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静岡から帰って直ぐ春の院展、日春展懇親会

ああ〜忙しい ごめん 詳しくプログ書いているじかんがありません
また、明日は知人の個展のため川越まで行かなくては・・・
 
 福田先生 土屋先生 竹内先生 ごめんなさいね お一人お一人素晴らしいお話でしたよ
テープ起こしも今だ満足に出来ないくらい多忙です
 
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京都に取材 帰り静岡見学

京都とは午後2時から午後7時まで永遠と話に花が咲き、そく トンボ返り。
途中、車の中で熟睡。
次の日は静岡の友と食事、お寿司の美味しい「魚がし鮨」に行き、駿河の東照宮を拝見。
長い階段を休み休み登る。
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浜名湖インターの白い樹木を写真にパチッリ
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若い人は元気が良いね おじん二人は足がガクガク・・・ってか
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 ここは静岡市内から車で約30分を海沿いを走ったところにあるのが久能山・東照宮です。その山の上が日本平で、日本平ホテルの珈琲、美味しいですよ。(笑い)
 そのホテルの庭から静岡の街を見下ろせば、気分はもうすっかり木拓(キムタク)主演の「華麗なる一族」気分・・・・
 実は華麗なる一族の父と子の対決の一シーンは日本平ホテルの庭園で撮影されたんですよね。
 まあ ともかく、日光東照宮が出来るまでは、この静岡県・久能山東照宮に事実、徳川家康のご廟がありました。徳川家康のお膝元、だから美人が多いんだ静岡は・・・・・・
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神道と仏教が混然一体 おもしろいね 日本は・・・・・
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この曲がりくねった階段 素晴らしい 足はガクガクだけど(笑い)
眼下に駿河湾とそこに見えるビニールハウスはイチゴ栽培のハウスです。日本で初めてイチゴの栽培が行われていたそうです
 それにしても地元の自家製品のイチゴジャム。甘すぎます。イチゴの酸味をいかしながら、なるべく砂糖やはちみつは控えめにした方が美味しいと思いますよ。
 もう一度 買いにくるようなジャムを作って下さいね(少し余計なことを書きました。ゴメン)
 
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 静岡の友・佐野正明さん ミュージュシャンでBOROさんのバックで演奏もしていましたし、自分で作詞・作曲も出来るエンターテナーです。現在はライブ。ハウスを開業。この男前で独身!(信じられ〜な〜い)
 どか、素敵な女性の方。彼を救ってやって下さい。その点は僕もよろしくです・・・・てっか!
 最後に彼が僕のカメラで撮った作品を載せましょう。
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タイトル 都会の孤独
 
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ライテングと写真
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お隣の知らないお二人をカシャ
 
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これからある展覧会

 
 第八十八回 洋画・彫刻 「白日会展覧会」3月22日から4月2日 六本木・国立新美術館にて
 
 3月24日、25日 京都取材
 
 日本画で日展登竜門でもある「日春展」3月28日から
 
 院展 日本橋三越 3月28日
 
 3月29日 銀座 ギャラリー向日葵 第24回 研書展
 
 3月30日 日本画 石原 進 日本画展 古希記念 埼玉県川越 呼友館
 
 3月31日 日本画 日展の作家たち展 京王よみうりランド 森の中のギャラリー・コンティーナ
 
 4月1日 日彫会新鋭選抜展 銀座・美術館ギヤラリー青羅
 
 4月2日 第四回福島県在京美術家協会展 八重洲北口 ギャラリー白百合
 
 4月4日 文化功労者・奥谷博展 HINOMOTO 日本橋高島屋
 
 4月19日 日彫展 上野・東京都美術館ギュラリーA.B.C 理事長・市村緑郎

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日本画家・加藤栄三の軌跡(市川・東山魁夷記念館にて開催)

 
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                                                     市川市東山魁夷記念館
 
 有り余る才能を残しなから・・・「栄三さん どうして、どうして、こうなるの・・・」
 栄三氏の訃報を聞いた高山辰雄は、取るものもとりあえず、タクシーを飛ばし葉山の栄三宅に駆け付けた時に、栄三の枕辺で言った言葉である。そう言って辰雄は泣き崩れたという。(その時、居合わせた人の証言です)
 
