ことわざの意味はこちらにあります。

ver.8.2

 毎日が日曜日

4月10日(火)

是非はともかく、死は悲しい

4月9日付 読売オンライン
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070409it14.htm

「留年通告」ゼミ生自殺、高崎経済大准教授を懲戒免職

 群馬県高崎市の市立高崎経済大学の女子学生(20)が1月に自殺し、大学は9日、ゼミで教えていた経済学部の男性准教授(38)が「理不尽で教育的配慮を欠いた留年通告をした」などとして同日付で懲戒免職処分にした。

 大学によると、女子学生はゼミに2006年9月から参加するはずだったが、自主的に早めて6月ごろから参加。准教授は8月にゼミ学生に課題を出し、12月に提出していない女子学生ら3人に、「1月15日までに課題を出さないと即留年」というメールを送った。自殺当日となった同15日には、未提出の2人のうち女子学生だけに催促のメールを送っていた。

 課題は、アダム・スミスの重商主義批判の論点を説明させるなど10の設問から五つを選んでリポートするのと、新聞社説10本の要約とそれについてのコメントをまとめるという内容。大学側は「大学院生並みの厳しい課題。ある課題がこなせなかったというだけで即留年というのもおかしい」としている。また、准教授は、他の学生に対しても人格を否定するような暴言やセクハラ発言などがあったという。

 女子学生は1月15日夜、同県みどり市の橋から川に飛び込んだ。准教授に最後に送ったメールには「出来損ないの面倒を見させてすみませんでした。お世話になりました。ゼミ楽しかったです」とあったという。

 准教授はこれまでの取材に「はじめから処分を前提とした大学の調査。『留年』と言っただけで辞めさせられては、教育にならない」と反論していた。

(2007年4月9日23時55分 読売新聞)

wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B7%AF%E6%95%AC

中×路敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中×路 敬(な×かじ た×かし 1969年1月3日 - )は、高崎市立高崎経済大学の経済学部准教授であった。大阪府生まれ、広島大学経済学部卒、広島大学大学院博士前期課程修了、九州大学大学院博士後期課程修了。経済学博士。

九州大学助手を2年間勤めた後、2001年より茨城大学助教授となる。 2004年、勤務時間中にスポーツジムに20回通っていたことや、大学院生に退学を強要したなどの問題により停職3ヶ月の処分を受ける。同大を依願退職後、教員公募により高崎経済大学助教授(准教授)に就任。2006年度、自身の担当するゼミナールにて女子学生が自殺したことにより2007年4月9日付けで高崎経済大学から懲戒免職される。

[編集] 主な著書

* 『アーヴィング・フィッシャーの経済学』(2002年・日本経済評論社)

 伏せ字は母里。 教授。 取材に際して学生への哀悼の言葉があったことを祈ります。 掲載されなかったにせよ。 制度がどうあろうとも、学生の資質がどうであろうとも、命が失われたと言うことに関しては、真摯に受け取らなければなりません。

 「准教授は、他の学生に対しても人格を否定するような暴言やセクハラ発言などがあったという。」は眉唾です。
 「勤務時間中にスポーツジムに20回通っていたことや、大学院生に退学を強要したなどの問題により停職3ヶ月の処分を受ける。」というのは確認がとれそうですけれども、今回の事件とは関連が薄そう。

4月9日(月)

22世紀の科学力

 読書猿133号が「ドラえもん」を書評。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru133.html

多くの人は、科学の「作り手」側にではなく、「受け手」側に立つ。多くの人にとっては、科学は応用可能な知識でなく、すでにパッケージングされたコモディティとしての科学である(本来コモディティとは商品取引市場において売買されるような同 種なら互いに差のない商品のこと。工業製品において競争商品間の差別化特性(機能、 品質、ブランド力など)が失われ、主に価格あるいは量を判断基準に売買が行われるよ うになることをcommoditizationコモディティ化といい、コモディティ化した「単なる 商品」をコモディティと呼ぶ)。

 私たちが「受け」ている科学というのは一方的であり、私たちが個人的に操作できる範囲におさまっているわけではないので、私たちは科学をうさんくさく思う。 科学が「自分のためだけに役立つ」ものであって欲しいと願う。

 その時点ですでに「受け手」の想定する科学と、本来の科学、あるいは為政者などが「科学立国」「科学教育」なととぶちあげる科学は乖離してしまっています。

大多数の「持たざる者」にとって、「科学では説明できないこと」は、日常を包囲しているはずの科学の「ほころび」であり、変わらない日常からの(「一発逆転」を狙える通常ならざる)脱出の可能性であるかのように見える。 だからこそ、少なくない人々が、科学に投資する代わりに(たとえば医者にかかる代わりに)、「科学では説明できないこと」に対して(見るからに怪しい淫祠邪教やインチキ療法に)自分の努力と財産を費やすのである。

 ドラえもんは、その「自分の都合で作用する科学」を具現化した存在であるかのように見える。 がしかし、のび太も、ドラえもん自身も、科学それ自体の本質を変えることはできない。

一個人が自分だけに都合の良い変化をもたらすために用いるには、科学はあまりにも取扱いが難しい(そのことを繰り返し我々に教えた物語に『ドラえもん』がある)。

平日というのにお出かけ

 いつもは1時間半の道のりが今日は2時間。 通勤時間帯おそるべし。

4月8日(日)

こんにちは乙武先生

 批判と言うほどでもなく。

4月4日付スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070406-OHT1T00017.htm

乙武先生デビュー 理科、社会、道徳教える

 ベストセラー「五体不満足」の筆者で、スポーツライターとして活躍してきた乙武洋匡さん(31)が5日、教員に就任した東京都杉並区立杉並第4小学校の始業式と入学式に出席した。

 グレーのスーツ姿で出席した、校庭での始業式では「ぼくの名前は、乙武洋匡と言います」とゆっくりした口調で自己紹介。「あ、乙武先生、ちょっと困っているのかなと思ったときは、いろんなお手伝いをしてください」と、笑顔で子どもたちに呼びかけた。

