OECC会報
第54号 2008年9月 追悼対談 橋本道夫初代OECC理事長
| 日時: | 平成20年7月31日(木)14:00- |
|---|---|
| 場所: | OECC会議室 |
| 参加: | 加藤 三郎 OECC理事 (株)環境文明研究所 第表取締役所長 |
| 栁下 正治 OECC理事 上智大学大学院地球環境学研究科教授 | |
| 青山 俊介 OECC理事 (株)環境構想研究所 代表取締役 | |
| 司会: | 片山 徹 OECC専務理事 (社)海外環境協力センター |
司会
当社団の初代理事長であった橋本道夫顧問が4月14日ご逝去された。享年83歳。橋本先生は行政官として類稀なる信念と行動の人であった。立法(国会)、司法、産業界、公害患者団体の間に立って、紛争、軋轢といった対立関係の中で、科学技術を1つの柱として行政官として常に筋が通し、様々な偉業を達成された。またOECC初代理事長でもあり、草創期の労苦は計りしれない。理事長退任後は顧問になったわけだが、他団体での役職を辞職されても、(財)北九州国際技術協力協会(KITA)参与とOECC顧問は最後まで退くことなくご指導いただいた。
本日は、特に橋本先生と共に仕事をした方々にお集まりいただいた。橋本先生を偲び、自由にお話いただきたい。
1.橋本先生の思い出
加藤理事
私も60代半ば過ぎまで生きてきて、色々な分野の諸先輩、先生と会う機会を得てきた。ある時期は素晴らしい人だと思っても時間が経つとつまらない人であったと失望を覚える人もいる。しかし橋本先生は、若い時からお亡くなりになるまで私にとって「師として仰ぐ」に足る人物であった。
柳下理事も同様だろうが、「橋本先生であればどう考えるか」と常に自問している。私は死ぬまで師匠として慕っていくことになるであろう。最近は役人の不祥事が相次いでいるが、そのようなスキャンダルとは無縁、対極にある極めて誠実かつ清潔な人であった。例えば出世、儲け話といった俗っぽい話を橋本先生の口からを聞いたことがない。
橋本先生の功績は3つ挙げられる。1つは、日本の公害行政の建設者であり、自ら満身創痍になりながら切り拓いていった人。当時は一課長に過ぎなかったが、橋本先生がいなければ日本の公害行政は今とは違った形、歪んだ形になっていたと思う。当時はまだ役人が尊敬され、信頼されていた時代だから出来たということもあったかもしれない。
2つめは、OECCに繋がることだが、環境分野における国際協力の道を切り拓いたこと。これは、ハーバード大学で勉強された影響もあろうが、日本の役人にありがちなDomestic onlyではなく、若い時から視野が外に向いていた。OECDでの勤務経験、退官後筑波大学教授となりインドネシアなどで地域保健活動にも長いこと関わられていた。そうした経歴から、常に途上国の環境協力を学者としてではなく最前線の一専門家として関わっていた。そういう経験の上にOECC初代理事長やKITA参与があるのであろう。
3つ目は、温暖化を中心とした地球環境時代の入口で、日本の方向付けをしてくれたこと。1989年にIPCC第2作業部会で副議長になっておられ、64歳という年齢もあり世界の若々しいプレーヤーになることはなかったが、西岡秀三氏(現国環研参与)、故森田恒幸氏(元国環研社会環境システム研究領域長)、三村信男氏(現茨城大学農学部教授)等をIPCC の世界に導いた。こうした3つの姿が思い浮かぶ。
最後に、(OECC会報の抜粋記事を読むと)橋本先生は決して日本の力を楽観視していなかったことが伺える。日本の環境技術は最高である、世界の環境リーダーになり得る、と安易に唱える人はたくさんおられる。ある意味では間違っていないのであろうが、橋本先生は日本の得意分野とそうでない分野をきちんと把握している。この点については後述する。
青山理事