 その頃、小笠原に画家仲間たちと一緒に写生旅行を行っていた加藤栄三の弟・加藤東一に一本の電話が入った。「加藤さん 電話です」
 東一は女将の声に(ああ・・(兄は)とうとう やってしまったか・・) 受話器を取る前に東一はそう思ったという。
 実は東一は小笠原に行く前に床に臥す栄三を訪ねていたのである。
 
 「兄は結城素明や山口蓬春、福田平八郎、横山大観、小林古径らの先輩の画集を積み重ね。私に向って、これらの先輩の域に到達することは至難の業だと言った。私は反発するように「そんなことはない、もちろん表現は違うけど、資質においては兄さんは絶対遜色ない」と言った。兄はかすかに首を縦に振ったが、何か心に残るものがあった」と語っている。
 
 皆は写生旅行を取りやめて急きょ、帰路に付こうとするのだが、海は大荒れで船は出ず、足止めをくらったと言う。(川崎春彦氏の言葉)
 
 後に東一は「兄の不幸は、自分で自分の才能がわからなかったことです」ともらした。
 
 昭和四十七年五月二十四日。 有り余る才能を残しながら、庭の桜の下で加藤栄三氏が横死(おうし)してしまったのである。横死とは横しまな死と言う意味である。つまり、不慮の事故や自ら命を絶つといった死に方を指していった言葉である。
 
 「どんくりさんは書きやだから、何でも原稿にしようと思うかも知れないけど、私はお父様を桜の木から抱きかかえて降ろしたのよ。それがどれほど辛いものか当事者じゃあないと分からないのよ」
 
 (しかし、本当のことを書かないと、真実は永遠には伝わらないのです。今はどんなに辛くても、苦しくても書かねばならないのです。御嬢さん、わかっていただけませんか?)
 私はただ事実を事実として知らしめると言うより、取り残された他の画家たちと同じように、書くという行為によって浮かばれざる栄三の魂を「鎮魂」したかったのかも知れない。
 
 そして、二度とこのような悲劇を芸術界から出しては断じてならない。そのためなら自分の命などどうなってもかまわない。それが僕の永遠の決意となった。
 
 この 昭和四十七年という年に、日展に出品された作品は、本来、作家が描いている作品とはまったく違う内容のものが多かったのです。
 たとえば加藤栄三と日本美術学校の同級生でもある東山魁夷は「白馬の森」を描いている。その時に作った詩が「祈りの時が来た 静かに鳴らせ ツリガネソウ」と詠っているのです。東山魁夷の干支はちなみにサルなのです。同じ等級生の橋本明治の干支はタツなのですよ。
 
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                                             昭和47年 日展出品作 白馬の森
 
 また、栄三の弟である加藤東一は、恩師・山口蓬春が北海道の出身ということもあり、この年に北海道を旅し、描きかけていたモチーフが偶然にも、兄・栄三の干支である馬を描いていた。と言うよりも、描きかけていたという言葉が正しいかも知れませんが、ともかく北海道のサロマ地方に生息する農耕馬もモチーフから、題名が「能取(のとろ)の馬」を描き日展に出品しました。
 
 一生懸命、馬を励まそうと描くのだが、鬱に取りつかれた馬は茫然自失と立っている。
後に奥様が語っていました。「馬の連作を続ける東一に、ある先生が「東一くん。馬はもういいよ。馬は」と言う忠告も聞き入れず、取りつかれたように馬を描く姿を見て、いつかこの人も義理の兄と同じ運命をたどるのではないかと心配したこともありました」と・・・・・でも、この話には続きがあるんです。
「確かに家の主人の描く作品は暗く、苦しさが伝わってくるものが多いのですが、しかし、不思議と絵の前で倒れたことは一度もないんです。ちゃんと私、絵の前で立っているんですよね」と・・・・・
 東一の絵は、これ以後、すべてが兄・栄三に捧げる「鎮魂譜」となって展開して行くのです。
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                                       昭和47年 日展出品作  能取の馬
 
 画家・加藤栄三が行き詰った本当の理由は何か?みなさんは何だと思いますか?
 それもこれも、みな「日本芸術院会員」の運動と深く結びついているのです。ですから、日本芸術院を甘く見てはいけない。人の命をも時にはかかっている運動であるから・・・・・
 彫刻家の佐藤助雄先生が自殺したもの、これと同じであるからです。
 
 ちなみに加藤栄三が横死する前年の昭和四十六年に日本芸術院会員に推挙され、立候補に名前が上がった人が日本画の巨星・高山辰雄です。つまり先輩でもあり、日ごろから尊敬していた栄三先生と争わなくなってしまったのです。その時に描いた作品が下記の、断絶を意味する「絶」という作品です。みなさんはこの絵を見て何を感じますか?
 
