第2章 自我の社会性
 
はじめに
 「シンボリック相互作用論」(Symbolic Interactionism)という言葉は、H・G・ブルーマー(Blumer, Herbert George,1900-1987)というアメリカの社会学者・社会心理学者がはじめて用いた言葉である。ブルーマーによれば、シンボリック相互作用論とは、次の3つの基本的前提を共有するパースペクティブを指す1)。
 1)人間は、ある事柄に対して、その事柄が自分にとって持つ意味に基づいて行為する。
 2)そうした事柄の意味は、人間がその相手と執り行う社会的相互作用より、導出され発生する。
 3)こうした事柄の意味は、その人間が、自分が出くわした事柄に対処する際に用いる自己相互作用(self-interaction)の過程を通じて、操作されたり修正されたりする。
 ここで「自己相互作用」とは、「自分自身との相互作用」 (interaction with oneself)とも言われ、それは、「個人が自分自身と相互作用を行っている過程」であり、「個人が自分自身に対して話しかけ、そしてそれに対して反応する、というコミュニケーションの一形態」である。
 この「自己相互作用」こそ、「自我」(self)ないしは「自己」と呼ばれる実体の内実である。本章の課題は、この「自我」(「自己相互作用」)の「社会性」をあきらかにすることにある。以下では、「シンボリック相互作用論の3つの基本的前提」を手がかりとして、自我の社会性へと迫ることにしたい。
 

1 「意味」(第1の前提)
 第1の前提の要点は、人間がある「事柄」(thing)に対して行う行為のやり方ないしその様式は、その事柄がその人にとって持つ「意味」(meaning)によって定められていることである。
 ここで「事柄」には、人間が自らの世界において気にとめるであろうあらゆるものが含まれている。木や椅子といった物的な物、母親や店員といった他者たち、友人や敵といった人間に関する各種カテゴリー、学校や政府といった諸々の機関、個人の独立とか誠実さといった指導的理念、命令・要求といった他者たちの活動、その他、日常生活において個人が直面するであろう種々の状況が含まれている。こうした「事柄」が、それに対処する個人に捉えられる(見られる)、その「捉えられ方(見られ方)」、それが「意味」である。
 人間がある「事柄」に対して行う行為のやり方ないしその様式は、その事柄がその人にとって持つ「意味」によって定められる。こうした意味での“「事柄」と「意味」のセット”が、シンボリック相互作用論における「対象」(object)を構成することとなる。また、そうした対象がある人間に対して持つ「特性」(nature)は、その対象がその人間にとって持つ意味によって定められる。
 対象の特性(nature of an object)は、それを自らにとっての対象としている人間に対して、その対象が持っている意味から構成されている。意味によって、人が対象を見るやり方、それに対して行為しようとするやり方、それについて話すやり方が定められる。この「対象」は3つに分けられる。すなわち、(a)物的対象(椅子や木や自転車など)、(b)社会的対象(学生、僧侶、大統領、母親、友人など)、(c)抽象的対象(道徳的な原理、哲学学説、もしくは正義、搾取、同情などといった観念)である。
 人間を取り巻く「環境」とは、こうした「対象」から“のみ”構成されており、それ故、対象の特性(意味)の如何によって、その環境が人間にとって持つ特性(意味)が定められることとなる。
 人間にとっての「世界」(world)とは、この意味での「環境」から“のみ”成り立っている。
 