橋本先生とは水俣とOECCという2つの接点があった。最初にお会いしたのは1968年(昭43年)、当時橋本先生は厚生省の公害課長で、園田大臣が厚生大臣として始めて水俣現地入りした時であったと記憶している。その後、環境庁での患者交渉などに参加したが、最近退官された小島前地球環境審議官も環境庁側の担当官で同席していた。橋本先生が矢面に立つ格好であった。5年ほど前に、私が副代表を務めているNPO法人水俣フォーラムのセミナーで「私と水俣病」と題して講演頂いた。行政という非常に制約のあるなかで、政管側から文句を言われ、患者側から叩かれ、自ら苦しみながらあそこまで引っ張っていかれた姿が印象的である。コンサルの立場でいうと、コンサルはクライアント側に若干バイアスがかかってしまう。環境という仕事でこんなに安易に対応してしまっていいのかと思うこともあり、自分が出来ないことを貫かれたという意味で、対峙的な自己検証の対象として大きい方であった。特に何をやっても自己があった。水俣問題などでは、「お前おかしいじゃないか」と誰でも言えるが、そう言う自分は何なのかとの問いも付きまとうものである。現実にはあまり問われない立場に身を置く人が多いが、橋本先生の場合は常に問われる立場で公害対策にあたっていた。
そのような方にOECC初代理事長に就いていただけたことは、具体的な個々の貢献よりもバックボーンとして非常に大きかったと思う。OECCを作ってどうなのかという時も、「橋本先生がおられるから」、という信用や求心力を得ることが出来た。また橋本先生に初代理事長を務めていただき、歴代理事長が同じような思想、姿勢を引き継いでいただけたことが今もOECCが存続している理由かもしれない。
接した時間は短いが年月は長く、非常に懐かしさを感じる先生である。
柳下理事
橋本先生が環境庁を退官されたのが1978年(昭53年)。私が入庁したのが1971年(昭46年)。橋本先生がOECDに出向されていた3年間も含め差し引きすると4年間程度しか同じ屋根の下(役所)にいなかった計算になる。短期間ではあるが、自分たちが最も尊敬する人が同じ役所の中にいるという精神的な支柱であった。それは、実際に問題に直面し、闘いに挑んできた人が組織の中でリーダーシップをとっているという姿を見ることだけでも、若い自分にとって重い存在であった。当時大気保全局長であったわけだが、退官のニュースを聞いた時も、なぜ54歳という若さであれだけバリバリ活躍している方が辞めなければならないのかと大きなショックを受けたことも鮮明に覚えている。
以後、知らぬ間に色々な仕事に取組む過程で、自分が扱っているこの問題が本質を逸していないかどうかを確認し検証する際、リトマス試験紙として欠かせない大先輩として常に橋本先生のことを意識していた。今となっては加重に負担をおかけしていたとお叱りを受けそうだが、東アジア酸性雨モニタリングネットワークの初期の構想時など、中国が酸性雨問題にどのような反応を示すかわからない課題、温暖化問題、国際環境協力などの分野で何か新しく挑戦しようとする時に、その先頭に立ってもらい日本国を引っ張る機関車役としてついつい甘えてしまった。その時に嫌な顔をせず、自分が役に立つのであれば協力しようと快く引き受けてくださった。大変お世話になったと改めて申し上げたい。
加藤理事
1964年(昭39年)に環境衛生局の中に公害課が発足し、片山専務が翌年(昭40年)に入省することになる。水俣病は典型的な公害病であり、世間から見ると当然公害課が扱っていると思ったであろうが、実は同じ医系技官のポストであった食品衛生課が扱っていた。なぜ公害課が水俣病を担当しなかったのかは興味深いと思っている。私見だが、水俣病は色々な事情が複雑にからむ問題だからこそ内部に橋本には任せないほうがいいという判断があったのではないか。汚染された魚を食べた結果の食中毒症状だから食品衛生問題であった、という当時の所管の問題はある。しかし当時も今も将来も、水俣病の出発点が食品衛生問題であったと恐らく誰も思わない。橋本先生は水俣病と深く関わりを持つことになるが、それは発生した水俣病患者の救済について厳しい交渉に臨む様になってからである。
逆に、イタイイタイ病は担当することになった。私の入省は1966年(昭41年)であるが、橋本先生に最初にやれと言われたのがイタイイタイ病である。水俣病より先に、イタイイタイ病は「公害である」という政府見解が出されることになる。1968年(昭43年)5月8日のことで今でも日付も鮮明に覚えている。私は温暖化防止行動計画、京都議定書発効日とともに死ぬまでこの日付を覚えていることになるだろう。イタイイタイ病に遅れること半年で水俣病も公害認定される。
司会
当時、加藤理事は公害課所属でしたか、庶務課でしたか?