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                                      昭和46年 日展出品作 絶
本作品は高山辰雄の個展でもなかなか見ることのできない高山辰雄の名画です。僕の記憶では、2004年に茨城近代美術館で大きな個展が館長・加藤卓雄先生の元で大々的に開催されたときに出展されただけで、後は見ていません】
 
 僕にはこんな声が聞こえて来てなりません。
 頭を抱えた女性。ああ、私は間違っていたのかしら、辰雄に偉くなって欲しい、そればかりを考えて来たような気がする。先輩でもあり、日ごろから尊敬していた栄三氏とよりによってなぜ日本芸術院会員で争わなくてはならないのか。そんなら一層、偉くならなくてもいいから、このまま辰雄に好きな絵を描かせてやればよかったのでは・・・・・と頭を抱える女性。
 一方、膝を抱え込む男は、僕だって好き好んで会員に立候補したわけではないんだよ。先輩諸氏が推薦して下さるというから立候補したに過ぎないんだから・・・・
 そう言って、手も足も出せなくなり、その場にうずくまった男性。地球は大きく、バックリと割れている。絶対絶命、友情の断絶・・・・・
まさに「絶」としか言えない。この苦しさ・・・・そして、描き終えた翌年に栄三氏の訃報となるのです。ですから「栄三さん どうして、どうして こうなるの・・・」と言った辰雄の言葉は大変重いものがあるのです
 
(今は、自分が偉くなるために先輩諸氏を利用したり、芸術院会員の器でもない人が、要領を使い「金玉でも洗いましょうか?」何ていって、会員にすり寄ってきたり、ともかく会員になりたがっている人が多すぎます。
日本芸術院第一部長・松尾敏男先生の言うように「これからは芸術院会員に成りたいと言う人を推薦するのではなく。是非、あなたには、我が国の芸術界のために日本芸術院会員になってもらいたいと言う人を推薦しなくてはなりません」と、まったく同感である。
 人に媚びへつらう人ほど、いざ芸術院会員になった途端、威張る人が多いような気がします。「人に頭を下げた分だけ、いざ会員になるとかま首を持ち上げてくんだよ」と言った人がいますが、これまた同感である)
 
 ともかく加藤栄三と橋本明治は親友ではありましたが日本芸術院会員選挙で争い、橋本明治は昭和四十六年に栄三を破って会員となり、次に栄三の前に立ちはだかった人が、誰からも一目置かれていた高山辰雄が会員に立候補してきたのです。
 下がるも地獄。進むも地獄。そんな時、あなたならどうします・・・・
 一目散と逃げますか?(笑い) それとも己(おのれ)の己心(こしん)の恐怖と戦いますか?
 
 私はあえて言いたい。「叱責を持って みなさんに奮起を促します」途中で立候補を断念する。そんな尻(けつ)の穴の小さい。肝っ玉の座っていない人に藝術をやる資格はありませんと・・・・・・
 ただ栄三先生は何事においても全力投球だったから、すべての力を使い果たしてしまったのでしょうね。本来ユーモアーがある方だったようですので、申し少し 軽く物事を捉えて欲しかったですね・・・・
 それが出来ないから芸術家なんでしょうけど・・・・
 
 余談ですが、これ以後、高山辰雄先生はしばらく絵が描けなくなるんです。先生は繊細でしたからね
そして、日展に書き上げた作品が「坐す人」です。「私はもう一度、ジックリと絵を描きたかった」と語っていました。
 高山先生はいわば、一種の哲学者でしたからね。高山先生とお話が出来る人は数少なかったと僕は思います。
 ある日、「どんぐりくん 高山先生て偉い人なんだってね。家の息子が『おとうさん 今日はどの芸術院会員の先生のところにあいさつに伺ったの?』と言うから、今日は高山辰雄先生のお宅に行ったんだよと言うと、息子が『いいなァ お父さんは、高山先生とお話ができて』と言うんだよ。高山先生とお話しできただけでも光栄なんだってね」と語っていたのは、後に日本芸術院会員になった彫刻家の(故)長江録弥先生です。長江先生も立派な先生でしたよ。
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                                               昭和47年 日展出品作 坐す人 
 そして辰雄は、昭和四十七年に日本芸術院会員の任命を受ける。一人の友の横死によって、もう一度、一から「何の為に絵を描くのか」「何のために自分は偉くならなくてならないのか」何の為にと言うことをいやが上にも考えざるを得なかったものと思われます。
 辰雄はさらに語っています。「岩を見つめていたら、岩の中に人間が見えたのです」と、つまり、人間とは高山辰雄自身であり、われわれ芸術にいそしむ者たちの継承でもあるわけです。
 「僕も頑張るから、君も頑張ってね」と見つめてくれているように僕の瞳には映るのですが・・・・・
 
