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歴史のお話その130:統一国家の成立①  

<秦の中国統一その①>

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始皇帝

◎秦

 紀元前221年、秦が中国を統一し、都を咸陽(かんよう)、現在の西安近郊に定めました。
秦が戦国時代を終結させる事が出来た理由は、まず法家の採用でした。
商鞅、李斯等法家の政治家を抜擢して内政改革を断行した事が国力の強化につながりました。

 更に、秦が地理的に辺境地帯に在った事が有利に働いたと思われます。
戦国時代の先進国は韓、魏、趙の3国で、この一体が一番文化が進んでおり、改めて地図を見ても面積は小さいのですが、言い換えれば面積が小さい事は、それだけ人口が集中している事の裏返しです。その様な場所は、文化が高いと見て差し支え無いのですが、しかし、それは開発の余地が少ない事でも在るのです。

 秦は辺境の後発国なので、進んだ地域の文化や技術を効率よく取り入れる事が可能で、未開の地が多く存在し、周辺に向かって領土を拡大することもできた訳です。
現在の四川省方面を領土に組み入れて国力を伸ばしました。

 辺境の国としては南方の楚も同様です。
やはりこの国も戦国末期には強国として秦と対抗していますが、最終的に秦に敗退します。
後の時代、秦が滅亡した後、項羽が楚の地から出て、一時中国全体に号令するように成ります。
この地域には、やはり秦と対抗できる様な力が存在したのでしょう。

 秦が中国統一した時の王が政(せい)でした。
秦王政は、周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配する事に成り、結果的に王の称号では満足出来ず、王よりも位の高い称号として、皇帝という呼び名を発案しました。
世界初の皇帝で、自ら始皇帝と名乗ったと云います。
彼は、秦の国が永遠に続くものと考えて、子孫の名前も決め、自分を継ぐ二代目は二世皇帝、その次は三世皇帝として皇帝名にするように決めたと云います。
実際は三世皇帝で秦は滅んでしまうのですが。

 始皇帝、秦王政は統一を成し遂げた実力の在る人物でした。
仕事も精力的に行い、一日に公文書を30kg分読んで決済を続けたと伝えられますが、文書を重さで量る事自体凄いと思います。

 始皇帝に纏わる話は数多く存在し、先代の秦王の直系の子供ではないと云う、出生の秘密も言い伝えられており、有名事件が始皇帝暗殺未遂事件でした。
 
 秦による統一直前の事、秦の政王を殺せば滅亡を免れると考えたのが燕の太子。
太子は荊軻(けいか)に政の暗殺を依頼するのです。
戦国時代は能力主義の時代でしたから、暗殺技術も立派な能力として認められていました。
荊軻は職業としての殺し屋ですが、この時は流石に自分の死を覚悟して秦に向かいます。
手みやげがないと政に謁見できないので、秦からの亡命将軍の首と燕の領土の地図を持って行き、首尾よく政に謁見し、地図の中に隠し持っていた短刀で政に斬りかかったのです。

 ところが第一撃で刺し損なってしまった。

 謁見の間には多くの秦の役人や軍人が居並んでいるのですが、宮廷で武器を持つことは禁じられていたので誰も荊軻を止めることができません。
政ひとりだけが、剣を持っていますがその剣は特別製でやたらに長く、剣は鞘に入っているのです。
しかも突然襲われて焦ってしまい、尚更抜く事ができず、家臣団が見守る中、柱のあいだを逃げ回り、それを荊軻は追いかけます。

 ようやくひとりの家臣が「王よ、背負われよ!」と叫びました。
政は気づいて剣を背中に背負うと、鞘は床に転がってようやく剣が抜け、反撃を開始です。
家臣も後ろから荊軻に飛びついてようやく取り押さえる事が出来ました。

 始皇帝の陵墓を守る為に作られた兵馬俑坑(へいばようこう)の遺跡から、青銅の剣が出土しているのですがこれが長さ91.3cm、始皇帝の剣はこれよりも余程長かったと思われます。
その様な事件もありながらの統一でした。

秦の中国統一:続く・・・

Posted on 2013/06/03 Mon. 07:27 [edit]

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歴史のお話その129:古代王朝⑳  

<諸子百家その⑦>

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◎老子とは、如何なる人物だったのか

 今回の諸子百家では敢えて触れませんでしたが、中国の思想家の中で、古くから最も親しまれた人物は、老子ではないでしょうか。
民間宗教として、広く一般に普及した道教に在っては、老子が教祖とされ、老子の化身たる、太上老君は、道教において神でも在りました。