加藤理事
最初は公害課であった。当時は公害課だけだったが翌年(1967年)公害部が突然発足した。庶務課、公害課と環境整備課の3課で公害部を構成したが、環境整備課はゴミ問題を扱っており、事実上は庶務課と公害課の2課だけで出発した。私は庶務課が本務で公害課に併任された。初代庶務課長の蔵田氏は、就任半年後くらいで病気になってしまい、藤森氏が庶務課長に就いた。
案外忘れられていることだが、橋本先生は公害課長を6年3ヶ月も務められた。課長クラスの役人が1つのポストに6年3ヶ月も留任することは当時も今も極めて稀。当時の言葉は「余人を持って変え難い」であったが、医系技官なら誰でもいいというわけではなかった。産業界を敵にし、経団連を敵にし、通産省と渡り合い、患者には怒られ、マスコミにはどやされ、国会では叩かれとある意味非常に危ないポストであったし、あえてそのポストに就こうという勇気のあるお医者さんが他にいなかったのではないか。橋本先生自身“嫌だ”と思っておらず、まさに“天命”だと思っていたのだろう。実際、公害対策基本法制定や大気汚染防止法制定、公害防止事業団等、大変な仕事をやり遂げている。
司会
昔は、水道課長や建設省の下水道課長はポストがそれしかなかったから10年くらいやった人がいる。但し、医系技官としては異色だ。
加藤理事
厚生省医師会からは事実上また自ら外れたという意識はあったと思う。
青山理事
1965-70年(昭40年-45年)という時期こそが公害問題の最深刻期。行政面でも最も厳しい時期に施策を推進されたすごい方との思いが強い。
柳下理事
若い頃に環境庁で働き、この仕事の原点は何かと探ると橋本先生に全て繋がっており、“橋本先生は何を考えていたのだろうか”と考えることになる。個人崇拝はよくないがそういう風に育ってしまった。あの時代の日本は構造的に橋本先生から色々なものが発せられていて、なぜこういう制度ができ、なぜこういう考えができたのか、という点で、私の周辺の世代には、例え直接仕えていなくても大きな影響を与えたと思う。
青山理事
厚生省、通産省、経済企画庁という3つのアヤの中で当時はそれぞれに面白い人がいたと思う。
加藤理事
有名な話だが、厚生省に公害課ができたのが1964年(昭39年)だが、その1年前に通産省に産業公害課が出来、初代課長は平松守彦氏(後に大分県知事)であった。当時の通産省にとっても公害問題は厄介な問題だと思っていたであろう。厚生省は、医療と年金保険が主流の部隊であり、公害問題は端っこの問題。しかも医系技官として偉くなろうとする人たちにとって公害問題は本流ではなかった。だからあまりなり手というか適当な人もいなかったのであろう。
2.OECC設立と理事長就任までの経緯
青山理事
個人的な話になるが、1980年代私の事務所(エックス都市研究所)は環境庁の仕事を随分受注していた。1988年(昭和63年)に国立公害研究所が国立環境研究所となり、学術的テーマが国環研に流れてしまった。OECCを作ると聞いた時は、また出てきたなと思うと同時に、自然な(仕方のない)ことだとも思ったし、ならばできる限り積極的に関わっていこうと思った。その立場から言うと、この組織を誰が作ろうとしていたのかはっきりとはわからなかった。当時環境分野でのコンサル業務の海外経験がある会社は6社程度。OECC設立当初の熱意は、将来必ず国際的なコンサル業務が出てくるという予感のある中で、経験がなくどうしたらよいかわからないから勉強したい、という各社の熱意であった。海外未経験が8割、残り2割は業務経験ありという構成であったが、大きな潮流であったことはまちがいない。故白石 さんは、いつもまとめ役であり、社)日本廃棄物コンサルタント協会設立の時も、私は白石さんと共に加藤さんのところに相談に行ったりしていた。OECCのことは、白石さんから「話を聞きに行こう」と持ちかけられ、やはり最初に加藤さんから話を聞いたという記憶がある。
加藤理事
1988-89(昭63-平元年)に私は厚生省の環境整備課から環境庁の保健企画課に異動し、大気汚染の救済制度改正に取組んでいた。法案作成提出段階はすでに終わっており、国会にその法案を通す、500億円の基金を募る、ということが大きな使命であった。
法案が通すという大仕事がひと段落した時期であったが、私の方から仕掛けた記憶がない。青山さん、白石さん、服部 さん等から、「これから環境ODAがどんどん延びていくのに取りまとめていく業界組織がない。環境庁で作ってくれないか」という経緯であったように記憶している。
柳下理事
1988年にOECC設立の話はまだ出ていないはずだ。経緯は次のように記憶している。
1988年12月安原正(当時企画調整局長)から、「地球環境問題の動きが明確になったにも関わらず日本の環境政策の動きがあまりにドメスティックで対応できていない」と怒られたことから始まる。当時企画調整課調査官で事実上便利屋だった私とともに、保健企画課長の加藤さんも局長室に呼びつけられ一緒に怒られているはずだ。(笑)とにかく「正月は君達勉強してこい、年が明けたらすぐに地球環境問題に対してどういう対応をしたらよいか勉強会を開き、ありとあらゆる関係者を順番にヒアリングしていく。そのヒアリング対象者を決めろ」と命じられた。真っ先にお話を聞いたお一人が橋本先生、続いて学者、専門家、実務者、JICA関係部局等々、安原局長室で1ヵ月半の間に20名以上の有識者からお話を聞いて勉強した。(その際、青山さんにもお話を伺っており、団体を作るというはっきりしたイメージではなく、関係がありそうなコンサル業界がある、と暗に言っておられた。)
