FC2ブログ

みちのくひとり旅と「最後の女」の意味を考える

「ここで一緒に死ねたらいいと
すがる涙のいじらしさ
その場しのぎのなぐさめ云って
みちのくひとり旅
うしろ髪ひく悲しい声を
背でたちきる道しるべ
生きていたならいつかは逢える
夢でも逢えるだろう」(作詞:市場馨、作曲:三島大輔、歌:山本譲二)



先日、弘前の鍛治町のスナックで歌った。
もともと、私がオンチに生まれているので、
飲んで酔っても歌うことなんか、これまでほとんどない。
それでも、仲間にせかされて、聞き覚えのあるこの歌を選んだ。
どうせ恥をかくなら、「みちのく」の歌でというわけだ。



歌っているうちに、この歌はどこからどこへの向かう旅なのかと思った。
激しい言葉を投げかけながら、男の一人旅の歌らしいが、どこからどこへいくのか。
歌詞の中に、松島と白河という地名が入っている。
東北の太平洋側を旅するようだが、それはどこから来たのか
どこに行くのか。
旅の途中か。


私のように、東京にコンパスの針の1つを置いていると、
東京に行くのか、みちのくに行くのか。


みちのくを東北のある地域だとすれば、
その地域を出て、東京に行く歌なのか、
それとも、東京からみちのくに行く歌なのか。
それともみちのく=東北各地間を移動するのか。
そんなどうでもいいようなことを考えてしまう。


青森の人々からすれば、先のわからない場所への旅立ち。
たとえば、都会の東京か。
私の場合には、東京から青森・弘前への旅か。



「ここで一緒に死ねたらいいと」という出だしの歌詞。
相手の女と死ぬという、ぶっそうな出だしである。
ここでの死ぬというは、むしろ生きることを指している。
そこで、生き続けて、死んだらいい。


ひとり旅の起点は、二人以上の仲間=集団をなす地域。
生れながらの仲間のいる地域で死ぬ=生きおおせることが基点。
そこからひとり旅、出て行くのだ。
そこから新しい自分の世界を見出す。



悲しみをこらえながら、回りの行くなという声を聞きながら、
生きていたならいつか逢えると思いを断ち切る。
つながりの深い関係を断ち切る。
新しい自分の世界を見出すために。


ふるさとから出て、先の見えない都会に出る。
郷里を捨てて、都会に出る。
そんな歌だとすれば、みちのくひとり旅は東北から東京に向かう歌。
ふるさとを捨てて、都市に出る歌だ。
出稼ぎの歌といってもいい。



この歌詞の最後のパラグラフでいう。
「どんなに恨んでいても」
「どんなに灯りがほしくても」
「どんなにつめたく別れても」
「どんなに流れていても」


これは旅立つ理由。
ふるさとを恨むことがあっても、ふるさとが寂しいものであっても、
ふるさとでつらい別れを迫られても、ふるさとで自分が自堕落になって・・・
出ていくことになった。


それでも、このふるさとが自分にとって、最愛のものだと歌う。
「お前が俺には最後のおんな」だと、熱唱する。
この地こそがふるさとだ。





コメント
コメントフォーム
Name
Mail
URL
Subject
Comment

Pass
Secret
管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)