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10日 鶴太郎さんの個展と春の院展を見てきました

 池部西武で鶴太郎さんの個展が開催されていますので行ってきました。知り合った当初から考えると、作品も技法も素晴らしく、まるで別人のように思いました。元々絵の才能はありましたからね・・・・・
 
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 知り合った当初の片岡鶴太郎さんです。「この人 才能があるなあ」これが僕の最初に受けた感想です。でも、クレヨンや水彩絵具では、紙も色も変色してしまうから、画材や技法を覚えたら良いのになあ・・・・
 と思ったものが最初の感想でした。写真は当然、僕が撮ったものですよ(下手だけど)
 
続いて、日本橋の三越本店に日本美術院展覧会(院展)を見に行ってきました。
 
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日曜日にもかかわらず、案外人通りは少なく感じました。
 
 院展は松尾敏男、那波多目功一、清水達三といった巨匠の作品を見るのも楽しみの一つでもあるのです。
 中でも那波多目先生の作品「驟雨」(しゅうう)は大変、見応えのある作品と思いました。那波多目先生今までとは違った、まったく新しい境地を切り開かれた作品だと思いました。流石ですね。
玄人受けする作品だと僕は思います。それに、ある作家の作品が目に止まりました。その作品は下記のものです。
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一見、〝疱疹〟状態の女性と縄は見ようによっては、セクシーにもエロチックにも見えますが、僕はこの作品を見てある巨匠の言った言葉を思い浮かべてしまいました。
 
「作家と言うものは、両手両足を縛られて水の中をアップ、アップしながら泳ぐのと等しい」と・・・・
 
 この「疱疹状態」にも似た、やるせない気持ちと那波多目先生の作品とが二重写しになってきて致し方ありませんでした。
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那波多目先生は絵の意図として、「鯉が体をくねらせ、反転するとそこに大小様々な泡が生まれ消えてゆく、水面に咲いた華のように、そのときめきに魅力を感じ描いたものです。折からの雨も又、そこに風情を添えました」と語っているが、人も動けば必ず波風が立つのは当然。それをどう自分として捉えるかが問題なのです。
 船が前に進もうとすれば波が立つ。飛行機が大空高く舞え上がろうすれば風が起こる。その風や波を自身の成長の糧としてどう捉えるかが問題なのであろう。自分では良かれと思ってやったことでも、逆効果になることも人生にはあるものである。それが当事者ではなく、自分の先輩だったり後輩だったりするときもあるかも知れません。その時、自分として、如何に相手を守り、足らないところは補い、支えて行くか。そんな優しさを積み重ねてきた那波多目先生ならではの美の捉え方のように僕の目には写りました。流石というより言葉か浮かびません。
 この絵は、個人が所蔵するような作品ではありませんね。美術館に所蔵それてしかるべき作品であることだけは事実のようです。
  
 絵の素晴らしさは、絵を通して心の会話が出来ることが、何と言っても良いところです。
 
 尚、同じく院展同人の西田俊英先生のギャラリートークは大変素晴らしいもので、感動いたしました。
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息子のゲーム依存症

 いやは、まったく大変なことが起こりました。何と息子がゲーム依存症になってしまいました。
僕の夜型生活と子供をかまってやれなくて、子供のリズムを狂わせたのかも・・・・
 息子のことを最優先として考えねば・・・・・・
そこで、二日間も学校を朝起きれなくて休んでしまいました。ゲームより面白いことを息子に感じてもらおうと、カメラ片手に「蔵の町・川越」に車で行って来ました。
 
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江戸時代にタイムスリップした雰囲気の漂う川越
 
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前を歩いているの吾が息子。息子は人に自分が見られることが大の苦手。前を見て歩けば良いのに、何時も目先しか見て歩かない。全く、困ったもんだ!一眼レフのカメラもあるのにいつも、インスタントと風のデジカメ(ドデッ)
 
