕の目の前にあった。

「ひっ」

突然飛び掛ってきたイヌガミのあまりの速さに、僕はなすすべなく押し倒されたれた。イヌガミの赤く光る目は焦点が合っていなかった。僕の行動を全て観察するように左右に細かく振れている。すかさず噛み付こうと口を開けた。僕はとっさに顔を腕で覆ったが、すごい力でその腕を掴まれぎしぎしと骨が軋んだ。

「ぅあ……!」
「フッ! フッ! フッ!」

考えが甘かった。イヌガミは話なんて通用する相手じゃなかった。
顔を覆う僕の腕がゆっくりと除けられていく。体は朝日のはずなのに、どこからそんな力が出てくるのかという程に押しのけられていく。腕の隙間から僅かにイヌガミの顔が見え、恐怖が僕を貫く。
笑っているのだ。この状況を楽しんでいるかのように口の端を引いて歪んだ笑みを浮かべている。
(僕を殺すのか)

「あらあら。興奮したわんちゃんね。発情期かしら?」

ふいにイヌガミの後ろから声が聞こえた。
重なったイヌガミと僕の頭の方に立って、微笑みながら僕達を見下ろしたいる亘理さんがいる。
何でここに? 助けて! 逃げろ! 色々な言葉が喉の奥で詰まったまま出て来なかった。
「使役されたはずの霊が勝手に動くなんて、オカルトは奥が深いわ。それにしても長谷川くん、私のいない所で女の子に押し倒されるなんて、いいご身分ね」
残念ながら今の僕に、軽口を返してる余裕はなかった。
「わ、亘理さん……何とかできないのか?」
「どうしようかしら。2人の邪魔はしたくないわ」
「いや……ほんとに……お願いし……ます」
「仕方ないわね。長谷川くんは、本当に仕方ない子ね」

「朝日さん……オスワリ」


      おかるとかのじょ


もう外は暗かったけれど点々と続く街頭が駅への道を照らす。風はまだ少し湿っぽいけれど、今の僕には十分気持ちがいい。
「別に送ってくれなくてもいいわよ、駅はすぐそこなんだし」
「いや、一応ね」
「本当に優しいのね、長谷川くん」
理由は分からないけれど亘理さんの一言で朝日は落ち着きを取り戻し、そのまま眠りについた。亘理さんによるとイヌガミが消えたわけではなく、押し込めただけなのだとか。消えたわけじゃない事に後味の悪さが残ったけれど、それでも、亘理さんという解決法が分かっただけマシだと思った。
「どうしてイヌガミはおとなしくなったんだ?オスワリって何かの呪文?」
「躾の良い犬だったのでしょうね」
「そんなんで納得できるか!」
「使役する霊を戒める呪言ね。私にしか使えないけれどね……うふふ」
亘理さんにしか使えない……使役する霊を戒める呪言?
使役する……え!?
「え?ちょっと待て!使役……する……霊!?」
「ええ。そうよ。本当に本当に鈍いのね長谷川くん」
どうして亘理さんがいつも、良いタイミングで現れるのか。
どうして亘理さんはイヌガミに詳しいのか。全ての合点がついた気がした。
「イヌガミはお前の差し金か!!!」
「差し金だなんて人聞きの悪い事を言わないで。ちょっと私のわんちゃんを預かってもらってただけよ」
「……」
言葉が出てこない。散々人を振り回して、怖がらせたり助けたり何がしたいんだ。
「これでも反省してるのよ。わんちゃんが勝手に暴れちゃったのは事実なの。いつもは、朝日さんの中で大人しくしてるのだけど……」
「朝日の体は犬小屋か。でもそうした場合、イヌガミは表面に出て来れないんじゃなかったのか?」
確か呪詛主以外の人間に憑いた場合、本来の力が出せなくなるはずで、亘理さんが呪詛主なら朝日がイヌガミに体を奪われる事はないはずだった。
「もしかしたら朝日さんとわんちゃんの意識が同調しちゃったのかもしれないわね」
何を言ってるのか、よく分からなかった。
「それより、どうしてそんな事をしたんだ?」
「……だって……朝日さん、長谷川くんと同じクラスじゃない……」
「そうだけど、それが何なんだ?」
「……私、長谷川くんが……好き。だから……」

(!?)

「つ、つまり僕の事が好きで、同じクラスの朝日にイヌガミを忍ばせる事で、イヌガミを通して僕を見ていたわけか。どうりで選択科目でも一緒になるわけだ」

亘理さんは目を逸らしたまま俯いて小さく何度も頷いた。耳まで赤くなってる。
これが普通の人なら可愛いなと思えるんだけれど……。
(亘理さんは変な人だ!!!)
僕のそれは確信だった。

ふいに亘理さんが立ち止まり、僕の腕をぎゅっと掴んで互いの鼻が触れ合いそうな程に顔を寄せた。

「私の事、嫌いになった?」
「そ、そんな事ないけど」

僕達の出会いは偶然ではなかった。

「もし私が危険な時は、朝日さんみたいに助けに来てくれるかしら?」
「あ、ああ……もちろん」

かと言って運命でもなかった。

「いいえ、朝日さん以上に助けてくれるかしら」
「助けるのに以上も以下もないだろ」

亘理沙織という物語のシナリオだった。

「じゃあ約束のキスをしましょう」
「なんでだよ。そんな事しなくても約束するよ」

それでも僕は……。

「それなら、ただのキスをしましょう」
「だから何でだよ?」

それでも僕は……。

「彼氏と彼女は帰り道にキスするものよ」
「そ、そっか……それじゃ仕方ないか」

まっすぐ伸びた綺麗な黒髪で、瞬きするたびに長いまつ毛が揺れる。

不思議な雰囲気の子だと思った。


「でもラッキーだったわ。あのハンカチは家宝になる」

何か呟いたような気がしたけれど、僕の耳はそれを拒否した。


犬を捕まえ、土中から頭だけだす、籠から頭だけだす、などをして餌を前におきながら食べさせず、首を切り落とし、この犬の首を祀ったものが「犬神」であると言われています。この内容の文献が多いのでこちらを紹介しましたが、その方法は多岐に渡り決してこれだけではありません。
本来、こうして生まれた霊が仇敵をかみ殺すとされ、作中にも書かれたような憑きものとは違うようです。文献の多くには必ずしも使役者に従順とは限らないと書かれ、その多くは禁術扱いを受けていたらしいです。

次話は亘理さんにヤンデレしてもらおうと思います。


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