 乙武さんは明星大の通信教育などを受け、3月に小学校の教員免許を取得。3年間の任期付きで、杉並区から独自に採用された。学校ではクラスの担任ではなく、5年生の理科、6年生の社会を担当。道徳などは全学年を指導する可能性もある。

 「当初はプリントの配布をどうするのかというところから不安があった」と乙武さん。区教委や学校と話し合い、工夫の方法を模索。また、乙武さんの元所属事務所の担当者で、3年も寄り添ってきた男性(28)が、校内の心強い“影武者”だ。体育の時間の着替え、トイレ、黒板に字を書くときなど全面的にサポートする。

 教壇デビューは誕生日でもある6日の5時間目、6年生の社会。5年生の理科では「インゲン豆の発芽」を中心に指導する計画を立てた。授業以外に学校のホームページ更新も任され、早速入学式の様子を更新。クラブ活動や遠足への参加にも意欲をのぞかせていた。

(2007年4月6日06時00分 スポーツ報知)

 杉並区、というところで引っかかる人が続出のご様子。

金曜アンテナ『週刊金曜日』vol.649
http://www.kinyobi.co.jp/pages/vol649/antena

区長好みの杉並師範館
第1期生が現場配属

 杉並区(東京都)の小学校教師を独自に養成する「杉並師範館」(理事長・山田宏杉並区長)の第1期生20人が、この4月から区内の小学校に配属された。この師範館をめぐり、区の補助金支給のあり方や、儒教の「四書五経」を取り入れた講義内容などに対し、疑問の声が上がっている。

 師範館は山田区長の「私塾」という位置づけで、06年度から毎年30人程度を募集。区教委と協定書を結んでおり、卒塾生は小学校教員として区に採用される予定だ。

 問題を追及している奥山たえこ区議(無所属)によると、師範館は05年度は2800万円、06年度は4500万円の補助金を区に申請し、受領している。補助金の申請請求人と交付支給決定者は、ともに山田区長という構図だ。

「補助金適正化審査会を作って支出を厳格化している中で、なぜ区長が区から補助金をもらうのか。道徳的におかしい。師範館の実態は区の請負そのもので、地方自治法の『兼職禁止』という趣旨からも、極めてグレーに近い脱法行為だと思う」と奥山議員。

 さらに、師範館の設立趣意書には「日本は今、新たな国家存亡の危機に直面しているといっても過言ではありません」、「わが国は長い歴史を有し、この間、連綿と独自の光輝ある伝統精神文化を保有し」などの言葉が並ぶ。奥山議員は、「子どもの側からの視点がない。区の『つくる会』教科書採択問題ともつながる問題で、区長による教育の私物化だ」と危惧している。授業は区議ですら見学が認められないような閉鎖的状況だという。

「配属された先生が今後どのようにやっていくのか注目したい。萎縮せずにのびのびとやってもらいたいが」。今後も追及を続けていく方針だ。

 13ページに関連記事掲載

(本誌取材班)

 乙武氏は3年間の任期で杉並区に「独自に」採用された、ということなわけですけれども、それと同時に山田区長の私塾生も30人ほど独自採用されているわけですよ。 山田区長および杉並区教育委員会といえば、「つくる会」参加や当然のこととして扶桑社教科書採択を行うなど、そっちに偏っていることで著名な地域。 「杉並師範館(註)」は区の補助金を助成される私塾という不可思議団体で、その教育内容はともかく(註2)、組織のあり方は大きな議論を呼んでいるところです。

 師範館から初めての卒業生が輩出され、自動的に小学校に配属されるこの年に、乙武氏が広告塔として採用され、独自基準で教員を採用することのすばらしさが喧伝されているのだというのは私の完全な邪推ですけれども、乙武氏を報道するならほかの独自採用教員についても触れないと公正ではないと思います。
 乙武氏は道徳と社会を担当するということで、おそらくつくる会的な史観に基づく授業を展開するよう指示されるのでしょうけれども、身体障害者を不当に差別したり隔離したりしていた帝國時代を賛美できるのでしょうか。 にこにこ初授業、などとは言っていられない困難が待ち受けていると思うのですが。

 逆に、乙武氏がそういった広告塔としての立場もすべて分かった上で清濁併せのむ気概で教壇に立つのだとしたら、それはそれでおそろしい。

註:杉並師範館 HOME
http://www.shihankan.jp/

註2:四書五経、大賛成

むげん堂閉店

 で、うろつきついでに知ったのですが宇都宮の「仲屋むげん堂」与番館は閉店していたのですね。

日下開山 明石志賀之助

 蒲生神社へ行ってきました。 昨日4月7日に明石志賀之助記念石碑の除幕式があったばかり。 奉納ちびっ子相撲や春日山部屋の力士が参列したりと大変なにぎわいだったそうです。

 昨日は残念なことに所用で出かけていたので今日参詣。 雨が降りそうなので足早に境内にはいると、集会所で相撲の歴史展をしていました(本日まで)。 下調べもしないで来たのにこりゃあラッキィと展示を見、パンフレットまでいただいてきました。 掲載した明石志賀之助の錦絵はそこにあったもの。 (c)は日本相撲協会。

 雨が降る前に境内もまわっておこうということでカメラを片手に(もう片手には携帯電話)社殿のところまで行きました。 こちらが昨日除幕された明石鹿之助記念石碑。


 さてそもそも、明石志賀之助石碑とは何か。 写真右側の石碑は、明治33年に第12代横綱陣幕久五郎(位1863年10月)が建立したもので、正面の文字は「日下開山初代横綱力士明石志賀之助碑 河北野口勝一書」とあります。 建立当初は城址公園(御本丸公園)にありましたが、第二次大戦後は埋もれていて所在も不明でした。 そこで昭和26年12月、改めて蒲生神社境内に移設したのが始まりです。 移設の際には第41代横綱千代の山(雅信、位1951年9月〜1959年1月)が土俵入りを奉納し、蒲生神社と相撲のつながりはいっそう密接になりました。