橋本先生はその勉強会で、「人口と資源と開発と環境の4つの要素を統合(調和という言葉を使わず)し、ごちゃごちゃにかき混ぜた形で物事を見、政策展開を考えていかなければならない。君たちは相変わらず環境は環境で、開発や資源とどう対決するかと考えている。それではだめだ」、と強く言われていたことが印象深い。
1989年、アルシュサミットの直前の6月30日に地球環境保全関係閣僚会議が開かれ、地球環境保全政策に関する日本の基本方針が6項目決まった。その4番目は環境ODAを日本の柱にする、5番目は日本のODAが途上国の環境破壊につながらないように措置する、すなわち環境配慮をする、という途上国問題に言及するものとなった。これらの基本政策の形成プロセスの中で、途上国環境問題への対応はJICAやOECFが頑張ればよいという話ではなく、環境庁として何ができるのか、環境庁の立場でODAや様々な形態を通じた環境協力を積極的に推進できる体制が必要なのではないか、という考えが一連の議論の中から生まれた。そして関連分野の方々、特に実務に関わっている環境コンサル等の方々に相談して、議論を深めて行く過程で団体創設の必要性という流れになった。
青山理事
時系列で言うと、6,7月頃に具現化に向けた議論が始まり、服部さん(パシコン)、西田さん(プレック)等の面々がダイアモンドホテルに集まって議論を重ね、10月頃には組織の骨格ができていたと思う。3-4ヶ月ですぅ~っと話がまとまり、翌1990年(平2年)には公益法人として認可された。
柳下理事
当時、新しい団体を作るノウハウは環境庁にはなかった。幸いなことに、厚生省時代に認可団体設立の経験が豊富な木下君 が「任せてください」と言って、当時の議論を手早くまとめあげ、設立に貢献してくれた。
加藤理事
1989年7月フランス開催のアルシュサミットで地球環境問題が取り上げられ、環境問題への関心が一気に高まった。自民党部会から環境庁局長クラスが同行すべし、との意見もでる一方、外務省が環境庁なしでも対応可能とつばぜり合いをしていたと聞いている。
柳下理事
当時は、竹下首相から宇野首相に代わり、幹事長が橋本龍太郎氏、環境庁大臣が山崎竜男氏だった。
加藤理事
よく覚えていますね。サミットには保健企画課長であったにも関わらず私が同行することになった。またブルネイでもASEAN環境協力に関する協議があるため、日本に参加して欲しいという要請がありそれにも派遣された。そのような1989年を経て、1990年7月に地球環境部が設立される。
柳下理事
安原さんが大局的な見地から、地球環境というグローバルな問題とまともに向き合って取り組まなければだめだ、と指示し、自分たちには十分なアイディアがなかったため、率直に遠慮なく指摘していただける専門家等を人選し、事実素晴らしい意見を沢山頂いた。その中で桜井国俊 さんからは大変に印象的な意見を頂いた。「倒れている人を起こそうと手を差し伸べたら、まずは踏んづけている足をどけてくれ-日本とアジアの関係を端的に表すとそういう関係だ。」と言われた。踏んづけている足をどうするか、そしてどうやって起こすか、という2つの観点で考えなければならないと言われ大きなヒントを得た。
こういった方々から地球的規模の環境問題の実態や、日本の関わり方や、その中での環境庁の役割などの話を聞いた中で、アジアに立脚した途上国支援をどうするか、という政策を作ろうというのが3-5月にかけて盛り上がっていった。
加藤理事
そういった機運の中でOECC設立の話が形成されていき、「では理事長は誰か、地球環境問題、途上国支援に通じている人」となれば橋本先生しかいなかったし、橋本先生以外の固有名詞はでなかった。
司会
地球環境部が1990年7月に設置されたが、地球環境部に先立つ1990年3月にOECCは設立されるわけですね。
加藤理事
当時、日本経済はバブルの時代で民間も国も景気がよかった。湾岸戦争(1990年)が勃発した時も、軍隊は派遣できないが金は出すと言って1兆円超の金をポンと出したにも拘わらず誰にも感謝されなかったという有名な話があるが、地球サミット(1992年)で環境ODAに巨額拠出をすると言った。当時はそれ位のお金も安いものだったのだろう。
青山理事
殆どの入会企業は環境分野の海外事業を展開しておらず、特にコンサル業界全体のOECCへの期待は大きかった。入会金を200万円に設定し、加藤さんからそんなに高くてよいのかと言われたが、入会金で1億円集まり、OECCにとって貴重な積立金になった。あの頃会員にとって200万円はそんなに高くなかった、そういう時代だったのだろう。
3.OECCでの橋本先生
司会
橋本先生のOECC理事長時代の勤務状態やどのようなことをされていたのか、またOECC理事長に就任された際の理事長の思い等ご存知ですか?
