追悼「生誕100年杉岡華邨展」銀座松屋で開催
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昨年3月、九十八歳で亡くなられた現代かな書の象徴的存在であった杉岡華邨展が銀座松屋七階の特別展示会場で開催。
東京会館で行われたレセプションには日本芸術院会員の諸先生方をはじめ多数の来賓者でにぎわった。
新制作創立会員でもある(故)猪熊弦一郎(いのくま・げんいちろう)の壁に描かれている絵とライトとの共演も素敵ですね
パーティーも素敵ですけど、室内全体の雰囲気も楽しんではいかがでしょう・・・・
青山杉雨先生からお聞きしたことがあります。終戦間もなく文部省は学校教育から書道は外そうという機運があった時、豊道春海とか吉祥寺に住んでいた上条信山とか青山杉雨らは政治家に掛け合って「書道を教育の一環として認め学校教育の中に書道を入れて欲しいと」懇願するのだが、「いまさら」と言う考えもあって誰も聞いてくれないところを、耳を傾けて各議員に掛け合ってくれた人が奥野誠亮先生だったそうです。書道界にとって大恩人の人なんですよ。
奥野先生 いつまでも、いつまでもお元気でいて下さいね。僕はあなたがやってくれた書道界への功績、忘れませんよ・・・・・・
文部省に陳情に行った帰り、豊道は上条に「上条君、この陳情が通らない時は、一緒に、ここで腹を切ろう」といったとか、今なら冗談に受け止める人も多々いると思うが、豊道の気迫のこもった口調に「先生は本気に言っている」と受け止めた上条は「先生、それだけは勘弁して下さい。僕には妻や子もいますから」といったとか・・・・・
昔は腹の座った人がいたんですね。今日の日展を見るに、社団法人・日展を陰で支えている団体は書に於いていません。それなのに日本芸術院会員の定数が書道はたったの三名とは、まったく解(げ)せない話です。せめて後二人増やし、五名は必要であると言ってきました。しかし、いくら僕だけがお題目のように唱えても、書道の中からの住民パワーがおこらなければ、ただのこけおどしになってしまうのです。
大道団結などという言葉は古い。「異体同心ならば万事を行ずる」のです。その反対に「同体異心」なら何ごとにおいても成し遂げられないのです。体は別々でも心を一つにすれば、すべてにおいて叶わざるはないという意味です。その反対に体は同じでも、心が別々ならは叶うのも叶わなくなるというのです。
今こそ本気で書における定数を増員することを考えたいものです・・・・・・
杉岡先生と昨年、文化功労者になられた中路融人(なかじ・ゆうじん)との合作作品の前にて
手前が中路先生、作品を見つめている方は、中路先生の推薦で、日本芸術院会員になられた福田千惠(ふくだ・せんけい)先生です。
合作作品を前に、その時の苦労のいったんを説明する中路氏。
左から高木厚人氏 福田、中路、彫刻家(故)雨宮淳氏の夫人 次に中路氏の夫人
中央のお着物姿の方が杉岡華邨夫人の和子女史です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少し気になることは夫人の著書「一旦 辞するにあたり」の冒頭に「息を引き取る前の日に、私は必死で夫の耳元で『あなた あとは大丈夫ですよ。杉岡家のことも臨池会(りんちかい)も守っていきます。あなた安心して下さい』と言った。
とあるが、杉岡家のことも華邨美術館も私が守って行くからご安心下さいというのであれば理解できるが、「臨池会」は書道団体である。確かに夫である華邨先生が作った会であるが、夫人が書家であればこの言葉も理解できるが、書家でもない夫人が「臨池会」に口を挟んで、ズレが生じなければよいのだがと危惧(きぐ)もしている
臨池会のことは臨池会のメンバーで良く話し合って行けば良いのではなかろうか?
事実、赤江華城はこの会から退会したのか、退会させられたのは僕は知らないが、臨池会から抜けている。
もう少し言いましょうか?巡回展の際の大阪展が開催される3月20日に何があるか知っていますか?
杉岡先生も所属していた関西屈指の書道団体「日本書藝院」の審査がある日ですよ。そんな日に開催すれば来たい人も来れなくなりませんか?
あらかじめ、その事が分かっていれば、そのことを事前に夫人と主催者側の朝日新聞社に言って、日にちをずらすことが得策ではなかったのでは?朝日新聞は読売書法会とは一線をかくしているから、眼中に無かったのかも知れませんね。朝日二十人展のことしか考えていないのかも知れませんね。
こんなことは僕が口をはさむことではありませんね。
余計なお世話だってか(笑い) |