 平成19年には「歴史文化を伝承する市民の会」が元々の石碑の脇に明石志賀之助実物大の石碑を建立し、偉業はますます顕彰されることとなったのでした。


 しかし、そばに寄ってみるとこの石碑は錦絵にまるきりにていません。 どんな根拠で顔を造ったのでしょう。 仕草や服装はこの錦絵から採ったと見て間違いなさそうですが。 拝殿前にはこれも等身大(七尺三寸=約240センチ?)の切り抜きもあり、いつもは人影まばらな蒲生神社が何となく盛り上げようとしている雰囲気がありました。 まあ参拝客がほとんどいないことはいつも通りでしたが。 桜が咲いているのでお隣の八幡山公園は混み合っているというのにねえ。

読売記者、ひとりで昇天!?

4月7日付サンスポ
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200704/sha2007040706.html

36歳読売記者、ひとりSMで昇天!?手錠、口の中に靴下!

 東京都文京区のマンション室内で5日に男性が変死体で見つかった件で、男性が“特殊行為中”に事故で亡くなったとみられることが6日までに分かった。遺体発見時は後ろ手に両手に手錠をかけており、口の中には靴下が。警視庁の捜査も事件→自殺か、と迷走したが、最終的には事故との見方に落ち着いたようだ。専門家は「見る人が見れば一目瞭然の特殊プレー」と指摘している。

 変死体が見つかったのは5日午後4時20分ごろ。文京区白山のマンション室内の玄関で、読売新聞社員の男性(36)が倒れているのを、旅行から帰宅した母親(65)が見つけて通報した。

 警視庁富坂署員が駆けつけると、男性は後ろ手に両手に手錠をかけ、口の中に靴下を詰め込み、その上から粘着テープをはってあった。頭部を玄関方向に向けており、左側体部を下にした状態で死亡。上下の服は着ていたといい、死因は窒息死とみられる。

 警視庁は当初、事件の疑いもあるとみて捜査したが、玄関は施錠され、外部からの侵入、物色された形跡もない。着衣の乱れもなく、現金は残っており、左手には手錠のカギを持っていた。

 続いて浮上したのは自殺の可能性。しかし遺書はない。何らかの事情で口に靴下を入れて窒息死した事故の可能性が高いとの見方へ。捜査関係者は「室内に手錠などSM系に関する器具が多数あった。自慰行為中の事故とみられる」と話した。

 男性は読売新聞メディア戦略局管理部社員で、放送業界の情報収集を担当。編集局政治部記者も兼務し、総務省を担当していた。平成7年に入社し宇都宮支局や政治部を経て現在に至ったといい、「経歴以上のことはお答えしていません」(東京本社広報部)。

 一方で男性を知る人物からは「同性愛者だというウワサを聞いた」「仕事もするし、まじめで優しそうな感じ。でも2人では飲みに行きたくないタイプ」などの声も。

 オナニー専門家は、今回の件について「窒息オナニーですね。見る人が見れば一発でわかりますよ」と証言。けい動脈を絞めて意識が遠くなる瞬間と、射精感が合わさると想像を絶する快感が得られるという。

 複数の専門家は「ここまで手の込んだ方法は聞いたことがない」と驚き、中には「高難易度。フツーじゃない。アイススケートなら5回転ジャンプくらいだ」との声も聞かれた。

★圧迫プレーの一種

 変死体で見つかった男性は、ゲイだとウワサされていたという。風俗ライターによると、レズの間でSMプレーの人気が低い一方で、ゲイの間ではSMはポピュラーで「あるゲイが『ボクはSをやる』と言ったら、Mの男性がたくさん寄ってきて大変だったと聞いた。ゲイの中ではM男が多いのでは」。

 窒息オナニーは一般的に理解しがたいが、いわゆる「デブ専」の圧迫プレーに通じると指摘する声も。AV関係者は「デブ専の性癖を持つ者は圧迫されて気を失うときの射精がいいといいます。ただ相手がいるので死に至ることはほとんどありません」と話していた。

 変死の報道があり、それが読売新聞社の記者であるという報道があったため注目していたのですが、ぷっつりと続報が途絶えていたところへ、急転直下の事件解決? 漫画じゃあるまいし……

 あと、サンスポだけがこうした(複数の!)専門家から事情を聞くことができたと言うことで、取材力の高さに敬意を表したい。 (しかし業界の事情通、とかいうのはよくありますが、専門家なんて本当にいるのでしょうか。)

4月7日(土)

本を捨てる

 うちの裏の物置の床がぬけそうなので、致し方なく本を捨てることにして表に積んでみました。 結構出したはずですが、それでも物置は足の踏み場もありません。 家族は私以外、本なんていらないので全部捨てちゃえ派なのです。 私も普段は別に捨ててもかまわない派なのです(積極的に捨てるわけではありません)が、あとからうじうじ思い返すのですよ。 ああ、心が狭い。

4月6日(金)

今月のフォーリン・アフェアーズから:『論座』4月号

竹下興喜「日本の国力を考える」

 国益という言葉がよく聞かれるようになりましたが、「国益を実現するためのパワー、つまり国力という言葉を見聞きする機会は依然として少ない。」わけでして。

 ジョセフ・ナイは、国力を、軍事力などを通じて他国の行動を縛るハードパワーと、自国の掲げる理念や路線に他国が魅了されることで、自立的に自国の国益を促進していくソフトパワーに切り分けて見せたが、今回の日本をテーマとする二つの論文は、日本が歴史的分水嶺にあること、軍事力と経済力、ソフトパワーとハードパワーのバランスをいかにとるかで、今後が左右されることを示唆している。 国益とグローバルな利益を詳細に定義し、それを最大限重ね合わせるために、どのような国力のバランスが必要か、まだ議論は始まったばかりだ。