 唐の朝廷も道教を崇拝し、帝室の教えとされ、更に、太上玄元皇帝と云う尊号まで捧げられています。
それは、唐王朝の帝室の姪が李氏であり、老子の姪も李氏であったと伝えられるからです。

 では、老子は、何時の時代に存命した人物なのか、この点について司馬遷は、「史記」の中に記述しています。
老子の名は耳、呼び名はたん(当用漢字無)、姪は李氏であり、周の国に使えて司書の役人と成りました。
そこへ孔子が尋ねて行き、礼について問うと、老子は、喩話を引合いに出しながら、
「良い商人は、品物を奥に置き、店先には殆んど何も無い。偉い学者は、優れた徳を身の内に深く備えながら、顔は、愚か者のように見える」。
そして、孔子に対して、「貴方の高慢と野心、好奇の念を捨て去りなさい。どれも貴方には、何の役にも立たないものだ」と諭しました。
孔子は、門弟に「今日は老子に会って来た。まるで龍のような人物だ。龍は風雲に乗って天に昇ると云うが、全く掴み処の無い人物だ」。

 事実、老子は、虚無の道の修行を積み、その学問も世間から隠れて、名声が聞こえる事を避けており、長らく周の都、洛陽に住んで居ましたが、周の国が滅ぶとその地に別れを告げました。
その時、関の役人に教えを書き残しておく事を懇願され、上下二編、五千余字の書を表した後、立ち去ったと云われています。
その後、老子の最後を見とどけた人物は、後世に伝わっていません。

 さて、以上の文書から、孔子と同時代、しかも孔子より先に生まれた人物となりますが、孔子は、魯の国の生まれで、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭、春秋戦国時代の後期に活躍した思想家で、先に述べた司馬遷は、時代を400年位隔てた人物でした。
司馬遷の時代、既に老子についての話は、曖昧なものとなり、「老子」という書物は、存在してもその著者が、如何なる人物であったのかは、全く判らなくなっていました。
司馬遷も上述の話の後に、他にも「老子」の著者が別に存在したらしい事を記述しています。

 老子という尊称も不思議で、ここで「子」は先生の意味で用いられ、孔丘の事を孔先生と呼び、孟軻の事を孟先生と呼びましたから、老子の姪が李氏ならば李先生と呼ぶ事が普通と考えられます。
現在の歴史に於いても老子については、不明な部分が多く、一部の学者の中には、その存在を否定する説を唱える者も居りますが、現実に「老子」と云う書物は、実在しそこに記述されている思想を持った人物が、存在した事も否定できません。

 では、老子は何時の時代の人間で、「老子」は何時頃編纂された書物なのでしょうか?
老子が、孔子に道を教えた話は、明らかに後世の伝説であり、「老子」に説かれている思想も孔子より後、先の春秋戦国時代のものと推定されています。
戦国時代後期、孔子の後を継いで、孟子が活躍しますが、孟子は盛んに他の学派を攻撃し、特に墨子と楊朱を排撃していますが、老子については、言及していません。
これは、孟子の時代にまだ、老子がこの世に現れて居なかった事を意味するのではないでしょうか?

 「老子」と云う書物に述べられている思想に関しても、歴史的評価は定まっておらず、戦国時代初期、孔子から100年程後のもの、又は中期、孟子より後の時代と考える事もできます。
因みに老子と並び称される荘子は、紀元前4世紀末から紀元前3世紀初頭に活躍した、人物と考えられています。
古代中国を代表する思想家で在り、孔子、荘子と並び称される人物で在りながら、疑問点の多い人物も不思議で、本当は、後世の人が作り出した架空の人物なのか、それとも俗人と違う神仙であったのでしょうか?

諸子百家・終わり・・・


Posted on 2013/06/01 Sat. 07:33 [edit]

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歴史のお話その128:古代王朝⑲  

<諸子百家その⑥>

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◎兵家、縦横家、陰陽家

 戦国時代を具現している思想が兵家です。
学者は孫子、孫武、孫ピン(月「にくづき」に賓と書く)と二人ですが、一緒にして孫子としており、書物も「孫子」と云います。

 戦争を勝利に導く技術を体系化したのですが、単なる戦術ではなくて戦争論、政治論、人生論としても読める為、現在でも支持者は多いとの事です。

 「百回戦って百回勝ったとしても、それは最上の勝利ではない。戦わずして相手を屈服させることこそ最上の勝利である。」
 「敵を知り己を知るならば絶対に負ける心配はない(彼を知り己を知らば百戦して殆(あや)うからず)」
等、色々と名言が在り、エピソードも無数に在りが、有名な孫子の兵法より、風林火山を簡単に説明します。

