幼少期のアパート生活
当人は父親の出身地である八尾市の「安中地区育ち」と言いながら、その実、そこではなく、東京・渋谷区に生まれている。だが、母子家庭で育ったという以外、父親像ははっきりしない。
父親は現在、同和地区住民のために建設された八尾市営の安中墓地に眠っている。橋下自身も、毎年、父親の供養のため墓地に参り、線香を焚いている。
一方、母方の祖父は軍人だという。つまり、同和地域とは縁もゆかりもない女性が、たまたま同和地域に住む男性と知り合い、結婚したということではないだろうか。しかし、その結婚生活はうまくいかなかった。
母親が結婚後、八尾に住んだかどうかは定かではない。少なくとも、長男である橋下が生まれた一九六九年当時は、東京に引越し、渋谷区の幡ケ谷で暮らし始めている。
橋下一家が生活していた幡ケ谷のアパートは今もある。京王線幡ケ谷駅から北に伸びる六号通り商店街から路地に入ったあたりだ。小学四年生まで通っていた小学校は、そこから歩いても五分くらい。アパートは三階建てで、木製の玄関ドアに建物の年齢を感じさせる。一階に大家の経営する質屋があり、二階から上を賃貸している。それぞれの階に二部屋あるだけの小さなアパートだ。
「橋下さんところの部屋は三階でした。前は都内の別の場所にいて、長男(知事)が小学校に上がったころに入居し、五年くらいここに住んでいました」
大家は言葉少なく、そう説明してくれた。間取りは六畳と四畳半の2DK。風呂トイレ付で、家賃は五万円ほどだったという。同じ小学校に通っていた一歳上の幼馴染みからも思い出話を聞けた。
「橋下君とは、よく家の前の路地で、野球やメンコ、カンけり、ドロ警(泥棒と警察)をいっしょにやりました。彼はリトルリーグに入っていたので野球もうまかったし、足も速かった。書道やそろばんもならっていて、頭も良かったんです。家にも何度か上がらせてもらいました。でも、お父さんの顔は、一度も見たことはありません」
ジャイアンツの帽子をかぶった小学生
商店街の米屋も、橋下一家のことをよく覚えている。
「橋下さんは、下と書いてモトと読ませるのが珍しいので、記憶に残っています。息子は小学生にしては背が高く、首が長い。
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Reply #1 on : 2011/02/13 11:30:42