ビッグデータ関連では非常によくまとまった一冊。とりあえずこれ読んでおけばOKでしょう。
因果関係から相関関係へ
特に面白いのは、「結論さえわかれば理由はいらない」という話。
ビッグデータの時代には、暮らし方から世界との付き合い方まで問われることになる。特に顕著なのは、相関関係が単純になる結果、社会が因果関係を求めなくなる点だ。「結論」さえわかれば、「理由」はいらないのである。
社会が因果関係を求めなくなる、というのは実に根本的なシフトのように思えます。いったいどういうことなのでしょうか。もう少し詳しく引用してみましょう。
世の中、因果関係で説明できないことは山ほどあるが、悲しいかな、人間というものは、原因がわからないとすっきりしない。
しかし因果関係に執着しないのが、ビッグデータの世界だ。重要なのは「理由」ではなく「結論」である。データ同士の間に何らかの相関関係が見つかれば新たなひらめきが生まれるのだ。
相関関係は、正確な「理由」を教えてくれないが、ある現象が見られるという「事実」に気づかせてくれる。基本的にはそれで十分なのだ。
例えば、膨大な電子カルテのデータから「オレンジジュースとアスピリンの組み合わせで癌が治る」ことが言えるなら、正確な理由はどうあれ、この組み合わせが癌に効くという事実の方がはるかに重要となる。
航空運賃の決まり方など詳しく知らなくても、航空券の買い時さえわかれば財布にやさしい。それで十分だ。
ビッグデータの世界では、ある現象の理由を何が何でも知る必要はない。データがすべてを物語っているからだ。
どうでしょう、これ、すごい面白い観点だと思います。
ビッグデータの時代においては、その名の通り、膨大なデータの分析が可能になります。これまで可視化されてこなかったデータがすべて利用可能になり、そこからは「今まで見えなかった相関関係」が見えるようになります。
たとえばJawboneのようなウェアラブルガジェットを通して、人々が身体に関する情報(脈拍、血圧、食事…)を収集するようになれば、そこからは新たな相関関係が見いだせるはずです。たとえば「渋谷に住む20代は摂取カロリーが平均の25%高い」「世田谷区に住む60代は血圧が低い」「鹿児島の男性は脈拍が平均より5%早い」などなど…。それこそ時代が進んでくれば、書中にあるように「オレンジジュースとアスピリンの組み合わせで癌が治る」みたいな話も出てくるはずです。
本書が興味深いのは、ぼくらがこの相関関係の「理由」を重要視しなくなる、と主張している点です。
ぼくらは「理由を知りたい」という強い欲求を持っています。「渋谷に住む20代は摂取カロリーが平均の25%高い」とデータが指し示したとすると、真っ先にぼくらは「なんで?」と思い、「ファーストフードをよく食べるからかな?睡眠が短いのかな?」と、理由を推定します。
ビッグデータの時代においては、この自然な欲求が抑制され、ぼくらが「データがそう指し示しているんだから、理由はひとまずどうでもいい」と思えるようになる、と本書は指摘しているのです。これは大きな価値観のシフトです。今後50年くらいのスパンで見れば、確かにそうなっていくのかもしれません。
特に顕著なのは、相関関係が単純になる結果、社会が因果関係を求めなくなる点だ。
著者が指摘しているように、現実的には、「世の中、因果関係で説明できないことは山ほどある」のです。ビッグデータの時代は、そういう「説明できないこと」がどんどん露わになっていく時代ともいえるのでしょう。
それは、データが人間の知性・認識の限界を凌駕し、詩的に言えば「新たな神」になる時代といってもいいかもしれません。
極論を述べて考えてみましょう。
たとえばみなさんが「あなたは末期がんで、余命一ヶ月です」と宣告されたとします。
そのとき、みなさんは「理由」、すなわち「因果関係」を模索します。「食事が悪かったのか」「放射能の影響か」「神が与えた罰なのか」「遺伝子の影響なのか」…。しかし、あなたが末期がんになった「わかりやすい理由」など、いくら考えてもわからないでしょう(癌の種類にもよるでしょうけれど)。
ビッグデータの時代においては、無数のデータが「あなたが癌になったこと」についての「相関関係」を導き出します。たとえば「50代男性で、渋谷区に住んでおり、システムエンジニアをしていた人は40%の確率で癌になる」という相関関係が出てくるかもしれません。
「社会が因果関係を求めなくなる」とすれば、みなさんはここで「自分が癌になったわかりやすい理由」を模索するのをやめ、データがもたらす「ご宣託」に納得する、ということです。「あぁ、データによればそういうことなのか。じゃあ自分が癌になるのも仕方ない…死を受け入れよう」と。データがまさに、新しい神になる時代です。
というのは…ちょっと極論すぎますが、ビッグデータの時代というのは、このように自分の運命がデータによって導き出され、それに従うという時代にもなりえるのです。
ビッグデータ予測の時代は、自由あふれる手付かずの未来を認めない。まっさらキャンパスどころか、実はすでに未来の下絵がうっすらと描かれているのである。
しかも、特別なテクノロジーを持った人間だけにその下絵が見えるのである。人間が運命をみずから形作ることはできないのか。確率によって可能性は命を絶たれるのだ。
あぁ、なんて恐ろしい未来なのでしょう。…しかし、第十章287ページで出している著者の結論は、人間の力を信じたものとなっています。ぼくも同感。どんな結論になっているかは、ぜひ書中でご確認くださいませ。この論理の流れは、実にエキサイティングですよ。
本書はありがちな短期的な視座の解説本ではなく、50年、100年先の未来を描き出そうとしている意欲作です。語弊を承知で表現すると、SF小説的なビジネス書。ぜひぜひ時間を取って読んでみてください。ぼくもゆっくり再読します。