 話はそれるわけですが、日本がソフトパワーに満ちあふれていたのは日露戦争の後とバブル景気の頃でしょうかね。

4月5日(木)

日本における中華

 フランスにおける日本食という話題で思い出したのは日本における中華。 私たちの食べる中華の多くは陳健民氏が横浜中華街で創造したものであることはすでに常識です。 エビチリとか担々麺とか。 キャベツ入りの回鍋肉とか。

 日本には数多くのラーメン屋がありまして、私はラーメンは純和食だと信じて疑いません。 (五番町弥一もそういっています。) (日本人は中国人(の傍流)であるという日ごろの主張はおいておいても。) 関東圏でスタンダードな、魚介系でダシを取り、醤油ベースのスープに魚の練り物や海苔をトッピングした卵つなぎ麺というのに中華を感じないのですよね。 東夷のソウルフードとよんでいいと思います。

横田増生「美食の都パリの日本食戦争」:『論座』4月号

 副題は「ジェトロの”お墨付き”に喧々ごうごう」、ということで、いわゆる「スシポリス」フランスでの反応。

 日本貿易振興機構(ジェトロ)がフランス日本食のレベルアップを図ろうと公表した「推奨日本食レストラン」に対する賛否両論。 逆に言えば、それだけ日本食がフランスに与える影響は大きいと言うことでもあるわけですね。

 パリの日本食レストランの数は、60年代まで一桁台にとどまっていたが、その後、日本企業の進出もあり、80年代には50軒台でピークを迎える。 それ以降、日本人の料理人に労働許可が下りにくくなったため、日本人経営によるレストラン数は50軒前後と変わりがない。

(略)

 90年代に入ると、魚を中心とした日本食が健康の面から注目を浴びるようになる。 そして、実際に日本食を食べてみると、濃厚なソースをベースとしたフランス料理と違い、あっさりしていて、しかもおいしい。 それまで生魚を食べることから距離を置いていた一般のフランス人が急速に寿司や刺し身を食べるようになった。 60年と比べると、現在のフランス人一人当たりの魚介類の消費量は、5倍近くに増えている(フランス国立統計経済研究所=INSEE)。

 というわけでかつては在仏日本人や裕福な(道楽者の?)フランス人に限られていた日本食が、ここ10年くらい一般のパリ人の口にも入るようになったというわけ。

 この日本食ブームの受け皿となったのが、中華系(ベトナム系、カンボジア系を含む)フランス人の経営する日本食レストランだ。 メニューをフランス人受けのする寿司と刺し身、焼き鳥に絞り、日本人が経営するレストランよりも値段を1、2割安く設定して、入り口に写真入りのメニューを張り出す。

 90年代後半から台頭してきた中華系の日本食レストランの数は、現在では500軒を超え、日本人経営のレストランを合わせると、パリには600軒前後の日本食レストランがある。

 うーむ。 相変わらず華僑恐るべし、ですな。 日本人が日本人にこだわるのに対して中国人は中華系フランス人であることに頓着がない。 それは逆に外国に進出すると言うことへの覚悟の表れと見て取れないこともありません。 そのあたりが、日本人の10 倍というレストラン出店にもあらわれているのではないでしょうか。

 50代の〈すしやき〉店長ディップさんの話。


日本人の料理人は一切使っていない。 日本人だと給料は2倍も取るのに、寿司なら寿司、焼き鳥なら焼き鳥しかやらない。 それに、うちは週休1日なのに2日休みたがる。 それでは話にならんよ。 うちの料理人は、別の日本食レストランで働いた料理人から技術を教えてもらっている。 日本食をやっている理由かい? それはア・ラ・モード(はやり)だからだよ。 もし10年後に、インド料理がはやれば、インド料理をやっているだろうね。」

 中華系フランス人は、かつては中華料理レストランを営んでいる人が多かった。 しかし、
 テレビ番組が中華レストランの不衛生かつ陰惨な実態を放送した(註)ため客離れが起きた。
 客単価が中華レストランが5、6ユーロであるのに対し日本食なら10ユーロ前後から始まるため、利幅が大きい
などの理由から日本食への転換が進んだということです。

 そして、中華系の市場参入は日本食をフランスで定着させるのに一役買い、日本人のレストランとの「共存共栄」がなされているそうです。 ただし、中華系のレストランが誤った日本食のイメージをつくることもあるという。
 鶏ガラスープの味噌汁、韓国産岩のりを貼り付けた巻きずし、ワインビネガーの寿司飯、おにぎりのような寿司…

 問題は料理の内容だけにとどまらない。 パリのある日本食品卸の経営者は、中華系日本食のレストランの間では、日本食材の違法商品が出回っていると告発する。

 こうした状況に対応してジェトロ・パリセンターは覆面審査委員により78店舗を審査し基準を超えた店に推奨マークを配布した。 同時期、日本の農林水産省も海外の有料日本食レストランを支援しようと動き出した。 注意するべきは、この動きはまったく別個の活動であること。 日本食ブームの本家アメリカのマスコミは農水省の動きに反発。

 ボイス・オブ・アメリカは「日本 世界中に”スシ・ポリス”を送り込む」(”Japan Prepares to send 'Sushi Police' on World wide Crusade to Improve Japanese Cuisine”)と報じ、ワシントン・ポスト紙は「ニセ寿司にかみつく」(”Putting the Bite On Pseudo Sushi And Other Insults”)、ロサンゼルス・タイムズ紙は「カリフォルニアロールに怒り心頭」(”California rolls drive them to distraction”)と見出しをつけて伝えた。 海外だけでなく自民党内にも農水省の取り組みに対して「国費を使うようなことか」といった疑問の声もあり、当初の予算案としては認められず、復活折衝ののちに予算が復活した。

