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津波被災地はいま 海の仕事やるしかねえ 牡鹿半島鮫浦湾

震災当時の様子が生々しく残る石巻市の牡鹿半島谷川浜。手前は津波で破壊された宮城県水産技術総合センターの跡=22日、石巻市の谷川浜

 宮城県石巻市の鮫浦湾は牡鹿半島の東部に位置し、太平洋を臨む。豊かな漁場とともに生きた湾奥の3集落は、東日本大震災の津波で漁港も、集落も壊滅した。悪夢から2年2カ月。三つの浜を訪ねた。

◎ため息の先に夢託す

<職住一体危機>
 同市中心部から車で1時間弱。復旧途上の砂利道が続く県道41号線を、大型トラックが砂ぼこりを上げて行き交う。
 浜に沿って、半島じゅうから運ばれたがれきが山をなす。養殖漁業の拠点だった宮城県水産技術総合センターの建物跡が、津波の猛威を物語る。
 養殖の作業小屋が点々と姿を見せ始め、谷川浜の集落に入った。同地区を襲った津波は最大約18メートル。61戸中60戸が流され、住民約170人中25人が死亡・不明となった。
 「先が見えねえ。若い衆は残らないんでねえか」。旧大原中仮設住宅に住む区長の渥美勝彦さん(61)が、深いため息とともに話した。
 近くの高台への集団移転希望者は、災害公営住宅を含めて15戸。養殖業は再開したが、石巻の中心部に移り住み、浜に通う漁師もいる。職住一体の集落の風景が消え、浜が「勤め先」になる危惧は消えない。
 半農半漁だった住民もいる。水田は全て津波をかぶった。宮城県は浸水した農地と宅地計24ヘクタールの圃場を整備するという。渥美さんが浜に漂う空気を代弁した。
 「農機具を流されたのに農業ができっか? みんなしらけてんだ…」

<復興バラバラ>
 谷川浜を後にし、北隣の大谷川浜に向かう。最大約21メートルの津波が押し寄せたが、住民約100人は山に駆け込むなどして奇跡的に助かった。
 木村冨士男さん(75)を訪ねた。2005年に石巻市と合併した旧牡鹿町の最後の町長だ。自宅は津波で流された。
 「もし(合併せず)町として残っていたら、もっと復旧、復興は早かったんでねえか。今の石巻市は広すぎる」
 復興の歩みは遅い。合併の決断は正しかったのだろうか。自問自答の日々に、口をつく言葉は次第に厳しくなる。
 「道路、海岸、河川の復旧、集団移転がバラバラだ。地域の意向を取り入れないと無駄な工事になりかねねえな」
 なりわいの復活へ、自力で歩みだした人々がいると聞き、隣り合う鮫浦地区に足を運んだ。

<風評の影響も>
 漁師阿部誠二さん(29)は、船と作業小屋が津波被災を免れた。小屋の周りには、ホヤの種付け用に使うカキ殻がうずたかく積み上がる。
 震災の1カ月後、建設業を営む親族らと漁港の岸壁をかさ上げし、船着き場を応急復旧させた。今は刺し網漁で生計を立てる。「ここで海の仕事をやるしかねえ」と阿部さんは前を見据える。
 ブランドを構築して都市と浜を直接結ぶ構想を描くが、気掛かりは福島第1原発事故の風評被害だ。「タラは以前の半値以下。いま、ブランド作っても逆効果かもな」。試行錯誤は続く。
 浜には希望もある。
 大谷川浜地区の渥美英俊さん(26)は6月、学生時代に知り合った仙台市の女性と結婚式を挙げる。古里で、父と一緒に漁業を営むという。
 石巻専修大で経営学を学んだ。震災後、仙台市内の会社で経理を担当したが半年で辞めた。養殖漁業の方が実入りがいいと考えたからだ。
 「農業と組み合わせてリスク分散し、加工と販売も兼ねた6次産業化を進めたい。何とかなる」。渥美さんは、浜のあしたに夢を託す。(報道部・片桐大介)
   ◇
 東日本大震災で被災した東北の太平洋沿岸部には無数の浜が点在する。なりわいの崩壊や住民流出、後継者不足…。復興への道は険しいが、次代に向けた新たな希望も芽生えている。小さな浜を記者が歩き、人々の営みを点描する。


2013年05月31日金曜日


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