「故に、其の疾(はや)きこと風の如く 其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰(かげ)の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。郷を掠(かす)むるには、衆を分かち 地を廓(ひろ)むるには、利を分かち権を懸(か)けて動く。「迂直の計」を先知する者は勝つ。 此れ軍争の法なり」。

 武田信玄が旗印として使用していた『風林火山』は、兵法書『孫子』の軍争篇の一説を引用した物です。

 上記の一説の意味は、「疾風のように早いかと思えば、林のように静まりかえる、燃える炎のように攻撃するかと思えば、山のように動かない、暗闇に隠れたかと思えば、雷のように現れる。兵士を分散して村を襲い、守りを固めて領地を増やし、的確な状況判断のもとに行動し、敵より先に「迂直の計」を使えば勝つ。これが、勝利の法則だ」
この様な意味の文章に成ります。

 此処で「迂直の計」とは、「迂」=迂回し、「直」=直進し等、知恵を使って遠回りをし、油断させておいて電撃的にたたみかける、つまり、静と動、陰と陽、正攻法と奇襲作戦のような「相反する物を巧みに使う」事を解いているのです。

 「吉だ!」「凶だ!」と、合戦の勝敗を占ってた時代に、利に叶った科学的かつ合理的な兵法が存在する事に驚きます。
先に紹介した一説、「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」は、「情報を集めよ」の意味で、敵の情報も、そして自分自身の事も、調べつくした上で、「勝てる相手とだけ戦え」と言っています。
「孫子」は、全部で13篇からなる兵法書です。

 縦横家は思想よりも外交で名を売った人達で、合従(がっしょう)策の蘇秦(そしん・?~紀元前317年)、連衡(れんこう)策の張儀(?~紀元前309年)が有名です。

 戦国末期になってきて秦は大国として他の六国を圧迫するのですが、これに対抗する為に六国が同盟を結ぶ事を説いた人物が蘇秦です。
地理的に縦に並ぶ六国が同盟するので合従、「縦に合わさる」、と言いました。
蘇秦は六国の大臣を一人で兼任する迄に成ります。

 この策を破ったのが連衡策。
秦に仕えていた張儀は六国に個別に秦と同盟を結ぶ事を説き、合従策を崩壊させました。

 陰陽家は、鄒衍(すうえん・紀元前305年~紀元前240年)、陰陽五行説をとなえ、当時の宇宙観を集大成したものですが、私には良く理解出来ません。

◎古典文学

 春秋戦国期の文学作品の内代表的な作品を三つ紹介します。

『春秋』。
 春秋時代の魯国の年代記で、孔子の編纂と言われています。
春秋時代という時代の呼び方はこの作品から来ており、この本に書かれている時代が春秋時代の意味に成りました。
後に様々な注釈が生まれ、儒学の経典になります。

『詩経』。
 これも儒学の経典に成り、内容は黄河流域の民謡を集めたものです。
素朴な農民達の恋愛の歌等が記録されており、古代社会を知る上で貴重な資料です。

『楚辞』。
 楚の国の王族だった屈原が編集したと云われています。
楚ですから南方の民謡等が記録されており、楚の国はシャーマニズム、巫女が神がかりになってお告げをする、その様な風俗が盛んでその内容も記録されています。
又、屈原は強国秦に楚が圧迫されるのを嘆いて汨羅(べきら)の淵に身を投げて自殺したと云います。この屈原の詩も載っているので、愛国の詩集として中国人に愛読されました。

諸子百家・続く・・・

Posted on 2013/06/01 Sat. 00:36 [edit]

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歴史のお話その127:古代王朝⑬  

<諸子百家その⑤>

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胡蝶の夢

◎法家

 法家(ほうか)、先に紹介した商鞅、彼は法家に従っていました。
儒家が「礼」を秩序の柱にするのに対して、法家は「法」を柱にします。
法を細かく定めて人民に守らせる、守らなかったら厳しく罰する事が、法家の基本的手法です。
大変解りやすく、効果もすぐに現れ、実際に秦は法家を採用して国力を急伸させましたが、これは思想というよりも統治技術に近いものです。

 法家の理論家としては韓非(紀元前3世紀)、彼の書物が「韓非子」。
韓非は大変な頭脳明晰な人物でが、言語関係に問題が在り、人前で上手に喋ることが出来ませんでした。
最後は秦の国に行って仕官を考えるのですが、若い頃の勉強仲間の李斯男が既に秦に仕えていて、李斯は韓非の才能を恐れて彼を殺してしまったのです。

 この李斯も法家で、仕えたのが後の始皇帝です。
秦が中国統一した時の最大の功労者が李斯と考えても良いでしょう。

 実はこの李斯も韓非も若い頃は、儒家の荀子の弟子だったという言い伝えが在ります。
荀子は、「人間は本来悪だから教育しなければならない」、との立場ですが、この弟子ふたりは前半部分だけを学んだようです。
人間は本来悪なので、罰を与えて恐怖によって統制する事を考えたのです。
しかし、この方法が富国強兵に成功したのですから、人間は意外と悪なのでしょうか?