 フランスにおいても、ガイドブックの登場を喜ぶ声がある一方で、

パリでジェトロの取り組みに正面から異論を唱えるのは、日本食専門の季刊誌「ワサビ」を発行する編集長パトリック・デュバルさん(52)だ。

「ジェトロの推奨マークには反対だ。 ミシュランのような民間のガイドブックが行うのなら理解できるが、フランスの民間企業であるレストランの良しあしをジェトロのような日本の半政府機関が行うのはいかがなものか。 (後略)」

 パリ内600軒という日本食レストランのうち78店舗を審査したに過ぎないジェトロへの批判は、むしろ日本食への関心の高さを示すものだと、私などは思いますが。 しかもジェトロであることをきちんと表明していればその偏りも込みで消費者からは評価されることでしょう。 それで問題があれば、きっとミシュランよろしく民間団体が日本食を格付けをはじめるでしょう。 (というかデュバル氏の「ワサビ」がそうなのではないでしょうか。) フランス国民は、どういう形で日本食を受け入れるのか今後の展開に注目すべきでしょう。

 ついでにいうと、農水省が主張した「日本の食材をつかえ」というのは、調味料ならともかく食材に関しては無理ですよね。 日本でも、フランスから空輸した食材を使うしゃっちょこばったフレンチレストランがあります(食べたことはもちろんありません)が、キャビアの缶詰やワインならともかく冷凍の魚肉などはナンセンスだと思います。

鈴木正成「健康バラエティー番組に通底する、安易な「特定保健用食品」ブームを憂う」:『論座』4月号

 ダンベルダイエットでおなじみ(だった)、鈴木正成(まさしげ)先生、お久しぶりです。

 「あるある捏造」事件をうけて、報道の信憑性云々のようなことが議論される向きもあるようですが、無駄なことをしていますよね。 かの番組がなぜ何度も健康問題をとりあげていたのかというと、あれはスポンサーである「健康エコナ」の販促のために健康不安をあおるためにつくられていたという部分が大きいようです。 すなわち、個々のダイエット食品に関しては流行り廃りがあってもいい、たとえば納豆を買うついでにスーパで、その流行の後ではヨーグルトでも何でも買いに行ったついでにエコナが売れればいいわけですよね。 番組的には、なんの食べ物にダイエット効果があるか、ということよりも、ダイエットしないと駄目ですよ、と刷り込みを仕掛けることの方が大切なわけです。
そういう意味で、私は最近のメタボリック扇動に関してもかなり懐疑的です。 生活習慣病自体もそうですけれども、最新の医学では遺伝的要素が無視できないそうで、もちろん本人の生活改善が望まれるのでしょうけれども、それは各個人の体質を考慮した上でのダイエットであるべきなのでしょう。


 しかし、鈴木先生はその先、厚生労働省お墨付きの「トクホ」にさえ異議を唱えます。

(前略)厚労相によって許可・認定された食品であること、さらに科学的に証明された保健効果であるとして、トクホに対する消費者の信頼は厚い。

 しかし一方では、専門家からは「評価方法が明確でない」「健康機能に関して、消費者に責任を果たせない食品群ではないか。という声が高まりつつある。

 で。 健康エコナにも含まれている、体に脂肪がつきにくい油脂食品としてトクホに認定されているジアシルグリセロール(以下、DGと表記)の抗肥満作用を鈴木先生が実験したところ、体脂肪蓄積を小さくする作用は確認されなかったそうです。

 この学会発表の前日、情報を聞きつけた「健康エコナ」シリーズを開発・販売する花王側の責任者が研究室まで来て、DGの健康機能を証明した19の論文について、その正当性を説明した。 しかし、そこで明らかになったのは――。 発育期の動物やヒトでは、体脂肪の蓄積を抑えるというDGの作用は認められないこと、非肥満の成人においても同様に体脂肪の蓄積を小さくする作用は確認されないこと、DGの健康機能作用は肥満した中年に限って認められたに過ぎないこと、何よりもそれらを花王が認識しながらDG食品販売事業を展開していたという事実であった。

 逆に言えば肥満成人には効果があるということですね。 それはそれでいいのではないかと思いますが。

 消費者は、企業側に都合の良い一方的な科学情報をもって認定された食品を購入させられていると言ってもいいだろう。 前述した「健康エコナ」のように、DGが子どもや肥満していない一般成人には無効でありながら、「ご家族の健康のために 毎日の食卓に」と誰にでも効果があるように宣伝されてきた事実を無視することはできない。

 ああそうか。 料理をつくる人が「DGだから」と安心して油を多めに使ったり、頻繁に使ったりした場合は逆に肥満などの「健康被害」を引き起こしてしまうわけね。

 実は、特定の食品に健康強調表示をする日本のトクホ制度は、世界から見ても特殊な制度と言える。 04年に世界保健機関(WHO)が発表した報告書「Nutrition labels and health claims: the global regulatory encironment(栄養表示と健康強調表示:世界的規制の現況)」のなかでも、日本のトクホ制度が取り上げられているが、そのトーンは批判的だ。

 まあ、日本のトクホ制度は科学無視傾向、権威主義傾向のたまものであることを考えれば、外国でこんなでたらめ制度が成り立つわけないとは思います。 なんとなれば、WHOの報告によれば、

 日本のトクホ制度の下では、許可を受けた製品の90%以上は、整腸作用のような些末な健康利益関連のものであり、より重要な健康問題である高血圧に関係するものは1%にすぎない。

 そのようななかにあって、特定の製品の健康強調表示は、野菜や果物のように、相対的に健康性が証明されていながら特別な強調表示をしていない食品群から消費者の健康的関心をそらすことになり、問題である。

 まあ要するに、トクホ食品よりは普通の食材をバランス良く接種する方がずっと理にかなっているというわけですか。 そもそも、厚生労働省は企業側が提示したデータの妥当性を問わず、企業側に都合の良い論文を安易に出してくる研究所・研究者を採用してしまうので、はっきりとした問題がないということだけで多くのトクホが認められてしまうという現状の問題があるようです。

