実家は岐阜県駄知町(現土岐市)で製陶業を営み、丼を作っていました。おやじとおふくろ、おじいさんと姉の五人家族でした。
自宅近くに「もろ」(工場)があり、おやじは機械で土を作って型に入れるのが仕事。おふくろはそれに釉薬(ゆうやく)を付けたり絵を描いたりしていました。
小さいころは、もろで遊んでいた記憶しかないですね。テレビのキャラクターの形を作って焼いてもらっていました。手伝いもしましたよ。家を継ぐつもりでいたんです。
一カ月に一度、徹夜で窯をたく日以外は、朝晩必ず家族一緒に食事をしていました。夜は居間でテレビを見てお茶を飲み、お茶菓子が出て一日が終わる日々でした。
◆無念の家業廃業
高校は工業高校の窯業科に進みました。ところが二年のとき、燃料費の高騰などで廃業することになったんです。
このころ、おやじが早い時間に帰ってきていたんです。違和感を覚えて「何か変だね」と言ったら、おふくろが「そんなことを言うもんじゃない」と怒ったんですよ。かばう口ぶりに、夫婦なんだなと思いました。継ごうと思っていた家業がなくなり、当時は「人生、何が楽しいんだろう」と悩んでいました。
高校時代は演劇部に入っていたんです。つかこうへいさんの芝居が好きで、就職してからは、よく休日に東京へ通っていました。
◆つかさんに憧れ
二年間働いて「役者になりたい」と言ったときには、両親はびっくりして反対しましたね。あてもなく仕事を辞め、芝居のオーディションに自己紹介のテープを送ったら、たまたまつかさんの耳に入ったのが幸運でした。声に特徴があったらしく、電話で「明日来られるか」と言われたので「行きます」と即答しました。仕事から帰った両親に報告すると、普段元気がなかった僕の声が、喜びで聞いたことがないトーンだったんでしょう。納得して東京に出したと思います。
初舞台は両親や親戚が六人で来てくれました。おやじに芝居の感想は聞きませんでしたが、テレビに出ると「照れくさい」と言っていました。
二〇〇七年に地元の岐阜県瑞浪市で初めての公演があったんです。前日に姉から「話がある」と言われ、待ち合わせて病院へ。おやじががんで入院していて「長くない」と言われて。その夕方が公演で、変なテンションで芝居をしました。亡くなったのは、ちょうど仕事が空いて見舞いに行ったとき。おやじの容体が急変し、葬式の段取りもすべてできました。僕を気遣っていたんでしょうか。
親戚に聞くと、おやじは結婚式などでは絶対に人を笑わせることをやっていたらしいんです。家族の前ではやらなかったのに、サービス精神があったんでしょうね。内向的で無口なところも含めて性格が僕と同じです。趣味で粘土細工は続けていますが、最近は本当に駄知で焼き物をやりたいな、と思うんですよね。
(聞き手・稲田雅文、写真・小平哲章)
<酒井敏也(さかい・としや)>1959年、岐阜県生まれ。劇作家・つかこうへいさんの作品に数多く出演する。特徴ある甲高い声や話し方などから個性派俳優として、舞台やテレビドラマなどで幅広く活躍する。29日に名古屋・栄の中日劇場で開幕する「早乙女太一 特別公演」(7月15日まで)に出演する。
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