◎道家

 道家(どうか)、老子、荘子が道家の思想家で、共に紀元前4世紀の人と云われていますが、老子は実在そのものが怪しいのです。

 道家思想は「無為自然(むいしぜん)」、「為(な)すこと無ければ、自(おの)ずから然(しか)り」と読めます。
無理をしなければ、なるようになる、と云う意味です。

 道家の理想とする社会は、自給自足の農村共同体で、権力や道徳的強制が入り込んでこないような共同体を一応目指した様です。

 道家は儒家と墨家とを両方批判します。
儒家の「礼」も墨家の「兼愛」も自然ではなく、其れは人間の頭の中で作り上げたものだ、と云う批判です。
共に人間の感情を型にはめ様としているから、自然の為すがままにさせ、無理をしてはいけない、在るがままで良いのだ、と云っているのです。
「道徳などというものを強制しさえしなければ、心を偽る必要がなくなり、人民は自然の情愛に立ち返る」(老子)。

 当時も道家の説は役に立たないと批判されていました。
老子や荘子を読んでいるとそういう文章が結構でてきます。

 例えば、或る処に大きな木が在って、大きすぎて道がそこで曲がっています。
邪魔なので伐ってしまいたいのですが、固すぎて切れませんし、また、節くれ立っているので伐採しても材木として使うこともできません。
荘子さん、貴方の学問も同様ではないですか?

 そう云われて荘子は返答します。
そんな木が有ったら、夏の日照りの暑い盛りに、その大木の下の木陰で昼寝でもしたら気持ちがいいじゃないか、と。

 瓢箪でも同様な事が書いて在ります。
或る処で大きな瓢箪ができました。
あまりにも大きすぎるので酒を入れて持ち運ぶこともできず、無駄な瓢箪だすが、その瓢箪を真っ二つに割って、湖に浮かべてその上で昼寝したら気持ちが良いだろう。

 無用の長物にこそ、きりきり働きあくせく生きている人間を安らかにしてくれる大事なものがある、その様な事を教えている様です。

 荘子には有名な「胡蝶の夢」の話が在ります。
荘子が寝ていて夢を見る。
夢の中で荘子は蝶になってヒラヒラと飛んでいるのですが、ふわふわ風に舞って実に気持ちが良い。
そこで、荘子は目が覚めました。
「ああ、夢か」、と思ったのですが、思い返せば蝶の自分は本当に夢だったのか、それとも今目が覚めた人間の自分が夢なのか、どうも分からなくなる、と云う話です。

 道家は儒家と共に戦国時代が終った後も、長く中国社会に影響を与えていきました。
道教という宗教がここから生まれ、その影響は儒教や仏教ほど明確な形では在りませんが、日本社会の中にも生きていると思います。

諸子百家・続く・・・


Posted on 2013/05/30 Thu. 21:02 [edit]

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歴史のお話その126:古代王朝⑫  

<諸子百家その④>



◎墨家

 墨家(ぼくか)は戦国時代が終わると消滅した学派なので、あまり馴染みがありませんが、戦国当時は儒家と同じくらい支持を受けていました。

 墨家の元祖が墨子(ぼくし・紀元前5世紀~紀元前4世紀)、説は二つ「兼愛説」と「非攻説」です。

 兼愛は「差別無き人類愛」とでも言う意味で、墨子は儒家を批判する中で自己の学説を立てます。
儒家の「礼」を差別だと批判して「兼愛」をとなえるのです。

 なぜ、儒家の「礼」が差別なのでしょう。
例えば、忌引き。
現在なら何処の企業でも学校でも忌引きの規定が在り、親族に不幸があった場合、何日か休んでも欠席扱いに成りません。

 この制度は儒学の教えからでているのです。
親が亡くなり、親に対する「孝」は人間の真心「仁」の中でも最も基本的な感情なので、悲しいことなのです。
悲しみから、とても平常心では居られず、仕事や勉強等手につくはずが在りません。
その為、仕事や学校を休むことが許されるのが、忌引きの理論的根拠です。
又、喪に服す行為が死んだ親に対する「礼」でもある訳です。

 親が亡くなった場合の忌引きが五日ですが、この五日間は何も手につかない、という社会的な共通理解があるからです。
 
さて、そこから先が問題なのです。
祖父母が亡くなった場合は忌引きの日数が三日、それ以外の親族は一日と成り、その他に忌引きは在りません。(会社の就業規則では、その様に明記されていませんか?)