 医薬部外品、もあやしいと私は勝手に考えていますが、企業の活動に関しては一定の監査が行われなければならないという資本主義社会の基本が日本においては非常に稀薄ですね。

横綱の町 宇都宮

 宇都宮が「横綱の町」であるというのはすでに常識ですけれども、いよいよ7日が明石志賀之助記念像の除幕式ということになりました。 蒲生神社も大いににぎわうことでしょう。

初代横綱に関する伝記は
 坪田 敦緒さんの 「相撲評論家之頁」より「続・初代横綱?明石」
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/yokok/yokoki03.html

宇都宮藩士山内主膳の一子で、強すぎて人を投げ殺し、江戸須磨浦弟子となり、連戦連勝して日下開山の位(日下開山は、敬称とでもいうような程度の呼称に過ぎず、地位ではない・筆者註)を得た。 258cm 184kg。京都で 227cmの大巨人たる仁王仁太夫(実在が怪しまれている超豪である。※1)と対決、明石は目よりも高く差し上げられたが、空中で一回転して飛び蹴りに仁王を倒す。明石はこの勝負で日下開山の称を得たともいう。

 学術的な話(明石は虚構の人物、日下開山は横綱とは違う)などは華麗にスルーすれば、宇都宮が相撲の聖地になる日も近い。

4月4日(水)

特集 グッとくる左翼:論座4月号

柄谷行人 選「「左翼になるための」ブックガイド」

【基礎的史料】
●世界史の教科書、年表、地図/世界史について基礎的な知識が不可欠。 受験参考書でもいい。

【全般的な理論】
●イマニュエル・ウォーラーステイン『入門・世界システム分析』(山下範久訳、藤原書店)/ウォーラーステイン自身による入門書。 個々の国家は「世界システム」の中から出てくるという、僕にわりと近い考え方で、これらは経済においても政治においても絶対に切り離せない要素。
●G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学講義』(長谷川宏役、岩波文庫)/マルクスはヘーゲル批判から出発している。 そのヘーゲル哲学への入門書として薦めたい。
●S・フロイト『精神分析入門』(高橋義孝ほか訳、新潮文庫)/フロイトを読んでいないと、左翼とはいえない。

 ちょっと中断。 私が憂国を感じつつ自分を左翼に位置づけるのは、こうしたブックガイドが首肯できるからです。 日本史は中学校レベルの知識で世界史好きだし、「世界システム」論なんて、学生時代大好きで基礎資料そっちのけで読んでいた記憶があります。 だから成績悪いのです。 フロイトは、まあ読んだような読まないような。 『夢判断』を読んだ気はしますが、まるきり記憶に残っていません。 『精神分析入門』はどうだったっけ。
 余談終わり。

【交換様式”A”に関する本】
●マルセル・モース『社会学と人類学』(有地亨ほか訳、弘文堂)/互酬交換に関する古典的名著。
●大塚久雄『共同体の基礎理論』(岩波現代文庫)/ウェーバーとマルクスの理論をまとめているので、入門によい。

【交換様式”B”に関する本】
●マックス・ウェーバー「支配の諸類型」(『経済と社会』第1部3・4章所収、世良晃志郎訳、創文社)/特に官僚制やカリスマの考察が大切。
●カール・シュミット『政治的なものの概念』(田中浩ほか訳、未来社)/交換様式”B”=政治的なものの次元を見いだす。
●カール・ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』(湯浅赳男訳、新評論)/古代国家の原理は今も生きている。

【交換様式”C”に関する本】
●カール・マルクス『資本論』(向坂逸郎訳、岩波文庫)全巻を通読しないと意味がない。
カール・ポランニー『人間の経済』(全2巻、玉野井芳郎ほか訳、岩波モダンクラシックス)/近代市場経済の批判。
●玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房)/自然と人間の関係を物質交換としてみる視点から、資本主義経済を批判する。

【交換様式”X”に関する本】
●カント『啓蒙とは何か』(篠田英雄訳、岩波文庫)/三大批判につづく、第四批判といってもいい。
●プルードン「連合の原理」(アナキズム叢書『プルードンV』、江口幹訳、三一書房)/連合とは連邦を意味する。

 というかこれ、マルクス御大と柄谷先生の理論を押さえておくことが前提なのですね。 一応、交換様式に関して言えば、

A:氏族社会における経済。 損得が即時的あるいは短期的に目に見える互酬性。
B:古典古代やアジア専制主義における経済。 武力・権力・権威に基づく略取と再分配。
C:資本主義的経済。 商品交換が基準となる社会。
X:世界経済を統合する経済。
 ですすむという柄谷流マルクス的発展段階説。 ああ、そんなのあったねえ、という感じですがブックガイドは分類はともかく分かるラインナップです。

【”運動”に関する本】
●エリック・ホッファー『大衆運動』(高根正昭訳、紀伊國屋書店)/大衆運動への批判。 活動家こそが読むべき。

 柄谷先生はいまだマルクスにこだわり続けていらっしゃる様子で、その立ち位置は21世紀にこそ意味を持つようになることでしょう。 なぜかというと、社会主義国家の崩壊はそれによって資本主義のただしさを保証しないから。 そして、マルクス−レーニンの系譜以上に資本主義を根底から分析した理論は未だないから。 (柄谷先生も、マルクスには遙か遠く及びません。) ウェーバー先生は資本主義をその内面から基礎づけることに成功しました(註)が、資本主義という枠内に社会をおさめていく結果になったのではないでしょうか。

 資本主義が滅び人類が新たな「よりよい社会」に進むため、左翼はまだまだ負けられません!

