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今一番、こころに引っかかっている言葉とは「天才とは」と言う言葉である。
天から与えられた才能?
何の才能を与えられたの?
それが問題なのである。
人にはそれぞれの特技を持っているものである。
計算の早い人、物事を良く知っている人、記憶力の良い人
更には歌を唄わせたら右に出る人がいないくらい上手い人
絵を描かせたら、これまた独自の感性と色彩を持ち合わせている人
確かに十人十色である。少しくらい人と違った特技を持っているからといって天才とは言えない。また、昔から桜梅桃李(おうばいとうり)と言う言葉もある。
桜は桜であって、決して桃にはなれないというような意味で使用することがある。
自分は自分であって貴方にはなれないと同時に、君も僕にはなれない。と言う意味であろう。
ところで僕はいつも
「天才とは、万人の知るところを知る人のことを天才とは言うなり」
と思っている一人である。
本来、みな万人が知っている「道理・常識」を知ってる人を天才とはいうなりである。
その意味するところは、仏法用語からくる「普賢(ふげん)」という言葉に集約されるのではなすかと思っている。
普賢菩薩とか文殊菩薩は、お釈迦さんが亡くなった後、どのようにして経文を保ったらよいかを問うた人々である。
一般に文殊は「智徳」をあらわし、それに対して、普賢は「理徳」をあらわすとされていると言われている。つまり智徳とは英知に優れている人に対し、理徳とは理論的に優れている人のことをいうのである。
(みなさんのお友達のなかにも、この二つを兼ね備えている友が二人いるといいですね(笑い))
何事においても中学生にも分るように日常の平明な言葉を使用して物事の道理を理論的に組み立てて教えてやれる人を理徳といった訳である。
頭が先か、行動が先か、そりゃあ頭よりは行動の方が優れていることは言わずと知れたものである。
幾ら素晴らしい考えを持っていたとしても、実践しなければただの絵に描いた餅である。行動こそが本文であり、行動することで自分の特技も自然と分ってくるのである。
自分自身の得意技は努力だけでは引き出すことも出来ないこともある。例えば努力さすれば、あの美しい声が出せるのか?と言うと出せないのである。プロの歌手は人々には出せない声を生まれながら持ち合わせて生まれて、さらに努力をしているから、一般人がいくら努力したからと言って追いつけるものでもない。ですからプロ歌手の皆さんは自身の得意技に驕れることなく、謙虚に素直な気持ちで舞台に立って下さいね。(幕のそでで応援していますよ)
それはともかく、普賢とは「あまねく、かしこい」人のことである。これは現在で言えば「哲学を有している」とも言えよう。哲学とはあらゆる階層の人々に分かりやすく比喩(ひゆ)を持ちえて語れる人のことである。
聖徳太子は百人の人の意見を同時に聞いたというのは、比喩を巧みに持ちえて誰もが分るように語ったに過ぎないのである。別に何も不思議でも何でも無いことである。
ですから、質問する人も、今、大衆が民衆が一番知りたがってるのは何か?とその心を汲み取り質問するのが常識とされていたし、現在も記者が質問するのもそれである。
彼のお釈迦さんが教えを唱えたとき、地球上の三分の一の人が教えを聞き、後の半分の人はその教えを人ずてに聞き、残りの半分の人は仏法の何たるかも全然知ることが無かったと言われていますが、果たして地球上の三分の一もの人を何処に集めたのでしょう?トイレは食料はどうしたのでしょう?そんなことは不可能です。不可能だから嘘か?と言うとそうとは言えないのです。
もし、仮にその教えを天空に書いたとしたら、どうでしょう・・・・・
そうすれば、人々を一ヶ所に集める必要もトイレの心配もしないです済むことです。これも一つの比喩なのです。
「天空にものを書く」とは現代的にいえばPCのことです。
つづく
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