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米軍統治下で言論の自由が争点になった「人民」事件の裁判資料一式が、53年ぶりに見つかった。琉球政府が米軍の指示に沿って人民党機関紙「人民」の発行を不許可にし、党が取り消しを求めた裁判。板挟みになった琉球政府は「米軍の指示は超法規的で有効」と、苦しい主張を展開したが、一、二審とも裁判所は法に基づき出版不許可の取り消しを命じ、政府は敗訴した。政府の代理人を務めた元職員の比嘉正幸さん(79)=那覇市=は「負けて当然。裁判官の勇気をたたえたい気持ちだった」と振り返る。(阿部岳)
資料は、元人民党幹部で原告だった真栄田義晃さん(86)が那覇市の自宅で見つけた。1960年10月の訴状や準備書面の写し、61年8月の一審判決、同12月の控訴審判決の原本が含まれる。復帰前の裁判記録は大半が所在不明で、貴重な資料だ。
琉球政府は当時、米軍の布令によって出版物の許可権を持っていた。人民党の申請を受け、「許可してもさしつかえない」として、米軍に承認を求めた。
しかし米軍は書簡で「ニュースを曲げ、偏見を持って書き、住民を混乱させることは明らか」などとして不許可を「勧告」。琉球政府も一転、「書簡により許可できない」と人民党に通知した。
比嘉さんは当時、琉球政府法務局に入って4年目。訴えられた政府の代理人を務めることになり、「困った」という。「言論の自由はいかなる理由があっても守るべきだ。理屈では負けるに決まっている」と思ったからだ。
板挟みの中、一人で全ての書面を準備。「琉球政府は高等弁務官の補助機関」「書簡であっても法的拘束力がある」など、自治とは名ばかりの現状を前提に論理を組み立てた。
「裁判官が弱気になり、保身を考えれば勝つ可能性がある」とも考えた。しかし、一、二審の判決は「書簡は法令ではない」「許可しないよう助言しただけで、命じたものではない」と、政治的配慮を抜きに、法と事実に基づいて出版不許可の取り消しを命じた。
「勝っても喜ばなかっただろう。負けたけど、裁判官は偉いと思った」という比嘉さん。自身もその後琉球政府の裁判官になり、米軍が裁判権を奪った事件では抗議の先頭に立った。
「人権も何もない復帰前、裁判官には『自分たちがしっかりしなければ』という意識が強かった。強大な米軍に立ち向かい、人権のとりでの役割を果たせたのではないか」と語った。
今の裁判官 米軍に遠慮
「沖縄言論統制史」の著書がある門奈直樹立教大名誉教授(ジャーナリズム論)の話 「人民」事件裁判の結果、出版許可制は有名無実化し、その後廃止された。沖縄が言論の自由を勝ち取る過程で、最大の闘いだった。
琉球政府の裁判官は占領下の当時、米軍という全能の支配者に毅然(きぜん)と立ち向かった。逆に今、独立国である日本の裁判官の方が米軍に遠慮して、爆音差し止め訴訟でも責任を追及しない。人権の普遍的価値に依拠せず、日米安保体制のあしき現状肯定に流れている。