加藤理事
勤務状態は必要な時だけ来社する非常勤理事長であった。当時は郡司さんが事務局長で仕切っていた。理事会総会の対応はもちろんされていた。
青山理事
思い入れは強かったのか事務所に来られる頻度は多かったと記憶している。ただ、広尾の事務所いるよりも、積極的に外に出られOECCを宣伝しておられた。交通費以外は無給でよいと言って受け取らなかった。
加藤理事
当時はOECCの財政はひどくはなかったので、お給料を出そうと思ったら出せたであろうが、橋本先生は受け取る人ではなかった。それは後の渡辺修前理事長、森仁美理事長に続いている。
柳下理事
理事長への就任をお願いするに当たって、橋本先生に本当に無給でお引き受けいただけるのかについて確認する役割を担った。当時橋本先生は65歳であったが、「老夫婦2人で年金を一月28万円給付されれば生活は充分で、なぜお金が余分に必要なのだ。そんな余裕があるのであれば、若い諸君が思い切って活動できるように活用しなさい。」とおっしゃられた。
青山理事
OECCの総会や理事会には、会員企業側はトップが出て来ないのに、環境庁側は事務次官や幹部クラスがたくさん参加する。当時からなぜか不思議だったが、橋本先生が理事長だった時代に出来上がった慣習なのであろう。その慣習があまりにアンバランスなので何とかしたほうがよいと片山専務に申し上げたことがあるくらいだ。
加藤理事
理事長に就任したことでセミナーや総会等で司会をする機会が増えたわけだが、古くからの知人、かつての部下に対しても、「様」という敬称をつけて紹介するようになった。最初は私には違和感があったが、社団の理事長の立場になり、そのように紹介するものだと切り替えられたのだろうと今は思う。
青山理事
橋本先生の自分に対する厳しさでOECCに限らず皆を見た場合、何を甘えているのだと考えておられたはずだと思うが、そんなことは一言も言わず、「よく頑張っていただいています」、といつも声をかけてくださる方であった。
加藤理事
一方、執筆では言うべきことを言っておられる。
日本の環境コンサルタント業界は居住や都市産業公害という次元では経験を積んでおられるが、自然となるとかなり限られており、更にBiodiversityや土壌劣化、砂漠化ということになると従来とは異なる科学技術、経験が必要になる。
「10周年を祝う」橋本道夫OECC会報10周年記念号(2000年7月)から
しかしこのような(日本)方式は、国際的に普遍性のあるものではない。最新の科学技術と資金さえあれば出来るというものではない。また日本の経験として成功したものは、産業公害規制と53年型乗用車排ガス規制等の分野のものである。都市公害対策や都市産業廃棄物対策では施設や技術としてはすぐれたものがあるが、社会・経済的な仕組みや、行動としては決して誇れるものではない。地球環境対策という領域は、日本の苦手な“社会・経済的な仕組みと行動”が対策の前進と成功の鍵となる。
「環境ODAの進化を期待する」橋本道夫OECC会報(1997年7月号)から
決して日本の経験が普遍性を持っているものではなく、特殊な日本の状況下で成功したものであることを、自ら何度も途上国の現場に身を置いておられる経験から看破されていた。色々な経験を踏まえると日本人が簡単に「俺たちはえらい、経験がある」、ということでは済まないと指摘している。
司会
加藤理事は橋本先生が理事長時代の専務理事であった。その当時はどのような働きぶりでしたか?
加藤理事
1993年、自ら主宰するNGOを作るといって役所を退官した私を渡辺事務次官(当時)が心配し、OECCにお世話になることになった。理事会が開かれるまでは専務理事になれないという手続き上のこともあり最初は顧問であった。専務なのに非常勤でよいのか心配したが、専務理事が非常勤でもいいことを誰かが調べてくれた。当時も今も環境文明研究所に軸足があるが、当時はOECCにも頻繁に来ており多忙であった。バブル時代の名残りもあり天下りのことも今ほど騒がれておらず、当時で言えば常識の範囲内程度のお給料をいただいていた。
青山理事
週の半分はいらしていたし、やっていただいていたことに比べれば小額だなと当時思っていた。
加藤理事
思い出といえば、正月明けに橋本理事長、私、郡司事務局長、神山経理課長とともに役所、JICA、OECF、運営委員会の委員長をやっておられるような有力な会員企業等を毎年挨拶まわりをした。次から次へと行かなければいけないので、郡司さんがハイヤーを1台手配し、神山さんが年始の袋を持って次から次へとまわった。橋本理事長は実に丁寧に挨拶してまわったので、専務理事としては同行せざるを得なかったし、また姿勢を学んだ。(笑)
柳下理事
儀礼的なことはどんどんやめて簡素化していこうという今とは時代が違う。
司会
OECCの設立にあたって、外務省の反応はどうだったのですか?
