歴史ある発電所の内部にお邪魔してみた=福井市の足羽発電所で
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節電の夏。新聞には毎日、電力会社の電気供給を予想する「電気予報」が載っています。そこで気づいたのですが、県内には北陸電力と関西電力のエリアがあるんですね。どうして、こんなことになっているの?
70年前、国が再編命令
敦賀、美浜の境
一つの県内に電気予報が二つとは、確かにちょっと不思議な感じ。早速、調査開始だ。
まずは電気事業法を所管する県地域産業・技術振興課へ。しかし「うちでは分からない」とあっさり。それなら、次は発電施設に関する法律を所管する電源地域振興課だが、ここでも「うちが知りたい」と逆に聞かれる。ただ「北電と関電の境界は、敦賀市と美浜町の市町境」と教えてくれた。
うーん、嶺南と嶺北の境目は一般的には敦賀市と越前市の境界だよなあ。なのに電力会社の境はもう一つ西。ますますすっきりしない。
なら次は、全国の電力会社十社でつくる電気事業連合会(東京)に電話取材だ。
広報担当者に聞くと「一つの県に複数の電力会社が存在することは、珍しくありません」とのこと。
電気に関する統計情報を集めた「電気事業便覧」をめくると、確かに福井の他にも静岡、岐阜、三重、兵庫、香川、愛媛の六県は、複数の電力会社が配電している。都道府県境と営業区域が一致している電力会社は北海道、東北、九州、沖縄の四社だけで、一致しているように見えた四国電力も、香川、愛媛両県の瀬戸内海にある島の一部が向かいの中国電力から送電を受けていた。
県庁で聞き込んだ情報をぶつけてみる。電力会社の統廃合が関係しているのでは?
広報担当者は、ちょっと困ったように「はっきりとは分かりません」と回答するが、こちらを気の毒に思ったのか一冊の本を紹介してくれた。電気産業の歴史をまとめた「電気事業発達史」。三百ページ以上ある分厚い本に、謎の答えが隠れているようだ。
この本と、県環境・エネルギー懇話会がまとめた「福井県のエネルギー」によると、日本の電力事業は今から百二十八年前の一八八三(明治十六)年、東京電力の前身である東京電灯が開業したことに始まる。福井ではその十六年後の九九年に京都電灯福井支社が開業。一九〇八年には敦賀電灯と越前電気、一〇年には三国電灯が開業した。
戦争きっかけ
この時期は日清、日露戦争のころ。家庭に明かりをともすため広まった電気が産業界で引っ張りだこになり、供給不足に陥ったことなどが全国で電力会社が生まれるきっかけになったそうだ。
乱立する電力会社の勢力図が一変したきっかけは第二次大戦。電力業界の猛反対を押し切って国が九つの電力会社への再編を命令し、国家管理を強化した。敗戦後のGHQの占領政策の中でも再編の構図は引き継がれた。ただ、肝心の境界線がどうだったのかの記述が見つからない。北陸電力福井支店に関連資料があると聞き、訪ねてみる。
広報担当の冨坂清二さんが見せてくれたのは、北陸地方電気事業百年史。そこには「北陸配電(後の北陸電力)を設立し、配電区域を福井、石川、富山とする。ただし、福井県大飯郡、遠敷(おにゅう)郡、三方郡は当分の間、関西配電の配電区域とする」という国の命令書が出たという記述があった。命令書の日付は、四一年九月。どうやらこれが国の再編命令の具体的な内容のようだ。境界線はまさに今の営業区域とピッタリ。なるほど、北電と関電の境目は、七十年前に国の命令で決まったんだ。
電力会社の境目にも、さまざまな歴史があったんだ。その歴史を実感できる場所があると聞き、訪ねてみる。
福井市東部の山あいにある東天田町。一九四九(昭和二十四)年に稼働を始めた足羽発電所は、足羽川の水力を利用し、生活を支える電力を今も送り続ける。完成当時は「拍手をもって迎えられた」というが、その時を知る人は既にいない。
暗闇を初めて照らした電灯の感激。そのころを想像しながら今の生活を見つめ直せば、節電もそう窮屈ではないかもしれない。
全国の電力会社 北海道から沖縄まで10社があり、それぞれが区域の配電事業を独占的に行っている。かつては電力会社が乱立し、1907(明治40)年に116社、25(大正14)年には738社にもなった。その後、技術の発展で遠距離送電が可能となり競争が激化。各地で統廃合が進んだ。大戦時は軍需で逼迫(ひっぱく)した電気供給力を強化するため、国が41(昭和16)年、国家総動員法に基づき沖縄を除く国土を9電力会社に再編する命令を出し、現在の営業区域の基礎となった。
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