2013-05-20
■[コラム] 演奏の自由について ― 批評の前提の話し(3) 
いただいた2つのご意見を元に、当方の「批評の仕方」に関することがらを二三、書いておこうと思います。ここまでの議論については「ヒラリー・ハーン評」、「批評の前提の話し(1)」、「批評の前提の話し(2)」とその反応、「ツィッターでの反応」をご覧下さい。
【DFさんのご意見】
「私はハーンの演奏に和声感が無いとは思ったこともなかったので『和声がわからない人物』と断定されているのには非常に違和感がありました。その証左としてシャコンヌの4小節目を上げておられますが、さすがにこのミルシタインのLiveは見事にCisの音価を保って十分に響かせてDにつないでいますね。演奏も素晴らしくいい動画を紹介していただきました。しかし対するハーンの演奏も、Cisの音価は保っていませんが、拍頭にテヌート気味に重く押し出すような響かせ方をしており私には少しも腰砕けとも緊張感を欠くとも感じません。ちなみに他の奏者がここをどのように弾いているかを聴いてみましたが、シェリング、ミルシタイン(ステレオ録音)、ハイフェッツ、マルツィ、ラーラ・レフ、ウート・ウーギ、カンタグリル、イザベル・ファウスト、久保田巧を聴いて、ミルシタイン(Live)のようにたっぷりと響かせている演奏は皆無で、結構あっさり目の響かせ方をしていると感じました。(あと実家に20種類ほど他の奏者のものがありますので今度確認してみます)評論家をお仕事にしていると、コンサート評などご自分の感じたことを絶対的事実のように断定的な書き方をされるのだと思いますが、『自分には』こう感じたとか、『自分は』こう考えるというような言い回しにされた方がいいところもあるのではと感じました。」
まずご意見を下さったDFさんに御礼を申し上げます。何度も言いますが、とかく反応が薄い当サイトで、コメントをいただくのは珍しいことなのでありがたい限りです。当方の筆力不足を反省しつつ、お返事をしたためます。
DFさん「私はハーンの演奏に和声感が無いとは思ったこともなかったので『和声がわからない人物』と断定されているのには非常に違和感がありました。」
まずは「私はハーンの演奏に和声感が無いとは思ったこともなかった」の部分です。これは単なる見解の相違ですが、ではなぜ、このような相違が生じるのでしょうか。
ことは割と単純で、「和声を捉える網目」の細かさが違うだけのことです。つまりDFさんの「和声を捉える網目」が粗く、当方のそれが細かい(あくまで相対差)。その「粗い⇔細かい」は「どちらが善い悪い」といった問題ではありません。単に違っている、というだけです。
ただ事実として「粗い網目」の方は和声感の把握が大味なので、当方にしてみればずいぶん違って聴こえる複数の演奏が、「粗い網目」の方には同程度の和声感に聴こえることがある。それを指して「聴き手としての和声感覚が薄い」ということはできるかもしれません。それは仕方のないことですし、善くも悪くもありません。
演奏者にもそういう「和声感覚の濃淡」があります。当方にしてみると、ヒラリー・ハーンは和声感覚が薄い演奏者、ということ。「聴き手としての和声感覚」の濃淡によって、ハーンの和声感覚に対する評価は異なるでしょうから、DFさんと当方とでそれが異なっていても、それは見解の相違という他ありません。「聴き手としての和声感覚」については「見解の相違」で話しは済むのですが、「演奏者としての和声感覚(の表出としての演奏)」については、そう鷹揚に構えられません。調性音楽を演奏する音楽家にとって、和声感覚の表出は中心課題のひとつだから。そのことはすでに「ワセーワセーと叫ぶワケ」で書いた通りです。だから、演奏家を批評する立場の人間が、聴き手として鋭い和声感覚を持っておいた方が好いのは言うまでもありません(それが僕に備わっているかについてはまた別の問題)。
DFさん「ミルシタインのLiveは見事にCisの音価を保って十分に響かせてDにつないでいますね。演奏も素晴らしくいい動画を紹介していただきました。しかし対するハーンの演奏も、Cisの音価は保っていませんが、拍頭にテヌート気味に重く押し出すような響かせ方をしており私には少しも腰砕けとも緊張感を欠くとも感じません。(中略。さまざまな演奏者の名前を挙げたのち)ミルシタイン(Live)のようにたっぷりと響かせている演奏は皆無で、結構あっさり目の響かせ方をしていると感じました。(あと実家に20種類ほど他の奏者のものがありますので今度確認してみます)」