加藤理事
公害対策基本法から環境基本法(1993年)に改定する時には地球環境問題を法文に入れることに対して外務省から拒否反応があったのは事実だ。しかしOECC設立にあたっては特段ないと記憶している。
青山理事
設立の際、外務省と共管にするという話を環境庁がしてくれ、外務省としては大川美雄氏 という大使クラスを理事に入れることで協力態度を示してくれた。外務省関係の理事はいまだに理事として参加してくれている。
柳下理事
共管について外務省と交渉した記憶はないが、理事に大川さんを迎えたいというのは最初からあった。環境ODAを増やさなければならないという時代でもあったので、外務省は比較的好意的であったと思う。また、1980年代終わりから橋本先生はJICA、OECF(当時)の環境配慮委員会の委員長であった。お名前は知っていたと思うし、そこに介入して影響力を行使するわけにもいかなかったであろう。
加藤理事
個人的な疑問だが、青山さんにお伺いしたい。日本はあれだけODAでお金を投入したが、一体どれくらいの効果があったのだろうか?世界に対しての貢献と、日本国内で業界を育てるという貢献という意味で、どう感じていらっしゃるのか。
青山理事
日本では、公害防止事業団の公的支援が呼び水となり、公害対策に膨大な民間資金が投入された。国の資金に依拠して途上諸国の環境問題に対応するのは相当無理な話。但し、呼び水的には、それなりに役立ったとは思う。しかしあれだけの資金に見合った効果がと問われれば、今、当時の環境装置メーカーはがたがたになってしまった。(ただし今後は海水の淡水化といった技術が砂漠化、植林問題ででていく素地はある。)コンサルはどうかというとこれも余り育っていない。ただ、ODA効果は、国環研や民間企業、自治体などの環境協力組織や途上国とのネットワークなどいろいろなところに広がっている。資金を投入した事業そのものの成果といった狭い範囲では評価は低いが、広い意味では、むだも多かったが、効果もあったと思っている。
加藤理事
日本の環境コンサルは結局育たなかったですか?
青山理事
あまり、育たなかったのでしょうね。結局これから誰がコンサルをやるかというと、都市計画などはコンサルタントが行っていた業務を建設会社や商社が事業に内部化している。コンサルタントという独立した世界というわけではない。アメリカのベクテルといった事業形成ができるような強いコンサルティング企業にはなっていないけれども、日本ではコンサルティング機能を内部化することを含めて、違う事業形成主体がでてくることも考えられるので、狭い範囲で議論しても仕方がない。それはOECCが育ったかどうかという議論に似ており、OECCに橋本先生が期待された何割かはOECCでも実現したが、他の何割かはむしろOECCの外に波及していったということだ。しかし90年代の重要な時期を、橋本先生がおられたから少なくとも前進はできたと感じている。例えば社会影響配慮などは数10社が持ち出しで集まりOECCで勉強したが、当時はなんて面倒なことだと思ったものだ。しかし、後で省みると、いい経験をさせてもらったと思っている。
加藤理事
短期的な効果はなかったが、長期的に見ると裾野が広がったということか。
青山理事
裾野は広がっている。コンサルタントや海外の事業展開上統合的にやらざるを得ないが、ODAなどが無かったら、統合的な経験も出来なかったかも。個別専門分野も出来て統合的対応もできる。個別でもいいからやったことがあるのかということが重要である。例えば水分野でも治水から上下水道などまであるが、水道などのコンサルを実践的に経験して経験などがないと統合的な問題に直面したとき、何を拠りどころに、何から手をつけていいかわからない状態になってしまう。表面的に無駄が多く見えるかもしれないが、次の時代への基盤にはなっていると思う。
これは私の考えに過ぎないが、現にOECCの会員数は激減しており、役所側でも戦略転換がある。当時はOECCが中心であったが、今日、多くの推進主体が現出してきている中で、加藤さんや柳下さんがどう感じられているのかな、とも思う。私はコンサルなので少々見方が狭いかもしれない。
加藤理事
「ODAは効果があったのか」と多少否定的な表現をしたが、一方で日中友好環境保全センターなどは竹下首相のもと巨額な資金を投じて建設した。同様にタイ、エジプト、インドネシア等に人材養成の中核となるようなトレーニングセンターという基地を作った。これらは大きな財産として生きていると思っている。
司会
橋本先生も「人材養成」の重要性については設立当初から述べられていた。日本の人材養成であるとともに途上国の人材養成でもあったであろう。トレセンというのはツール、仕掛けとして貢献していると思う。
柳下理事
人材養成という観点では、橋本先生は満足されていないであろう、という気がしてならない。
青山理事