註:『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は、資本主義の現実を分析と言うよりもあるべき方向を指し示し、そしてあるべき資本主義をつくる力を持っていたような気がしてなりません。 そういう意味でウェーバー先生は東洋的な意味の歴史家だったのではないでしょうか。

特集 グッとくる左翼:論座4月号

 なんというか、朝日新聞社らしい特集というか、こうしてぶっちゃけてしまうのは朝日らしくないというか。 薬師寺編集長というのは、本当に面白い記事を組みますね。

「『丸山眞男』をひっぱたきたい31歳フリーター。希望は、戦争。」への応答

 「『丸山眞男』をひっぱたきたい31歳フリーター。希望は、戦争。」、というのは『論座』1月号に掲載された赤木智弘さんの寄稿。 いわゆるヨブの人で、「深夜のシマネコ」愛読している(た)私は楽しく共感して読みました。(註)


註:わたしも「憂国日記」をカテゴリにしていた時期がありました。 しみじみ。
深夜のシマネコ
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/


それに対する左翼業界の反応。 「格差社会」だの「ロストジェネレーション」だのとラベリングして済ませていた人たちが、その当事者からの言葉に向き合えるかというとあんまりそうでもないようでちょっとがっかり。 赤木氏は再対応を3月中にまとめてしまうらしいです。 すると掲載は6月号でしょうか。

 私の興味ある論点だけに絞ると、ロストジェネレーションと呼ばれる世代、現在25〜35歳というのは就業率および婚姻や出産をせずに浮遊していると言われる。 しかしそうした世代が立ちゆかなくなり、あるいは社会のお荷物として疎んじられる時期が来ることは間違いない。 そのとき、「我々」捨てられた世代にできることは何か? 何かをすることができるのか、という話。
 まあ基本的にはなんにもできないので、ほかの世代とか政府とかに何とかしてくれ、ということになるわけでしょうけれども、すでに何とかしてもらえる可能性は低い。 とすれば、座して死を待つよりも、むしろほかの世代も巻き込んで滅びの美学を全うした方がよいのではないでしょうか。 年上世代の既得権や年下の可能性を、私たちのもつ「負の宿命」で清算してしまう、その最悪の方法は戦争への賛同で、ことによるとそれを辞さない。
 というのが赤木氏から私が感じた提言で、私はもちろん大賛成です。
 世界なんか、滅びてしまえ!

 6月号でしょうか。 楽しみですね。

論座4月号の感想

 あれ? もう5月号をゲットしてしまいました。 全然追いついていないじゃあ、ないですか。 じゃあ、また駆け足レビューします。

4月3日(火)

はやり言葉ともいえないスラング

4月3日付 毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070403k0000e070070000c.html

大きな声では言えないが…:「最上級」ソックだ!=牧太郎

 読者からお便りをいただく。お小言をいただくこともあるが「何時も楽しみにしています」と言われるとついうれしくなる。

 「独り者なので大きな声を出して読んでいます」と、しゃれたことをおっしゃる東京都町田市の「かほる」さんから鋭いご指摘を受けた。

 前々回「ドジの学校」で「新米クン」という表現を使ったが、正しくは「新前(シンマエ)」ではないか、と言われるのだ。その昔、丁稚(でっち)や小僧として商家に使われる若い人に新しい“前掛け”が支給された。つまり“新前かけ”……と丁寧に説明してくれた。

 「新前」は新参という意味である。一方、広辞苑には「新米(1)今年収穫した米(2)しんまえと同じ」とある。どうやら「新米」より「新前」の方が歴史的にも古く、より市民権を持っていたように思われる。が、愛用している「例解新国語辞典」(三省堂・1984年2月20日第2刷)には「新前」という言葉はない。「新米」の項に「(2)新しく仕事についたばかりで、まだなれていないこと。新参、新入り、新人。(2)は、からかったり、かろんじたりしていうことが多い」とある。

 「新前」が良いのか「新米」が良いのか。微妙なところである(新聞制作上のルール「毎日新聞用語集」では「新米社員」という表現を例示して「新米」を支持している)。できるだけ語源(=心)を大事にすべきだが、言葉が変遷するのも事実である。

 それより、僕が難儀しているのは「若者ことば」である。じべたリアン、3M、昭和……最近、聞いた言葉だが意味が分からない。国語力が“売り”の大修館書店の「みんなで国語辞典!」を見ると……「じべたリアン」は10〜20代の男女が駅のホームなど「地べた」に座り込み、雑談をするという迷惑な行い。あるある、あの礼儀知らず。「3M」はM(=マジで)M(=もう)M(=ムリ)。本当に疲れている時、使う。これも若者の悲しい実態があるから理解できるが……。

 問題なのは「昭和」である。その意味は「動きや言動が古い人」。何を言うか! でも高校生は平成生まれ。

 ソックだ! 

 エッ、意味が分からない? 失礼しました。「ソック」とはショックの最上級。衝撃が大きすぎてショックという言葉では言い表せない時に使う。

 はやり言葉は時代と共に消え去る運命、と思いたい。(専門編集委員)

毎日新聞 2007年4月3日 13時04分

 昭和生まれの私が言うのも口はばったいことですが、「ジベタリアン」は私が学生頃(平成1ケタ後半)にももう使われていました。 一世を風靡した漫画「オバタリアン」の影響でつくられた言葉だとばっかり思っていました。 「昭和」という語は侮蔑する主体が19歳以下であるということから、侮蔑ではなく反抗的な意味合いではないでしょうか。 平成に生まれ、平成を当然に生きてきた人にとって昭和の話をされても困るということでしょう。

 まあ平成に生まれたから平成しか知らないような低脳は、申し訳ないけど人を批判するよりもうちっと勉強した方がいいと思いますけれど。


 しかし、記者殿は「はやり言葉は時代と共に消え去る運命、と思いたい。」、などという叙情的表現、言葉のプロらしくないですね。 まず新米と新前。 もう新米でも通じるようになっているわけです。 しかしそれは、はやり言葉が消えるのとは意味がちがうと思います。 つまり前段と後段ではなしがバラバラ。