2 意味の社会性(第2の前提)
 ブルーマーは、「意味の源泉」に関するふたつの伝統的な立場を次のように説明している。
 まず第1の立場においては、事柄の意味とは、その事柄に内在的に備わっているもの、ないしは「その事柄の客観的な構成として、その事柄に生来的に備わっている一部分」と捉えられている。
 したがって、この立場においては、「椅子はそれ自体明らかに椅子であり、牛は牛、雲は雲、反乱は反乱などなど」、それを取り扱う人間の如何に関わらず、その意味は、その事柄に生来的ないしは内在的に備わっているものと捉えられることとなる。こうした立場に立つものが、哲学における伝統的な「実在論」(realism)である。
 次に第2の立場においては、事柄の意味とは、「その事柄がその人にとってその意味を持つ〔ある特定の〕人間によって、その事柄に対して心的な付加物として与えられたもの」と捉えられている。そこで「心的な付加物」(psychical accretion)とは、その人間の心や精神、ないしは心理的な組成を構成する諸要素が、外部へと表出されたものと捉えられている。ここで諸要素には、感覚 (sensations)、感情(feelings)、観念(ideas)、記憶(memories)、動機(motives)、態度(attitudes)などが含まれている。この立場に立つものとして、「古典的心理学」(classical psychology)や「現代の心理学」(contemporary psychology)などが挙げられる2)。
 事柄の意味とは、その事柄に生来的に内在するものでも、人間個人によって主観的ないしは心的に付加されるものでもない。それは、まず何よりも、人々の間の社会的相互作用の過程から生じるものである。このようにブルーマーは述べている。ブルーマーによると、シンボリック相互作用論においては、意味とは、人々の間の相互作用の過程から生じるものと考えられている。すなわち、ある人間にとってのある事柄の意味とは、他の人々がその事柄との関連においてその人に働きかける、そのやり方から生じてくるものと考えられている。他者の行為がその人にとっての事柄を定義するように作用するのである。
 この例として挙げられるのは、「野球のバット」が、アメリカのティーンエージャーにとって意味しているものと、野球の試合というものを一度も見たことがないアフリカのピグミー族の人にとって意味するものである。また、歌に必要な楽器「モリモ」が、ピグミー族の人々にとって持つ意味と、アメリカ人にとって持つ意味である。自分が属する文化を共有する他の人々との社会的相互作用を通じて、人は誰でもさまざまな道具を、例えばスポーツのため、あるいは宗教的祭儀のためというように、色々な使い方をして楽しむことを学ぶ。野球のバットがピグミー族の人々にとって謎めいたものに見えるように、モリモもまた、モリモが中心的な役割を持つ聖なる祭りを経験したことのないアメリカ人にとっては、謎めいたものに見えるに違いない。バットもモリモも重要な文化的道具であり、両者の意味は社会に暮らす他の人間との相互作用から生まれてくるのである。
 ある人間にとっての事柄の意味とは、その事柄との関連において、その人間と相互作用を行っている他者(たち)が、その人間に対して行為する、その行為のやり方ないしは様式から生じるものと捉えられる。アメリカ人にとって「バット」という対象(ここでは物的対象)が、まさしく野球のボールを打つための道具としての意味を持つのは、そうしたアメリカ人の日々の暮らしの中で、その人と相互作用を行っている他者たちが、その人の面前で(その人に対して)そうした道具として、そのバットを扱ってきたからであり、そのバットという対象に、あらかじめそうした意味が内在化されているわけではない。ピグミー族の人々にとっては、それは「謎めいたもの」としての意味しか持ち得ないことからも、それは明らかであろう。
 ブルーマーにおいては、事柄の意味とは、こうした意味で「社会的所産」(social product)である。たとえば、「言語」という対象は「抽象的対象」に相当する。「言語」という対象の意味は、生来的にその対象に内在化されているものでもなく、また、1個人によって主観的にその対象に付与されたものでもない。ある個人にとっての「言語」という対象の意味もまた、それを、その個人と相互作用を行っている他者たちが、その個人の面前で、“どのように用いるか”によって定められるものと捉えられる3)。次に、社会的対象として、学校に私服を着てきたある高校生という例を取りあげてみよう。彼/彼女は、私服を禁じ制服を着てくることを義務づけている高校においては、明らかに「逸脱者」としての「意味」を、たとえばその学校に通っている他の生徒たちに対して持つことになる。しかし、私服通学を許可している高校においては「逸脱者」とは見なされない。なぜなら、そこでは他者たち(例えばその学校の教員)が、その学校の生徒たちの面前で、「逸脱者」という扱い方を、その高校生に対して行っていないからである。
 