 これを墨家は差別と指摘するのです。
儒家は人間関係を親から始まって、同心円上に序列化し、親を中心に遠くなるにしたがって「仁」「礼」が薄く、軽くなっていくことこそが秩序と考えます。
しかしながら、血縁関係が無くても大事な人が居なくなったら悲しいことに違いは在りません。
恋人と引き裂かれると考えるだけで辛いことですが、儒家は恋人が居なくなっても悲しくない、悲しんではなら無い、恋人は大事ではないと、考えるのです。

 この発想は人間の常識的な発想として不自然で、ここの無理を墨家は責める訳です。
そこで「兼愛」、誰であろうと差別せず同じように愛さなければならない、と説いているのです。

 総ての人を平等に愛するならば、親が死んで悲しいように他人が死んでも悲しくなくてはならず、戦争で家族が死んで欲しくないように、他人が戦争で死ぬのも黙って見ていられない筈です。
そこで、墨家は「非攻」をとなえました。
「非攻」とは絶対平和主義のことで、どんな戦争にも墨家は反対する。

 彼等は「戦争反対!」と言うだけでは無く、戦争を止める為に全土を駆け回ります。
墨家集団が存在し、これは墨子の弟子達が構成員ですが、技術者集団で様々な戦争技術を持っています。
例えば、小国が大国に攻められ、侵略戦争が起きると、攻められている国に駆けつけて防衛戦争を手伝うのですが、大国側、侵略側には絶対に立ちません。

 ある時、宋という小国が楚に攻められそうに成り、さっそく墨家集団は宋防衛の準備をします。
墨子自身はたった一人で楚の国の都に出向いて楚王に面会を申し込みました。
 
 楚王に会うと墨子は云う。
「既に墨家集団が宋国に入り防衛の準備は整っている。楚では城攻めの新兵器を開発したと聞くが、われわれも準備は万端だ。決して宋を攻め落とすことはできません。無駄な出兵はおやめなさい」、と。
 
 楚王も勝算が十分在るので出兵を止める訳が無く、墨家は、実際に楚が勝つか宋が勝つか王の目の前で図上演習を申し出ます。
楚の将軍が連れてこられて墨家と対戦することに成り、兵士の配置、陣営、攻撃手段を説明すると、その対抗策を次々に打ち出し、結局、墨子が勝ってしまったのです。

 そこで、墨子は言ったそうだ。「王よ、だから宋を攻めるのは無駄です。おやめなさい。おっと、今私をここで殺しても同じ事ですよ。私の弟子たちはみんなこの作戦を知っている。私を殺しても王は勝てないし、逆にたった一人でやって来た墨子を恐れて殺したと、全国の笑いものになるでしょう。」
 結局、楚王は墨子をそのまま帰し、宋への出兵も取り止めた、ということです。
同じ様な話が幾つかあるので、この話もどこまで実話かわかりませんが、墨家の雰囲気をよく伝えていると思います。

 墨子、これは墨先生を意味するのですが、墨はどうも本名では無いらしく、一種の仇名とも云われています。
その由来がいくつか伝えられているのですが、一つに墨子は奴隷出身だったとの説が在り、奴隷は逃亡を防ぐ為に顔に入れ墨をされていました。
墨子も顔に入れ墨が在り、その為「入れ墨先生」の意味で墨子と呼ばれる様に成ったと云います。
墨子が奴隷出身と考えると、差別区別することなく、人を愛すべしの思想が良く理解できると思います。

 私自身大変興味深いことが、墨子の率いる集団が戦争技術の達人、傭兵として数多くの防護用武器乃至機器を発明していることから、奴隷とは言え、戦闘集団の育成、戦術の構築、兵器開発等を手がけた技術者ではなかったのかと考えています。
 
 墨家は大変持て囃されましたが、戦国時代の終わりと共に消滅して行きました。
戦争の規模そのものが大きく成り、墨家の率いる少数精鋭集団の存在だけでは、もはや戦争を回避する術を失ったと考えられます。
此れは、現在の高度に発達した武器システムを活用する、戦争に云えることですね。

諸子百家・続く・・・

Posted on 2013/05/29 Wed. 20:44 [edit]

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