「物をしっかりと捉えて描きなさいよ」「人間と言うものをしっかりと観察して書きなさいよ」
 
 辰雄の描く作品は常に作家の生き方を示唆してくれる作品を重視しているようである。
 
 ときたま、美辞麗句のただ綺麗事に出来上がった絵を描いている人を見受けますが、そんな人は、それ以上は伸びなくなってしまうおそれがありますから、常に高山辰雄がそうだったように、自分自身を追求することも忘れないで欲しいものです。
 少しくらい技法やテクニックを駆使して絵を変化させて、自分は変わったと錯覚する作家がいますが、変化しただけで、進化しているとは言えないと僕は思います。一流の画家は進化が手に取るように分かるものなのです。
 つまり、積み重ねの人生であり、帰納法というより演繹法の人生をいうのです。
                                                              (完)
 

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日本芸術院賞を簡単に言うと・・・

 
 日本芸術院賞を簡単に言うと、それは日本一優れていると思われる作品に対して贈られる賞です。
 
現・日本芸術院会員の推薦で第一部から第三部までの芸術界から立候補し、日本芸術院会員の投票数の内、過半数を獲得して初めて受賞することの出来る最高の賞です。
 第一部は美術部門で日本画、洋画、彫刻、工芸、書、建築の中から立候補することになります。
第一部の日本芸術院会員の定数は約50名いるわけですから、その過半数を獲得しなければなりません。
 作品については、最近の公募展もしくは、個展に出品された作品が選考対象となるのです。
 推薦者は決められた日にちまでに日本芸術院に推薦理由を記載して提出しなくてはなりません。もし仮にも、そこに虚偽が推薦理由に記載されていれば、当然、公文書偽造ということになりますので要注意が必要となるわけです。
 
 また、他人の作品をわが作品のように公の場で発表すると贋作とみなされ、選考から外される恐れもありますから、これも注意が必要となります。そればかりではなく、推薦者にも大変な迷惑を掛けることになりますので、虚偽行為については厳格を心がけてゆかなければなりません。
 そんなことから、日本芸術院賞が内定してから、約一週間に間に作品に対して、意義申し立てがある場合は日本芸術院に書面をもって申し上げることができるようになっているのです。
 その後、指定された日までに「意義申し立て」が無いことを確認して、初めて、内定から決定になるのです。
 その後、記者発表があり、初めて公式発表ということになるのです。かなりの時間を費やすこととなります。
それも当然と言うば当然なことです。日本一優れている作品に贈られる賞ですからね
 
 我が国、最大な美術公募団体である日展では、日本芸術院の規約には記載されておりませんが、この日本芸術院賞を受賞して、初めて日本芸術院会員に立候補する資格が得られるシステムになっているのです。
 嫌な話になりますが、日本芸術院会員の定数は限られていますから、会員の先生が死去されますと、補充として、その年の会合で、補充するかしないかを話し合いで決めることになっているのです。
 例えば、補充しても、選挙で票を過半数が満たない場合は、その椅子が補充されなくなり、それが何年も続けき、お隠れになった人が次から次へと重なれば、会員椅子が四名なり五名空くことになりますから、その年に五名空いているけど、今年は二名なり三名補充しようと話し合いがもたれるのです。
 
 もし仮にも日本芸術院賞を飛び越して、日本芸術院会員に立候補してきたとしたら、今まで、日本芸術院賞を受賞した意味も何もかも無くなってしまうからです。日本芸術院賞など必要ないということにもなりかねないのです。しかし、中には「あいさつ回り」を嫌って院賞にも会員にも立候補したがらない力ある諸先生もいることも事実ですので、例外も極たまにはあっても良いのかも知れませんね。
 
 
 

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