3 意味の解釈(第3の前提)
 対象(となる事柄の意味)とは、社会的相互作用の文脈において形成され、人々によってそこから引き出されるものである。また人間は、そうして形成された意味に基づいて、その対象(となる事柄)に対して行為を行う。換言するならば、そうして形成された対象の意味が、その人間のその対象(より正確にはその対象となる事柄)に対する行為の様式を定めることとなる。
 ブルーマーが、シンボリック相互作用論の3つの前提のなかでも、とりわけ重視し強調するのが、第3の前提である。すなわち、他者によってもたらされた、その人間にとっての事柄の意味は、その人間によってそのまま自動的に適用されるものではなく、それは必ず、その人間の「自己相互作用」(self interaction)を通じて、操作されたり修正されたりするものと捉えられなければならない。
 「自己相互作用」とは、先にも述べたように、「自分自身との相互作用」を意味する。それは言うなれば、他者(たち)との社会的相互作用が、個人の内に内在化された、「自分自身との社会的相互作用」に他ならない。ブルーマーによると、この過程にはふたつの別個の段階がある。まず第1に、行為者は、自らがそれに対して行為している事柄を、自分自身に「表示」(indication)しなければならない。行為者は意味を持つ事柄を自分自身に「指し示す」(point out)という営みをまず行わなければならない。第2に、「解釈」(interpretation)とは、「意味の操作」(handling of meanings)を意味する。行為者は、自分がおかれている状況や自分の行為の方向に照らして、その意味を選択したり、検討したり、保留ないしは未決定にしたり、再分類したり、変容させたりするのである。すなわち、自己相互作用には、「表示」と「解釈」というふたつの段階がある。前者の段階において、行為者は、先行する社会的相互作用の過程を通じて形成された「対象」を自分自身に指し示し、後者の段階において、その「対象」(となる事柄の意味)を、自らがおかれている状況とそれに対する自らの行為の如何という観点から再検討することになる。こうした過程を経て確定されたその行為者にとっての「対象」が、その行為者にとっての「自らの行為を方向付け形成するための道具(instrument)」として、その行為者のその後の行為を導いて行くこととなる。
 

4 自我の社会性
 自己相互作用とは、個人が自分自身と相互作用を行っている過程である。そこにおいては、その個人は、他者(たち)と社会的相互作用を行っているのと同じように、自分自身とも相互作用を行っている。個人にとっての「世界」(world)が、「対象」(object)から“のみ”構成されているものであるとするならば、個人が社会的相互作用を行っている相手である「他者(たち)」という存在もまた、その個人にとって、「対象」(社会的対象)の1つとして存在している、ということになる。であるならば、同様に、個人が自己相互作用を行っている相手である「自分自身」という存在もまた、その個人にとっては「対象」(社会的対象)の1つとして存在していなければならないことになる。すなわち、個人は、自己相互作用を行うに先立って、まず「自分自身」という「対象」を有していなければならないことになる。
 ブルーマーによれば、人間は、「自分自身」という「対象」を有することによってのみ、「自己相互作用」を行うことが出来るようになる。人間が自己相互作用を行うためには、それに先だって人間は、まず自分自身(という対象)を有していなければならない。
 では、そもそも人間が「自分自身」を持つとは、如何なることを意味するのであろうか。ブルーマーによれば、「このことが意味しているのは、人間は自らの行為にとってのひとつの対象となり得る、ということに過ぎない」。では、如何にして人間は、自分自身を自らの行為にとっての「対象」とし得るのであろうか。ある個人にとっての対象とは、その個人と社会的相互作用を行っている他者たちが、その個人の面前で、対象となる事柄に対して行う行為のやり方から生じるものとされていた。ブルーマーによれば、ある個人にとっての自分自身という対象もまた、同様の形式で生じるものと捉えられる。そのことについて、ブルーマーは次のように述べている。
 「ひとつの対象としての自分自身という考え方は、対象に関するこれまでの議論とも適合する。〔すなわち〕他のあらゆる対象と同様に、ある人間にとっての自分自身という対象もまた、そこにおいて他者たちが、その人間をその人自身に対して定義している社会的相互作用の過程から生じてくるものである」。
 すなわち、人間は、自己相互作用を行うに先立って、「自分自身」という「対象」を形成しなければならないが、その自分自身という対象は、他の対象と同様に、その人間が社会的相互作用を行っている相手である他者たちが、「その事柄〔その人間にとっての「自分自身」、すなわちその人自身〕との関連においてその人に働きかける、そのやり方から生じてくるもの」と考えられる。すなわち、「他者の行為がその人にとっての〔「自分自身」という〕事柄を定義するように作用する」と捉えられることになる。
 以上、本章における議論を踏まえるならば、「自我の社会性」とは、以下のように説明することが出来る。
 すなわち、人間とは、「自我」(self)を有した存在であるが、そこで言う「自我」とは、「自己相互作用」という形式において存在する。そうした意味での「自我」が成立するためには、人間は「自分自身」という「対象」を“前もって”有していなければならないが、そうした「対象」の成立は、その人間が社会的相互作用を行っている相手である「他者(たち)」が自らに対して行っている定義活動を抜きにしてはあり得ない。
 「自我(自己相互作用)」の“他者・定義・依存性”4)。ブルーマーのシンボリック相互作用論を踏まえるならば、こうした意味で「自我」とは「社会性」を有した存在である、と言える。
 