人材養成について最近感じることは、やはり10年、20年かかるということ。日本の大学などを通じてのアジアでの廃棄物の人脈はすごいと痛感する。どこに行っても、事業化や環境協力の時、そういう人たちが寄ってくれないとだめである。こうした人材育成や連携協力のネットは、見えにくいが10年、20年かかってできるわけで、その拠点がAITなどに出来ている。日本人はそういった接点作りが下手だと思う。OECCは、そういった面で、接着的な役割を担えばかなり活きてくると思う。
4.OECCに対する注文
司会
皆様の橋本先生のOECCへの思いも含めて、OECCに対する期待についてお話ください。
加藤理事
OECCは、環境分野で実業を行っている民間にベースを置いている唯一の組織。ODAの総額は縮小傾向にあるが、誰がみても環境分野だけは別枠扱い。実際、中国、インド等にアカデミックな経験だけではなく、民間の技術、経験、実業を伴った協力をやれる場所はOECCしかない。そういう意味で頑張ってもらいたい。
今まで中国に力を入れているが、将来インドも核になると思っており、軸足を半歩移して欲しいと願っている。インドの人たちは合理的な人たちでもあり、我々の経験は伝えやすいかも知れない。
青山理事
環境という問題に、資源、エネルギー等かなり多くの分野が関わりだして広くなっている。一方、橋本先生を指摘しているように、食料、土壌、生物多様性等を統合的に扱うところが減ってきており、逆に特化し付加価値を高めるというのが傾向である。橋本先生が指摘している日本が不得意な分野をOECCが出来るかが1点ある。そういう領域は産業として金にならない分野でもある。(生物多様性は国内的には市場になりつつあるが。)そういうことも含めてどういう切り口でOECCが出て行くか考えると、排出権、カーボンオフセット等を現在事務局が展開しているが、こういう切り口を橋本先生が指摘している分野にも広げて行くような独自性が持てるかどうかだ。
民間ではなかなかついていけないが、長い目でOECCに期待して付き合えばいいわけで、そういう意味で、事務局が自主的に能力を高めて行こうというやり方をしばらく続けていけば、逆に民間側から見てあそこにいいストックがあると、もう1度OECCに回帰してくると願っている。加藤さんが言われたように、ここは民間がベースであり、民間の活力、エネルギーがOECCを通じて発するようにならなくてはいけない。その意味でIGES、国環研等他の機関とOECCの連携も大切である。そうやって民間がここで活動しようとする次の芽、期待感をどこかで作っていかなければならない。事務局だけに期待してもだめなのだが、幸い職員は若い人たちが中心。私がOECC設立に関わった時45歳くらいだった。その年齢で見たらOECCの中心となっている若い人の活動をバックアップしていき、ぜひもう1度活力ある組織にしてもらいたい。そうした統合的な活動を担うような組織であることが、橋本先生が期待していたことだと思う。
柳下理事
単に環境省の予算執行機関になることだけは避けて欲しい。結果的に狙いとするところが同一で環境省の予算を執行することとなることはあろうが、それが目的化してはいけない。これからの途上国環境問題、地球的規模の環境問題への対応は、日本の行政の縦割り組織をそのまま現場に持ち込んだ形でのこれまでのODA体制では多分対応できないと思う。
卑近な例だが、例えば中国では、廃棄物の所管は環境保護部(省)ではなく建設部(省)である。日中友好環境保全センターは環境保護部の下部組織だから、廃棄物問題に手が出しにくい。こうしたこと故に本格的な廃棄物関係の対中ODA案件は西安しかない。そういう実態からどう脱却できるか考えたい。実際に途上地域で問題になり直面している課題をOECCが役所の所管の枠内だけで関わるのではなく、そこから脱却するためにはOECC自身が力をつけないといけない。
また、例えば、今年から科学技術振興機構(JST)は、途上国が抱える問題をどのように解決していくか、というテーマで研究募集している。既存の文科省的な手法は、アカデミックな研究を採択して終わりであった。今年は、採択した上でなお途上国支援への実施の発展の見込みがあれば、その3倍のお金をJICAが連動して出すというものだ。研究者は、各省の所掌に束縛されるものではない。問題点から純粋に出発して解決に向けてアプローチする。その研究プロセスを通じて何かの協力の実施をしなければならないという結論が導かれたとき、そこにJICAの予算が付く、という新しい資金メカニズムが登場してきた。OECCはそういう新しい試みに応募できるまで能力を高めてもらいたい。
大学、民間ビジネス、環境コンサルが等距離で参加できるという形がOECCでは可能ではないか。是非視野を広げて自らの足場を固めていく努力を引き続きお願いする。役所の単なる外郭団体として埋没して欲しくない。
橋本先生の思い出で3点追加したい。
