久保田俶通(くぼた・よしみち)展と称し、先生の今までの作品を展示し、“久保田芸術”の魅力を知ってもらうことが本展の意義である。
久保田先生は藤野天光に師事。おもに日展、日彫展で活躍されている作家です。
師匠の藤野天光は北村西望の二番弟子でもあった人です。ちなみに一番弟子が雨宮治郎、二番目が藤野天光、三番目が富永直樹。さらに昼間弘、分部順治、北村治禧、佐藤助雄といった人がいたわけです。
昔の彫刻家は塑像だけでなく木彫も制作していたのですね。いやいや、それは間違えですね。反対でした。木彫が最初でしたね。塑像は歴史から言えばつい最近のことでした。ラグーザーの時代ですかにね・・・・
思えば、西望先生が彫刻を志した切っ掛けとなったのは欄間を掘ったことが動機でしたし、円鍔勝三は印鑑を彫ったのが動機でしたね。澤田政広は絵描きになりたいというのが最初の動機でした。要するにデッサンも出来ないと彫刻家になるのは難しいのかも知れません。
能彫を得意とした佐藤助雄。仏像は澤田政広。生き彫刻の平櫛田中といた具合である。
久保田作品のおいては、特にレリーフや干支の作品においてはノミの切れ味は他の追随を許さぬものがあるような気がしました。さすが力のある方だなあと感心したしだいです。まあ、必ず日本芸術院賞を受賞して少しもおかしくない作家であるというのが僕個人的な意見です。
北村西望先生が健在の時は「西望会」と言うものがあった。西望先生の理解者の一人が後に芸術院初代院長の森鴎外である。一方、ライバルでもあった朝倉文夫の理解者は夏目漱石であったことは皆さんご存知でしたか?森は漢文を基調とした文豪です。要するに男らしい逞しさがあったのです。一方、夏目は口語文学で女性にも親しまれていました。早稲田大学構内にある大隈公の銅像は朝倉文夫の作です。それを見れば、西望先生が「朝倉は天才だよ」と言う言葉も僕には分かるような気が致します。
ともかく森鴎外が芸術院の院長のとき以来、西望先生は芸術院第一部部長を長年に渡って務めた方なんです。
しかし、僕が西望先生に可愛がられていたころには西望会はすでに無く「五月会」と言う名前に変わっていました。それというのも西望先生も大分お歳なので、富永直樹先生に会を引き継いでもらおうと、佐藤助雄などが音頭を取って、富永先生が五月の生誕であることから「五月会」としたのです。
一方、それまでの日本彫塑会が日本彫刻会に名前が変わった時代でもありましたので、西望先生は、僕に「そんなに名前などは変えなくてもいいのではないのか」と愚痴めいたことをこぼしていました。(笑い)
「でも、先生。ギリシャの彫塑を見に行こうとは言わんいでしょう?やっぱ、ギリシャの彫刻を見にいきませんか?というでしょう」時代の流れには逆らいません。致し方ありませんよ。というと西望先生は頷(うなず)かれた。
富永先生が実権を握ってたときには、雨宮治郎先生も藤野天光先生はすでにこの世にはいませんでした。後にこの中から日本芸術院会員となった人が、昼間弘。北村治禧であり、野々村一男。雨宮敬子。雨宮淳。蛭田二郎先生であったわけです。しかし、悲しいかな佐藤助雄先生は会員の運動中に精神に異常をきたし電車に飛び込んで横死してしまいました。
日本画界では加藤栄三がやはり横死してしまったのです。ですから院賞も会員も絶対に階段を踏み外してはならないのです。そのために僕は全精神をかけて作家を守りたいのです。あせってはならない。かといっておこたってもならない。と声を大にして叫んでいるのです・・・・・
まあ、そんなことは書かなくてもいいことですね。いつの日か本にまとめて書く時もあるかも知れませんが、その時は皆さんに読んでもらいますかね・・・・・・
作品は個人的に好きな作品を掲載したものです。なお、いろんな面も知ってもらいたいから、いろんなバリィーションを選び掲載してみました。
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