長くなったので、以下は短くまとめます。「和声の緊張と緩和」は「シ→ド」の「シ」の音価で決まる(と思って例を挙げた)わけではありません。ただDFさんも当方同様、分かりやすい一例をあげて御説明なさっているだけだと解釈しています。
ときおり、たくさん聴いた経験があることを根拠に「自分に聴く耳がある」と暗に主張なさる方がいらっしゃるのですが、(今回の和声感の問題で言えば)網目が粗いままにいくら聴いても、弁別する枠組みが変わるわけではありませんから、端的に結果は同じです。したがって、ああいう短くない曲を何人分も聴いている時間がおありなら、調律を自分で変えることが容易いクラヴィコードなどを使って、和声進行を試してみたり、その際たとえば、属和音の「シ」や属七の「ファ」、属九の「ラ」の音程を和音の中で微妙に調整することで、緊張感がどう変化するか、それを主和音でどう緩和させるか、等々を探ってみるほうが、今回の問題を考える上ではためになるように思います。
文体については今のところ、変えるつもりはありません。
【bangさん(@bang10 on Twitter)のご意見】
「理論に囚われた頭でヒラリー・ハーンの『新しさ』を感じられないのなら、それは不幸と言う他無い。というか、ある一つの立場からの一面的な分析で全体を断じるのは批評家のすることではない。」
まずは意見を下さったbangさんに御礼を。「理論に囚われた」というおっしゃり方からして「和声」の指摘に関して主に、批判の声をあげておられるように思います。さらに「新しさ」についても述べておられるので、以下、当方が考える「演奏における新しさ」について書いておきます。
レコードだったら何度すり切れてもおかしくないほど調性音楽の演奏が繰り返されているのは何故でしょうか?音楽自体は古くても、それを再生する演奏に「音楽の新しさ」が現れるからだ、というのもひとつの答え。そうだとすると「音楽の新しさ」は「演奏の自由」から生まれてくるはずです。楽譜として固定された作曲家の指示は、bangさんにとっても当方にとっても同じ。それなのに両者では違った様相の演奏が行われる。それは奏者に「演奏の自由」が認められているからです。
では演奏の自由とはどういうことなのでしょうか?音楽には「規則の網目」が張り巡らされています。奏者はその規則を踏まえる事と、その網目の及ばないところで自由な楽想を展開する事とを同時に行います。なかには網目の上で自由に羽ばたこうとしたり、羽ばたくべき場面で根拠のない慣習に縛られたりするものも。新しさと奇妙なだけとを区別できないのは不幸と言う他ありません。問題はその線引きがどこかということ。これはたいへん難しい事柄なのですが、条件を絞ればはっきり見える部分もあります。
そのひとつが和声の問題です。調性音楽にとって和声は、人間にとっての脳みそのようなもの。体の一部に不具合があっても脳みそがあれば不健康ながらも生きていけますが、他の全ての部位が健康でも脳みそがなかったら、その人は死んでいます。
そもそも和声ってなんなのでしょう?簡単に言えば「緊張と緩和のメカニズム」のこと。緩和した状態から緊張を高めてまた緩和する。これを繰り返すことです。曲が不確定で偶然に任されているようなものでない限り、調性音楽においてはどこで緊張しどこで緩和するかは奏者に任されていません。これは作曲者の専権事項です。だから緊張すべきところで緩和したり、緩和すべきところで緊張することは、調性音楽の原理上、許されていないのです。
ただし、どう緊張させてどう緩和させるかは奏者に任されています。ひとつ例を挙げてみましょう。モーツァルトの《クラヴィーア・ソナタ イ長調》K.331。第4小節「ソファミーレ(階名唱)」は属和音で、緊張が最も高まるところ。ここへの緊張の高め方に注目です。
内田光子は定石通り、第4小節に向けてクレッシェンド、属和音でスフォルツァンドし、次の主和音にふわりと着地します。いっぽうラフマニノフは変わっていて、第4小節に向けてデクレッシェンド、属和音でピアニッシモ、次の主和音であっけらかんとメゾフォルテ。どちらも緊張すべきところで緊張し、緩和すべきところで緩和しています。しかし描き方は正反対です。ここに演奏の自由があるのです。
緊張すべきところで緩和したり、緩和すべきところで緊張したら調性音楽は台無し。規則の網目の上で自由に羽ばたこうとしている勘違い演奏です。いっぽう内田やラフマニノフ、とりわけ後者は、和声という規則の網目を踏み外すことなく、それが及ばないところでは自由に羽ばたいています。