2001年(平13年)私は新設された名古屋大学環境学研究科に移った。環境月間である6月に新しい大学院が出来たことを記念するに相応しいイベントを企画することになった。その結果、四日市裁判(昭47年)から30年経っていることに気がついた。名古屋は四日市に近い。そこで様々な立場で四日市公害問題に関わった関係者を招待してシンポジウムを開催した 。国の代表として橋本先生、企業被告側として(株)昭和シェル石油鶴巻良輔氏、三重大学名誉教授吉田克己氏、そして当時四日市の担当者であった玉置泰生氏(後に(財)国際環境技術移転研究センター(ICETT)技術顧問)。「会うのは裁判以降初めてですね」と手を握ったり、抱き合ったりして再会を喜ばれていた。鶴巻氏は、「あれは名判決でしたよ」と口にした。鶴巻氏は当時、“法律違反は何もしていない、常日頃から法律違反だけはしないようにと社員に命じていたし、法律違反をしていないのに裁判で有罪になるはずがない”と信念を持っていた。アメリカ旅行中に判決日を迎えることになり、「勝っただろ?」と日本に電話したところ、「全面敗訴」の回答を聞き“日本は狂った”と思った。今のこの時代になると、新しい科学技術に基づいた事業に挑戦しようとする時、そのことに伴い生じる問題等について最も分かりうるのは、事業を実施しようとしている側だとつくづく思う。法律、条令等が全てについて先を見越してきちんと規制しておくということなんてありっこないと改めて思い知らされた。そのことを世間に明らかにしてくれたのが四日市判決であった、非常に有り難かった、と橋本先生におっしゃておられた。
2つめはオフレコだが、橋本先生には頑固な一面もあった。私は当時地球環境部企画課長をしていたが、国連環境計画(UNEP)による「Global 500」という賞があるが、日本の自治体で受賞したのは北九州市と四日市市であった。そのことについて橋本先生から強い批判を頂いたことがある。日本で最悪の公害を引き起こしておきながら、その後真人間に戻っただけのことだ。そういう事態を回避した宇部市のような自治体こそが真に偉く、選出されるべきである。公害克服をネタにして売り出してやろう、そういう発想に安易に乗るべきではない、とお叱りを受けた。北九州、四日市、水俣、川崎などは、一度落ち込んで這い上がり、現在は先進的な環境取組みを誇っているところである。橋本先生は、こういう誰からも指摘しにくいことをズバッと言う。
3つめは感動した思い出だが、かつて中西一郎委員長(故人)のもと、参議院の地球環境問題特別調査会において参考人として近藤次郎先生(当時国立公害研究所所長)と橋本先生が召喚された。その中で、国会議員から「地球環境問題と原子力についてどう考えるか持論を述べて欲しい」と質問があった。橋本先生は、「原子力ほど危険なものはなく、人間が発明した悪魔かもしれない。しかしこの悪魔と21世紀前半をいかに上手につきあっていくか、そこに人間の知恵を出すことが求められています」と言い、「この悪魔とうまく付き合うポイントは、民主的な国家であるかどうか、それに尽きます。」と答弁された。非民主的で情報公開をしない、データを改ざんするような国が原子力を扱うことほど危ないことはなく、一方批判が許され、どのようなデータでも情報公開できる体制を維持している国家においては安全な原子力利用が可能であると明快に言われた。原子力問題に関しては、私自身も心の中で揺れていたが、その意見を聞いて道が見えた思いがした。橋本先生はいつも心の奥に届くことを言われる、そういう方であった。
最後に第1回東アジア酸性雨モニタリングネットワークが1993年に富山で開催されたときのことを申し上げたい。当時は中国が酸性雨問題に対してどういう対応を示すか全く予想ができなかった。橋本先生に議長をお願いしたが、読み上げ原稿などはなく、その場の雰囲気でお任せするしかなかった。3日間議長をやっていただいたが、文法的には必ずしも正しくなく単語を使い分けるような英語であったが、非常に心に響く英語で、中国やマレーシア、タイなどの参加者に、「この問題の解決に何とか協力し合わなければならない」という気にさせてしまった。なんともいえない不思議な方であった。
加藤理事
そう流暢な英語ではなかったけれど、この年代の方としては抜群であったろう。やはり最後は人柄。橋本先生にならって、私も2回目から東アジア酸性雨の議長を務めることになったのを今思い出した。
1 気候変動に関する政府間パネル (Intergovernmental Panel on Climate Change);
2 白石光史氏 当時八千代エンジニヤリング(株)取締役営業企画部長
3 服部道三氏 当時パシフィックコンサルタンツ(株)環境部長
4 木下正明氏 現社団法人日本環境衛生施設工業会専務理事
5 現沖縄大学学長
6 元特命全権大使 軍縮委員会日本政府代表部 平成15年にOECC理事を退任
7 平成13年6月9日、名古屋大学環境学研究科創設記念シンポジウム「21世紀を環境の世紀とするために-公害の原点四日市に学ぶ-」