社会学各論4課題レポート

ブレスその11:人間の条件パラダイムとしての医療
――パーソンズ医療社会学に見る生と死――

1. 医療行為の特徴

 人間誰しも、病気になって辛い思いをしたくないものである。しかし、様々な要因から病気を発症してしまい、その結果として社会的に本来の役割とは異なる「病人役割」を、自発的にしろ他者からの付与という形にせよ享受することになる。病人とて社会を構成しているのであるから、社会規範にてらして適切に行動するよう、期待されている(高城 [2000])。そして、その病気を治療し、患者を本来の「社会役割」に戻すのが医療の果たす役割である。

 本稿では、パーソンズ理論の中でも特に「行為」という概念―さらに役割理論―について、医療という立場から分析してみることにしたい。パーソンズ自身も「現代アメリカ社会学最大の理論的貢献として役割理論の構築をあげている(高城 [2000][2002])」ことからも、これらがパーソンズ理論の骨子をなしているといえよう。さらに、パーソンズ独自の流儀としては、従来別々に展開されてきたリントン流の「構造的役割」概念と、ミード流の「対人的役割」概念の統合を目指していたことが挙げられる。

 いかなる行為であっても、「誰が」「どんな状況で」「どのような手段を」「いかなる基準に基づいて」選択しつつ行為したのかが解明される必要がある。中期パーソンズはこれら行為者と状況との関係様式を「行為者の志向」という観点から分析しようとした。もちろん、医療という行為についてもこれらが完全に当てはまるといえよう。しかし、医療という行為を「志向」という観点から分析する時に、一つの問題が生じる。それは、「医療という行為の専門性」である。一般の人にとって、医療職従事者には高い専門的知識が要求され、その一方で私たちにとって医療というものはもっとも馴染みのない分野である。つまり、その時点で医療に対する認識の乖離が発生している。したがって、相手(医師)の考えている行為に対しての是非が、患者にもそれを取り巻く家族にとってもどのようなものなのか認識されにくいということが考えられる。それが正しいか否かという判断を下すことが出来ない(証明できない)場合、人は「権威」に頼らざるをえない。相手が医療の専門家である以上、それを信用せざるを得ないということになる。それはえてして、治療という行為が一方的な志向に基づくものとなり、相互行為としての医療という観点が抜け落ちることに繋がるのではないだろうか。

2. 患者に求められる役割、医師に求められる役割

 病を患ってしまった人は、軽いものであれば本来やるべき仕事をこなしつつ自然治癒力に任せておくことが可能だが、より重症になってしまった場合、通常その個人に規定されている社会的役割を遂行することが出来なくなる。その代わりに、新たな「病人としての役割」を付加されることになる((1).社会的役割遂行の免除もその一つ)。他に患者に与えられる役割は、「(2).自力回復義務の免除」「(3).病気を望ましくない状態と認め、回復する義務」「(4).(2)(3)のために医療専門職と協力する義務」がある(高城 [2002])が、患者にとってそれは「非日常」であり、当の患者本人が困惑しているために、それらの義務が完全に遂行されるとは限らない。これらのような役割期待に逸脱(回復に抵抗するようなものも含む)するような状況に対して、パーソンズは「逸脱モデル」を考えている。そもそもにおいて病気になるということも(複数ある社会的役割の遂行が不可能になっているという時点で)社会的逸脱の一種であるという考え方にのっとればそのような解釈も可能であろう。

 もちろん「仮病による社会からの脱出」という形で病人役割を扱う場合もあるが、ここではそれについての言及は避けることにし、それ以上に患者に与えられた役割である「回復に向けて努力する義務」「医療の専門家と協力する義務」について考えていこう。むしろ患者に与えられる意味合いはこちらの方が強い(言わば、病人に与えられる回避的権利はこれらの義務との交換によるものである)。最初に「人間誰しも病気になって辛い思いをしたくない」と述べたが、私たちはそれを自己の苦痛・不快感という内面的なものだけでなく、周囲との関係性という外面的なものでも考えた上で、治療行為に踏みきり、そして本来全うすべき社会的役割をこなせるようにするというのが患者の役割なのだろう。

 一方、医療の側にも果たすべき役割がある。「患者の回復を宗とする」「医学上の専門知識と技術を習得し、常に更新する」義務、「患者の私的情報を獲得」し、「患者の信頼を確保する」権利である。しかし、医療というものは元来不確実なものである。外科手術の例を見ても分かる通り、虫垂炎のように心配要らないと思われるような「単純な」手術であっても、麻酔の投与や執刀中の処置を誤ったことによる事故が発生している。外科手術の場合は患者の体内の中枢に直接触れ、直に病気の根を絶とうとする、考え方によっては荒々しい方法なので、このような重篤な事故が発生しやすいが、内科の医療であっても投薬が正しいものなのかどうかは怪しい。仮に病気が治った場合であっても、それが自然治癒力によるのか薬の効果によるものなのか正確には分からないし、また薬には予期せぬ副作用もある。医療の世界は、ほとんど確率論の世界と言っても過言ではあるまい。