 
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まるで映画セットみたい面白い
 
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小奇麗な喫茶店を見つけましたので入ったら、天皇陛下も行啓されたこともあるとか。息子そんなことには全く関心なし。後ろに掛かっている陛下のスナップ写真見ようともしないご様子。
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 さてと、帰ろうとしたときで、事件が起こってしまいました。
 無い、無い、どこを探しても無い。駐車場が無いのです。僕の駐車した場所は何処?
八百屋のご主人からお上さんとそこに居合わせたお店のお客さんまで「どんな場所でした?駐車場は?」
 「こんな風な場所でした」「そっちの道は駐車場はないなあ?」「いや、そちらの方は、そんな広い道はないなあ?。やっぱ、最初に亀屋のある場所まで戻って考えるしかありませんね」「そうします」みなさん、吾がことのよう心配してくれて、本当に人の心に感動してしまいました。
その時、息子「おとうさん、さっきこの道で左に曲がったんだよ」「えいい。この道、真っ直ぐ歩いてきたんじゃあないの?」「いや、だって電話ボックスがあるもん。ここで、おとうさん、人に道を聞いたじゃん」「そだった?おとうさん覚えてない」(そうか、ここで左にまがらなきゃあいけなかったのか)そんなことで、息子の助言が無かったらまだ帰ってこれませんでしたでしょう・・・・・・・
 
 
 

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巨匠のウェット

 
巨匠らのウェットに富んだ話の方が面白いかも知れませんね。
三巨匠の一人といわれている日本画家の(故)川合玉堂についてのジョーク。川合玉堂は横山大観、竹内栖鳳につづいて有名なひとである。日本に初めて文化勲章が制定されたとき、いの一番に名前が上がったのは横山大観である。それを聞いた一人が「大観に文化勲章を上げるなら、西の竹内栖鳳にも上げなきゃあおかしいでしょう」と言う。それを聞きつけたもう一人が「竹内に文化勲章をあげるなら、青梅在住の川合玉堂にも文化勲章を差し上げなければ、平等とは言えない」と。
 政府も「幾らなんでも日本画から三人も同時に差し上げるわけにはいきませんよ」となる。当然と言えば当然のことである。とうとう最後まで話はもつれ、結論として横山大観と竹内栖鳳に最初に文化勲章を授与することになった。それも異例中の異例のことである。同じ日本画から二名何ていうことは、後にも先にもないことである。そして、あくる年に川合玉堂が文化勲章に輝いたのである。
 今日はその川合玉堂について語ってみることにする。みなさんはご存知かどうかはしりませんが、川合玉堂の弟子が児玉希望で、その児玉希望の弟子が奥田元宋であることはご存知と思う。
 その奥田元宋夫人が人形作家で日展の現・副理事長を重責に付いているのが奥田小由女(おくだ・さゆめ)女史である。勿論、日本芸術院会員で文化功労者でもある。
 それはともかく、ある日、川合玉堂のアトリエに作家の吉川英治のことなら何でも知っている言う人が訪ねてきた。
 その日、たまさか二人で中央線に乗ることとなる。悪戯ポイ顔をして川合は吉川の権威者にた尋ねる。
 「ねい 君 中央沿線上で住んでいる人の中で一番有名な人は誰かね?」

 「そりゃあ 先生。やっぱり吉川英治でしょう」

 (そうか あいつには かなわないか・・・)

 「そうかね。ところで吉川英治の著書は何ていって『宮本武蔵』でしょう?」

 「そうです。先生よくご存知ですね」

 「ところで君。宮本武蔵は結婚はしていなかったんでしょう?」

 「そうです。一度も結婚はしていませんでした」

 「結婚はしていなくても、養子をもらって・・たしか伊織という子供はいたんだよね」

 「先生。何から何まで良くご存知で」

 「だって、あそこに書いてあるじゃないか」

 (えい?そんなことがどこに書いてあるのキョロ、キョロ)見ると駅名で

 「武蔵小金井」(武蔵子がねい)と書いてあったとか。

 流石の吉川英治の権威者も先生にはかなわない。何から何まで知っていながら、それを自慢せずジョークで人を笑わせる。さすがですね。

 でも、何といって、シャレは横山大観には叶わないと僕は思っています。
戦後、横山は戦犯で死刑とうわさされるほどの一方の人物だったんです。
 腹の座っている人のシャレやジョークは、やはり、どことなく人とは違いますね。
ジョークでもシャレでもその事を我々が読めるか、読めなすかです。
 そこが問題なんです。

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長崎平和祈念像と北村西望

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 今日は北村西望先生の長崎平和祈念像の後ろに書かれた先生の書をご紹介します。

