幼少のころから父と競輪を見に行き、奥深さを知った。
これまで私は競輪選手への取材体験が一度ある。大阪の中川茂一(しげかず)。かつてのA級(現在のS級)1班選手でビッグレースの勝利も刻んでいるが、加齢とともに下級クラスに落ちていった。それでも50代後半まで現役に留まり、踏ん張っていた。その姿を追った人物ノンフィクションである。愛称「モイッツァン」。もう故人となっているが、実に朗らかなる人で、その人柄とともにいまも濃い記憶として残っている。
この折り、「ジャン」「赤板」「ワッパ半分」……この世界の用語をはじめて耳にした。中川は、あるかないかの間隙を縫って強引に突っ込む「マーク屋」で、落車や怪我は数え切れない。競輪という競技が、奥深い心理のからまる、勇気と決断の、そして半端ではないスポーツであることを知っていった。
母の住む京都市内の実家に村上義弘を訪ねた。言葉を交わすうちに、固くて熱い「芯」を持った選手であることが伝わってくる。それはまず、「競輪少年」としての出発の日々にあるように思えた。
村上がはじめて競輪を見たのは幼稚園児のころで、京都・向日町競輪場である。父は競輪好きで、よく付いて行った。小学生の義弘にレースの駆け引きとドラマ性を説明してくれる。作文に、競輪選手になりたいと書いたこともある。
家族を支えるために……母子家庭となった義弘の決意。
1974年7月6日、京都府生まれ。花園高出身。73期。S級S班。'94年デビュー。'02年全日本選抜でGI初優勝。翌年オールスターも制覇。その後、ケガで低迷するも見事に復活。'11年ダービーで8年ぶりのGI制覇。'12年グランプリと今年のダービーも優勝。170cm、75kg。
漠然と憧れていた対象が一気に現実味を帯びて迫ってきたのは中学2年生、父が交通事故で一時命も危ぶまれるほどの重傷を負い、その姿を病室で見た折りだった。
これ以前、両親は離婚して母子家庭となっていて、家計は母の仕事と父からの養育費で賄われていた。母は朝から夜遅くまで身を粉にして働いていた。義弘は長男で、姉と弟がいた。
――これからは家族支えていかんといかん。今から死ぬ気で練習して競輪選手になれば稼げるだろう……。
中学時代はヤンチャ少年だった。ワルガキたちと交わりつつ、夜間と早朝、こっそり自転車に乗りはじめた。場所は坂道の多い洛西ニュータウンで、周辺をぐるぐると回る。ロードバイク用ではあったが、ごく普通の自転車である。少年の風景を見かけたとしても、競技者を目指す練習とはだれも思わなかったろう。ガキ仲間にも夜間練習をしていると口にしたことはない。気持は固く、秘めたるものだった。
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