つまり、規則の網目に忠実に従っても自由な演奏はあり得るし、自由に演奏しているつもりでも単なる「形無し」に陥ることがある、というわけです。より正確に言えば「規則の網目に従ってこそ、自由な演奏はあり得る」というのが当方の立場。それは上記の例でお分かりいただけたのではないでしょうか。だから、和声感覚の希薄なヒラリー・ハーンの演奏(ここではバッハやモーツァルト)は、従うべき規則の網目から外れているので、他で工夫をしたとしても真の新しさにつながらない、と批判しました。
当方は差し当たり、この水準で「(調性音楽の演奏における)新しさ」を認識しています。これも当方の批評の前提のひとつです。
なお当方は、具体例に挙げているようなミクロな事柄が2つ3つ気になったから、それを拡大解釈して問題を指摘している、というのではありません。大きく音楽を捉えたときに感じる/読み取れる違和感→各所に表れる具体的な問題点→それを全部書いているわけにはいかないから、そのうち分かりやすい例を取り出し提示する。そういう手続きをとり、そういう順序で書いています。そういう「叙述のダイナミクス」=「論の視点移動」を当方がうまく表現できていないことは大いに反省いたします。こういう視点移動がスムーズにできる方は、書き手としても読み手としても優秀だなあ、と思います。
追記:当方の音楽批評に関する考え方は以下の文章にもっともよく現れています。いま読むとずいぶん穴だらけですが、考えの大枠は今でも変わっていません。PDF → 音楽評論『音楽批評は何のために?』2007年
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ハンドルネームの通り、私はそれなりの水準の専門教育を受けた演奏者なのですが、
まさか理解不足と言われ和声の解説をされてしまうとは驚くやら新鮮やら。
確かに御指摘の通り調性音楽における和声は非常に重要でしょう。
シャコンヌのくだりも、まあ和声的には正しい指摘です。ただそれを踏まえた上でどう演奏するかはまた別ですが。
「規則の網目」のうち「和声」についてはそれなりに机上のお勉強をされて(ご自身の評価では)網目が細かいのかもしれないです。
しかしだいぶ狭い視野でその網目にこだわっているうちに、和声の網目にからめとられて雁字搦めになっているようです。
音楽には他にもとても大切な規則の網目がいくつもありますので、そちらに穴があいていないか見てみた方がいいかもしれないです。
批評には一部しか書いていない、と言われてしまえばこちらも何も言えませんが、
ちらっと過去の批評を拝見するにきちんとした分析をコメントされているのは和声の領域ばかりで、
それ以外はやや漠然とした表現のような・・・(私の読解力不足であればすみません)。
前回も書きましたがフォーレはいかがでしたか?和声が難しすぎたのか、それとも今後紙媒体に掲載予定でしたらお教え下さい。
最後に一点、ハーンのヴィブラートを「オートマティック・ヴィブラート」だの「因習」だのというのはさすがに論外だと言わせて下さい。
ヴィブラートの深さ、速さは十分に考えられており、それを使いわけています。これはEICのラヴェルに対する批評にも当てはまります。
これみよがしのあからさまな「ノンヴィブラート」の箇所が欲しかったのかもしれませんが、それがなかったからといって個人の好みを超越してオートマティックといってしまうのはいかがなものかと思います。
総じて、芸術としての演奏より学問としての音楽学に偏っている印象です。机上と舞台上は似て非なる世界です。
どうか和声の絶対感に溺れずに、さらに広い視野と耳を育てていただきたいものだと夢想します。
願わくば、批評家なんぞに惑わされずに自分の耳で聴き、判断できるような日本の聴衆が増えんことを。
長文を大変失礼致しました。
そうですか、自分の考えと絶対的事実を分けて書くというおつもりはないですか。少なくともこのような過激な発言は「自分にはこのように感じる」という言い回しにした方がご自身のためだと思うのですが。。。
言いたいことはたくさんありますが、CNSMDPさんが非常に明晰にコメントされていますのでこれ以上は申しません。CNSMDPさんのコメントでお考えが少しでも変わられることを祈っております。失礼しました。
自称パリ国立高等音楽院様こそ、是非「さらに広い視野と耳を育てていただきたいもの」だと思います。