ある者は過去の記憶をむし返して、われとわが身をさいなみ続ける。ある者はまだ見ぬ罪におびえて、われとわが身を傷つける。どちらも愚かきわまることだ――過去はもはや関係がなく、未来はまだ来ぬ……。
障害を克服できると信ずる者だけが、本当に障害を克服することができる。……一日に一つでも恐怖の対象を克服しない者は、まだ人生の第一課さえわかっていない。
勇気とは恐怖心に抵抗することである。これは恐怖を全然知らないということではない。恐怖をわが物にするということである。人間にはどこか臆病なところがあるからこそ「大胆」というのがほめ言葉になるのだ。ノミがいい例だ。もし恐怖の欠如が勇気であるならば、ノミこそは神の創造した一番勇気のある生物である。相手が眠っていようと目覚めていようと、ノミは平気で攻撃をかける。ノミにとってわれわれ人間に手向かうことは、赤ん坊が全世界の軍隊に手向かうようなものだが、ノミは一向気にしない。ノミは昼も夜も危険と死の真っ只中にいるが、千年も昔にあった、大地震が起こる前の、町を歩く人間のように、平気な顔である。クライヴやネルソンやプットナムを「恐怖の知らぬ者」として数えあげる場合、こうした連中に、もう一つノミをつけ加えることを忘れてはならない。そして先頭に立たせることだ。
人は明日の朝を迎えるにさいして、なんらかの恐怖と希望と心配を持たずにいられない。
メッシーナの花嫁 / シラー
追いつめられた若者が意を決して、「世間」という暴れん坊の顎ひげを引っ張ると、すぽりと手の中に抜け落ちることがある。よく見直すと、それは臆病者を追い払うためのつけひげなのだ。