 若者ことばなどというくくりででたらめなスラングをとらえるのは、マスコミの力を意識していないのか、それとも分かってやっているのでしょうか。 本気でまねする人が出てきたらどうするつもりでしょう。 「新聞の埋め草を信じる人がいたなんて、ソック!」とかいうのでしょうか。

 ところで3Mという言葉を聞くとおっさんはMK5とかそういうのを思い出したり。 「ポケベル」とかいう言葉があった時代の話。

御名御璽

 憲法といえば前文や9条を取り上げるのが普通ですが、『上論』のことも忘れないでください。

 で、日本国憲法のすごいところは、天皇陛下の御名御璽をいただいた文書の中で

 樞密院の諮問および帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、

 とある部分が、「厳密にその手続きにしたがったわけではない」ということでしばしば日本国憲法不成立論を立てられてしまう、ということでしょう。

 ちなみに、文章にしてしまうと「御名御璽」となる部分はもちろん、「御名」ではなく「裕仁」、「御璽」ではなく「天皇御璽」となります。 御璽は御璽なのですね。 自分の捺すはんこに敬語が使われているというのは敬語の用法として正しいのか疑問。

 画像は『なぞって読む 日本国憲法』白夜書房2007 の付録から。 本当は「上論」部分はこのあと吉田茂以下に各大臣の署名が並ぶのですが、割愛。

4月2日(月)

科学音痴

3月29日付 『MORI LOG ACADEMY』より、「子供の疑問」
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/03/index.php

【理科】 子供の疑問

 大人の皆さんは、どれくらい答えられるだろう?
1)光とは何ですか?
2)熱とは何ですか?
3)力とは何ですか?
4)物体とは何ですか?
5)重さとは何ですか?
6)透明とは何ですか?
7)波とは何ですか?
8)味とは何ですか?
9)匂いとは何ですか?
10)命とは何ですか?
 よく、「まだ科学では解明されていないものがある」と表現されるが、上記のものは、すべて科学によって正体が解明されている。「自然の神秘」「生命の神秘」という言葉を使うのならば、そのまえに義務教育の範囲だけでも科学的知識を身につけるべきである。そうでないと、その人の人格が神秘になる。

 えええと、全然分かりません。 まいりました。 自分が文系であるから、というわけでもないのでしょうけれども、こうした疑問に答えるフォーマットが分からない。 どれも200文字くらいで説明できたりするのでしょうか?
 何となく分かったような気分でいましたが、言葉で説明できないと理解したことにはなりませんからねえ。 たとえば3)力とは何ですか?、にしても、物理の定義を知っている人はそれを答えるだけなのでしょうか。

Come to my house

 イギリス人英語講師を殺した男は人知れず山の中で死んでいるに違いありません。

 先週の小学生強姦のときと同じ結論。 男の部屋にのこのこ行ってはいけないという教訓です。

食育崩壊

 ついテレビを見てしまいます。 しかし報道番組というのはくだらないですな。 見るたび悪口を言ってしまうため、精神衛生上非常によろしくない。

 今日見たのはつめ放題スーパー。 冷凍マグロのブロックだの生鯖、お菓子などのつめ放題を企画したスーパーを宣伝。 つめ放題というのは食べ物を馬鹿にして、ものを買うと言うよりもゲームにしてしてしまっていると感じました。 パンのつめ放題と言うことであんパンをビニル袋にギュウギュウに詰め込んでいる女性がいたわけですが、それであんパンを10個も買って帰って、どうするつもりなのでしょう。 仮に私が高校生くらいだったとして、つぶれてあんこのはみ出たパンなんかを毎朝食べさせられたら、金属バットですね。 (推奨は家出。) 鯖にしても小さな袋に詰め込んで身が傷んでしまうわけですから、スーパーの側に「品質のよいものを提供しよう」という意思が稀薄であるといわざるを得ません。
 結局食べ物をダシにしてどれだけ詰め込めるかのゲームをしているわけか、と悲しい気持ちになりました。 それだったらVR(ヴァーチャル=リアリティ)というか仮想空間で遊んでいればいいので、なにも冷凍マグロやさいころステーキを使うことないのに。

 かつて、アメリカのTVで流行し日本でも頻繁に模倣されたパイ投げは、食べ物を粗末にすると批判されて姿を消しました。 コメディー番組の小道具などより、全国規模で行われているかもしれないこういうことのほうが問題が大きいと思うのは、私くらいなのでしょうか。

4月1日(日)

馬鹿

 wikiにもありますが、エイプリルフールはふつう、ユリウス暦からグレゴリ暦の切り替えの際に旧暦を守ろうとする人々が4月1日すなわち旧暦の新年に馬鹿騒ぎをしたことが起源とされています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AB

 しかしこれはどうでしょうね。 もしも旧暦を守りたいというのであれば粛々と旧正月の行事をこなせばよかったのではないでしょうか。 むしろ、「新暦を採用した人が4月1日の嘘正月を馬鹿にした」という説のほうが納得がいきます。 しかしそれだとシャルル9世がエイプリルフールに馬鹿騒ぎをした人を処刑した説明はつきませんね。

 新暦の採用というのは、暦を改訂したカトリック教会への忠誠と密接に結びついていたため、プロテスタント国家においては1〜2世紀遅れてしまい、オーソドクス(正教会)国家では20世紀にはいるまで採用されませんでした。 フランスのように新旧両派の抗争が激しかった国家においては新暦(旧教)なのか旧暦(新教)なのかということはまさに生死を分ける問題であったことの名残なので、エイプリルフールが16世紀という比較的新しい風習であるにもかかわらずその起源が曖昧としているのはある意味当然なのかもしれませんね。 などとお茶を濁して今日はおしまい。
 ついでに。 シャルル9世による新暦採用は1564年。 フランス国内を二分するユグノー戦争は1962年から98年。 サンバルテルミの虐殺は1972年。

整理の季節

 新年度に突入してしまいましたが、未だに旧年度の整理が終わりません。 今日も終わりませんでした。 今日終わる予定だったのに。