 少し読みずらいかもしれませんが・・・・

 先生は明治の人ですからね。京都市立美術工芸学校の生徒の時には、日本画家の村上華岳(むらかみ・かがく)と榊原紫峰(さかきばら・しゆほう)は同級生でしたし、その時の教授が竹内栖鳳(たけうち・せいほう)でしたからね。われわれが普段書いている楷書体ではなく草書体で書くのが常でした。昔は草書(これ以上、崩しようが無い書き方のこと)を習い、それから行書、楷書と読みやすいようになったわけです。

 平和祈念像作者の言葉

 あの悪夢のような戦争
 身の毛もよだつ壮絶悲惨(そうぜつひさん)
 肉親を人の子を
 かえり見るさえ堪(た)え難(がた)い真情
 
 誰が平和を祈らずにいられよう
 茲(ここ)に全世界平和運動の先駆(せんく)として
 此(この)平和祈念像が誕生した
 
 山の如(ごと)き聖哲(せいてつ)それは逞(たくま)しい
 男性の健康美
 全長三十二尺余(しゃくあまり)

 右手は原爆を示し 左手は平和を
 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る 

 是(これ)人類を超越(ちょうえつ)した人間
 時に仏(ほとけ) 時に神(かみ)

 長崎始まって最大の英断と情熱
 今や人類最高の希望の象徴

 昭和三十年春日 北村西望


と、掲載している先生の書は、僕が先生に頼んで書いていただいたものです。西望先生のお弟子さんも、また、アトリエに出入りしていた画商さんもこの書は持っていないと思いますよ。
 平和祈念像の後ろに書かれているものと同じものを書いていただいたものです。それもわら半紙の原稿用紙にです。(笑い)

 余談ですが、先生の書は当時、十万円で売られていたんです。しかし、僕はお金儲けには余り関心がながったのです。そんな僕を先生は見抜かれて人一倍可愛がってくれたのかも知れません。

 皆さん御気付きですか?「全長三十二尺余」の「余り」という字のところを注目して下さい。
先生、この部分の書を間違えたのです。先生どうするのかなあ?と見ていたら、先生、和紙を口の舌で舐め、少し切り取って原稿用紙に張ったんです。(笑い)その上に「余」を書いたんですよ。
 もっと、詳しく言うと、先生が和紙を舌で濡らして切ろうとしているのを見かねて、橋本活道さんと言う書生が、先生から和紙を受け取りハサミで切ってくれたのです。ですから、上はガサガサしていて原稿用紙に溶け込んで自然体に仕上がっていますが、横と下の和紙はシャープに切れているでしょう?皆さんは先生の舌の唾液を使用して和紙を切ったほうが良いか?それともハサミで切った方が良い?と思いますか?
今にして思うと、僕は先生の舌の唾液で和紙を千切った方が自然と他の紙に溶け込むような気がするのですが・・・・(笑い)
西望先生が「余」を書き終ったときに橋本先生が「次の原稿用紙には『山の如き聖哲・・・」から書き直したらいかがでしょう」と余計なことを先生に言うものだから、先生の詩が重なって書くことになったのです。
 西望先生の好きに書かせれば良いのにね。山谷(やまや)さんと言う、西望先生の身の回りのお世話をするお手伝いがいましたが、この方は創価学会の方で何時も「橋本さんはいつも余計なことを(先生)言って」と怒っていました。僕はその山谷さんにも大変お世話になりました。(笑い)

 ともかく先生って小さなことに、くよくよするようなタイプではないのです。だって晩年は自分の名前でさい忘れてしまったのです。色紙にサインを入れるとき、天上を見上げてしばらく考え込んでいましたので、僕が「先生。西に望むです」と言うと、先生、大きな声で笑いながら「自分の名前を忘れるんだから(笑い)生きているのが不思議なんだから(笑い)」と言って満面に笑みを浮かべていたことが、本当に懐かしいです。

 そんな先生でしたので、いつもアトリエの中には「天地盛大気」(てんち・せいだい(の)気)がいつも流れていました。

 先生、りっぱな髭をつけて、見た目は怖そうな感じでしたが、会う人、会う人「先生、本当にお優しいんですね」と言う人ばかりでした。
 僕も、先生から言われて頼りない髭を付ける様になりました(笑い)

 掲載している作者近景の写真は先生が一番お気に入りだった写真で、撮影者はすでに亡くなりましたが中山章(なかやま・あきら)さんという映画ばたで活躍していた人でした。
 この写真にもエピソードがあるんです。先生が僕にこの写真を一枚手渡そうとしたとき、先生、ご自分の爪でしきりと目のところを擦って一言。
 「目は瞳の部分が光っていないとダメです」といって目の一部を白くして僕に渡してくれたんですよ。(笑い)

 
 

 

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 また8月9日がおとずれた!!