1) H・ブルーマー著(後藤将之訳)、『シンボリック相互作用論−−パースペクティブと方法−−』、勁草書房、1991年、2頁。
2) ここで「心理学」とは、おそらくは「構成心理学」(structural psychology)のことを指している。構成心理学とは、複雑な精神現象を諸要素に分け、そうした諸要素を相互に組み合わせることによって心理現象を説明しようとする心理学の一流派を指す。この流れに位置する心理学者に、W・ヴント、E・B・ティチェナー、W・ジェームズらがいる。
3) 例えば、モールス信号という「言語」を例に取ってみよう。モールス信号とは、ある一定の音ないしは光のパターンを、大気中の音の振動ないしは発光という“物流”にのせることにより、ある一定の情報を、伝達者(送り手)から被伝達者(受け手)へと伝達することを目的として考案されたものである。この信号(言語)は、それを理解する能力を持ち合わせていない者にとっては、まるで「意味」を持たないものとして存在することになる。この信号が、ある人間にとって、“「意味」あるもの”として、すなわち、「対象」として存在するためには、この信号に関する、その人間に対する、他者たちによる定義活動が、まず先行しなければならない。すなわち、軍隊という集団において、その人間が、その集団に所属している他者たち(for ex.教官・先輩)から、定義活動(軍隊訓練)を受けることで、初めて、その信号がその人間にとって「意味」(情報)あるものとして立ち現れてくることになる。
4) なお、他者(たち)による定義活動は、単に、ある人間にとっての「自分自身」という「対象」を成立させるのみならず、既存の「自分自身」を、別の「自分自身」へと変化させることもある。
 

参考文献

H・ブルーマー著(後藤将之訳)、『シンボリック相互作用論−−パースペクティブと方法−−』、勁草書房、1991年。
船津 衛、『自我の社会理論』、恒星社厚生閣、1983年。
船津 衛、宝月 誠編、『シンボリック相互作用論の世界』、恒星社厚生閣、1995年。
片桐雅隆編、『意味と日常世界−−シンボリック・インタラクショニズムの社会学−−』、世界思想社、1989年。
桑原 司、『社会過程の社会学−−ハーバート・ブルーマーのシンボリック相互作用論における社会観再考−−』、関西学院大学出版会(=http://www.ipsu.bookpark.ne.jp/ipsu/)、2000年。

                                                             (桑原 司)
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