 これほどまでに因果関係が定かではない医療において、私はもう一つ医師の側に役割(義務)を追加したい。それは、「自らの志向を明らかにし、患者に自己責任としての選択の余地を与える」ということである。もちろん、患者の治療における医師の責任は問われてしかるべきだろうが、患者側に「協力する義務」があっても、相手の一方的な押し付けに従うことで不利益をこうむることも考えられる場合、患者は「逸脱」しやすい。そのためにも、患者自らに自分の体に対する責任を持たせて、「逸脱」を発生させないようにすることが肝要であろう。そのために医師は、診察時点における患者の体の状況を詳細に説明し、それら情報や治療法の選択肢を本人に開示することによって、患者自身の協力行動を促すことが可能となるのではなかろうか。私の考える「インフォームド・コンセント」とは、説明の上での同意ではなく、説明した上で本人に治療の方針を選ばせることである。

3. 医師―患者関係をどう把握するか

 ここまでは、医師・患者それぞれの果たす役割という観点から議論してきたが、それを分析するに当たって、患者と意思の関係性についても考えなければなるまい。

 パーソンズはこの問題において、「合議制アソシエーション」というモデルを考えたが、その前提となるのが他のモデルでの患者―医師関係(経済的・官僚的・民主的アソシエーション)である。先にも出てきた通り、医師と患者(そしてそれを取り巻く家族)の間には医学的知識の差という越えられない壁がある。その壁(異なる権限・責任・能力を持っていること、そしてそれに起因する思惑の違い)をある程度保ったまま、各人の主観的な視点からの選択を導き出す―特に、患者の側の意思を最大限に尊重する医療が重視されることになる。この試みは既に医師間では導入されている。一人の患者が持つ病気に対してチームで治療に当たることや、あるいはカンファレンスによる治療方針の意見交換などが以前から行われているが、そうした試みを治療法の選択から、しかも素人を交えて行うことが、人間の尊厳を守る医療といえるのではなかろうか。

4. 死の意味するもの

 医療が発達している現在でも、八方手を尽くしたにもかかわらず治る見込みのない患者も少なくないし、また新たな難病も発見されている。それゆえ、病気によって人生に終止符を打つ人も少なくないし、また何らかの形で事故にあって命を落とす人、さらにはそのようなことがなくとも天寿を全うする形で旅立つ人もいる。人はどのような形でも死を免れることは出来ない。ここでは、「死」という不可避なものに対する意味付けを(講義中ではアメリカ社会についての議論だったので、日本における私の主観的な「死」の意味付けを中心に据えて)考えていく。

 アメリカの場合と異なり、日本人はそれほど宗教信仰が篤くないと考えられ、そのせいか死の意味付けは個人によって様々である。藤澤の示した、ICUで6度の大手術の末に亡くなった男性の例(藤澤 [1996])を見る限り、命があってもそこに人間の尊厳を保った生活がなければ、死は束縛からの解放であり、自由の獲得であると思われる。言わば、死ぬということは、社会的にその役割を規定されている人間にとって、そこからの解放という形での自由を手にするという、「自由の飽くなき探求」と考えられよう。もちろん、自殺などは現在の重き束縛から解放されようとする流れということは自明であるが、天寿を全うする形や、不慮の事故で亡くなったり、あるいは心筋梗塞などの急性の病で息を引き取った場合も同様に、それまで自分の周囲において十分な束縛を受けたことによる解放という意味合いが強かろうと思う。

 一般には人が亡くなると葬儀を開くが、これは死者のためのものというよりはむしろ、遺族のためという色彩が強いと思われる。息を引き取った時点で、故人は既に社会的な束縛から解放されているわけだから、そのような社会的しきたりに関与する必要は全くない。むしろ遺族の心のけじめをつけるための行為として葬儀を意味付けるのが自然であろう。埋葬にしても同様に、故人にとってはどの場所にあっても構わない。それをどうするか、そしてどのような形で故人との別れを考えるかによって、選択の余地は多様である。

 以上、医療、そして死の概念についてパーソンズの議論を借りつつ、私の論述をここで終わりにしたいと思うが、機会があれば、「医療における第三者のあり方」や「他者の死という認識」についても何かの形で考察してみたい。


<引用・参考文献>