【訂正・校正は後で】

 8月9日のお昼近くには、ここ井の頭自然文化園の旧二号館ではお線香の煙と臭いが立ち込めていた。数多い美術館の中でも異例中の異例であろう。
 ここは、井の頭自然文化園内にある彫刻家・北村西望のアトリエである。
 書生で彫刻家でもあっる橋本活道氏が、今日は袈裟を着て二号館とアトリエを忙しそうに行ったり来たりしていたのである。
 普段は頭に手ぬぐいをまいて重い金づつと鑿を握っているのだが、それが何とも今日と言う日ばかりは僧侶の格好をしているのである。それもそのはずで橋本氏は千葉のお寺の僧侶でもある人である。若いときは映画端にいた人であるが、北村西望の弟子の佐藤助雄の紹介で西望氏のアトリエで働くことになった人である。
 その橋本氏は主だった人を集めて「長崎平和祈念像」を前に黙祷をかねた追善供養をするといった習わしになってるのである。

 全てが、整ったときに制作者である北村西望ご夫妻がアトリエから「長崎平和祈念像」の原型が展示されている二号館に来るのである。
 原爆く投下された時刻に橋本氏は手に持った鐘を打ち鳴らすのである。シーと静まりかえった二号館に鐘の音が響きくのである。
 普段は、冗談を言い笑いが耐えない西望のアトリエもこの日ばかりは、そんな浮いた人は一人としていなかった。みな眼差しは真剣であり、鎮痛な思いで合掌をするのであった。

 思えば北村西望氏が板橋区の滝野川のアトリエから、ここ井の頭公園に来たのはこの「長崎平和祈念像」を制作するためであった。
 当時、東京都知事であった東龍太郎氏(上野公園に西望が制作した東氏の胸像が設置されています)に「平和を祈るための作品を制作した。平和を祈るのだから、鎌倉の大仏よりも大きな作品を創りたいから、広い土地はないものか?」と相談したのである。
 すると、東氏は「あなたにふさわしい文化の付く井の頭自然文化園と言うところがありますから、東京都として、そこを貴方に提供しましょう。しかし、条件として、その平和に関する作品の原型と、他の作品の原型全てを東京都に寄贈していただけますか?」と、西望先生は東氏の条件を全て飲み込んだのです。
 しかし、一時期、東京都知事が美濃部氏になったとき「東京都民の公園に一人の芸術家住むことはおかしいのは?」といって、西望先生は言われたことがありましたが、西望先生は「ここに住むことは東君との約束だったのだから、いまさらそんな事を言われても困のます」といった事もありました。政治と言うものは政権が変ると今まで当たり前のことが当たり前でなくなることもあるから、僕は余り政治には期待していないのです。人間の関係の友情までも変なことにもなりかねないからです。
 それはともかく、銅像を制作にあたり西望先生はアトリエを建てるだけの費用しかなかったそうです。
 それに余り知られていないことですが、最初に長崎市から原爆の記念碑的な作品を造って欲しいと依頼された人は同じ長崎市出身の西望先生のお弟子さんの一人でもある富永直樹先生だったのです。
 富永氏は「それなら僕の師匠の北村西望先生の方がふさわしいと思いますよ」と言って、西望先生にお話をすると、西望先生は是非、その仕事はやりたいということになったのです。
 後に富永先生は「僕ならあんな大きな作品は造れなかったし、せいぜい記念碑的な作品になったであろうなあ〜やはり、西望先生だから出来たのでしょうね」と語っておられました。
 
 アトリエを建てるのに当たり、東京都の方から「素敵な松が二本ありますが、その松だけは切り倒さないで欲しい」と言われるのです。
 そのため普通より広いアトリエにするはずが狭くなってしまい、長崎平和祈念像の左手が壁にぶつかり銅像を一回転させることが出来ず、そのつど梯子を移動させて制作しなくてはならなかったそうです。
 しかし、その松も先生がご健在の時に枯れてしまい切り倒すことになりました。
この事は殆ど皆様はご存じないと思いましたので、思いつくままに書かせていただきました。
 制作秘話については、富永直樹先生も書いておられますので、その秘話は次回と言うことで・・・・・
 では では 読んでいただきありがとう御座いました。



 

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