インターネット八王子
internet hachioji
八王子城跡

八王子城全景 歴史を紐解く
 天正18(1590)年6月23日、豊臣秀吉の小田原攻めの別働隊:前田利家(まえだとしいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、真田昌幸ら1万5千の軍勢の猛攻をうけて、わずか城兵約千人の八王子城は一日で落城した。北条氏の戦意を挫くため大殺戮戦が行われたのである。

 落城の報に際し、戦国の雄、北条早雲の孫にあたる城主北条氏照(うじてる)(1540〜90)は、精鋭を集めて小田原城へ参戦していたので床を叩いて号泣したという。無念さが分かろうというものである。関東に入部した徳川家康により廃城され、城跡を徳川幕府の管轄地「御林山」として、立入を厳しく禁止した。

  国の史跡に指定されて保存地区であるため敷地の拡張や建物の建て替えに規制があるため造形大学は移転した。この跡地の隣は入口広場で管理事務所がある。入口広場を左に行くと「居館地区」である。平成2(1990)年に八王子開市400年を記念して「居館地区」の発掘調査が行われた。曵橋(ひきはし)が復元され、御主殿(ごしゅでん)、その出入口の虎口(こぐち)や石垣、遊歩道が整備された。市の広報で整備されたのを知り、早速、家族で訪ねてみたが、訪れる人もなく静かであった。(八王子城の鳥瞰図は管理事務所の案内板を複写したもの)

風  評
 夜の八王子城跡は、岐阜の金華山と並ぶ日本有数の テレビ番組心霊スポットとして噂で有名になってしまった。事実、御主殿と『観音堂』間のアシダ曲輪跡には、数多くの観音像が祭ってあるが、今も草ぼうぼうの荒地で昼間でも言葉では言い表せない<<身の毛がよだつ不気味さ>>が漂っており、二度と足を踏み入れることはできないでいる。

観 光 客
 数は多くないが、平日でも昼間の八王子城跡へは、家族連れや散歩の人たちが、区内からも訪れている。今日も20年ぶりに来たという人がいたが、東京造形大学が移転して八王子城跡までのバスの便がなくなり戸惑っていた。夕方には、仕事を終えて登ってきた人、大学生のサークル、犬の散歩できた主婦が登ってきた。健康に良い憩いの場所である。たたりを恐れてか、ゴミが全く散らかっていないなど、今の日本ではめずらしい山である。

御主殿の滝
  八王子城配置図 御主殿前の城山川を30メートルも進むと滝につく。霊感の強い人には、戦に破れ、400年後の今も彷徨(さまよ)う霊が分かるのであろうか、真新しい慰霊碑があった。落城の際、城中の婦女子が滝の上で次々と自刃しその身を投じた「御主殿の滝」の上の林道には何台もの車が駐車していた。聞けばテレビ撮影とのこと。


見   所
   標高約470mの城山に東西約1500m、南北740m、周囲3800mに築かれていた八王子城跡の眺望はすばらしい。山を削り、谷を埋め、盛り土をして城を築いた古人(いにしえびと)の偉業に思いをはせて、昼間に八王子城跡まで登るのが、何よりである。特に仁徳天皇稜クラスの土木工事スケールで、本丸は15メートルの盛り土の上にあると知ったら、どうであろうか。バス停からの途中に『北条氏照墓』や『八王子資料館』がある。(古図は、八王子城跡展望台にある案内版を複写したもの。)


交通機関

  JR中央線高尾駅北口から、グリーンヒルタウン、宝生(ほうしょう)寺団地、恩方車庫、大久保行きのバスにのる。中央高速高架下にある二つ目のバス停霊園前で下車。進行方向に10メートルほど歩くと「八王子城跡」の信号機のある交差点にでる。交差点を左折し、火葬場のようなすえた臭いを気にしながら30分歩くと東京造形大学の跡地につく。車はここ入口広場に止めておくのがよい。(高尾駅の写真をクリックすると 多摩森林科学園の地:十々里(とどり)古戦場の説明がある。) (避難場所地図は八王子市広報2002年夏版を引用したもの)

所要時間
  高尾駅からバス停まで10分前後。バス停から徒歩1時間で頂上に到着する。入口広場からでは30分で頂上でお手ごろハイキングである。「詰の城」の大天主までは頂上から30分の近さなので、ぜひ、ここまで足を伸ばして歴史探訪を深めたい。

食   料
  バス停から頂上までは売店が、一切ない。バスに乗る前に高尾駅でお弁当、水筒の水、お菓子を食料を準備しておくことが必要である。高尾駅の南口には京王ストアー、ダイエー、北口にはコンビに2店舗、若干のみやげ物店がある。
  
                       (八王子城までの道路図は道路脇案内板を複写したもの)
服  装
  薮蚊(やぶか)が多いので、長袖のシャツは必須である。旧道を進むのであれば、雨水に深くえぐられて非常に狭く、滑りやすくなっているので、トレッキングシューズ、スニカー以上でないと正直いって危険。シートは持っていきたい。

道  順
 入口広場にある管理事務所を横切る『観音堂』経由の登山道もある。以前はあたり一面に木々が生い茂り、草茫々(ぼうぼう)で霊気が漂い気持ちが悪くて近寄れなかった。今は『観音堂』の周囲は若草山のように不自然に丸裸にされていて哀れでさえある。

 私は広場の右を道なりに進むこととする。10メートルほどで登山道にたどり着く。鳥居をくぐって暫く行くと、旧道と新道の分岐があるが、怪談がきらいなかたは旧道を古い石垣を脇に見ながら直登するのがよい。新道脇は梅林になっているので、早春であれば梅の下で弁当を開くのも悪くない。登山道を旧道にとれば、蜂蜜のようなとても心地よい匂いが漂っていて、快適にピッチをかせげる。
   

2 合 目
登山口から15分で2合目につく。再び、新道と旧道が交差している。ここには、ベンチが設置してあるので、呼吸を整えるのによい。なぜか、城跡には、武士の嫌いなはずの椿が数多く自生している。2月ころならば、椿の花がきれいである。新道の怪談を5分ほど進んで振り返ると景色のよい場所にでる。(写真は共立女子大学)このあたりが恩方方面への分道である。更に10分ほど急登すると九合目につく。ここからは、なだらかな尾根歩きである。
     

松木曲輪跡
 薄暗い木立の中を歩いていくと急に明るくなり驚かされる。ここが松木曲輪跡という見晴台である。運がよければ筑波山から丹沢の南まで大パノラマが望める。ここが、トレッキング者にとっての実質的な休憩地になっている。(左の写真をクリックすると65kBの動画)道標に高尾山・陣場山に至るとあるのには、驚いた。独峰でないのだ。
 

頂  上
見晴台の1分先が頂上である。頂上には屋根つきの休憩所があるので、雨宿りに利用できる。20段ほどの石段を登ると、眼前に落城時に切腹した城代・横地監物の霊が祀った八王子神社、天狗像と供養塔ある。なお、社殿の裏道を登ると本丸跡につくが、本丸跡には石盤と神社があるだけで林の中で眺望はない。神社から本丸跡までは、迷い道が多いので、夜間は決して興味本位に登らないこと。
   
 
頂上にはベンチが、沢山設置してあるので、お弁当を開くのもよいが、木立がさえぎるので景色は中くらいで、見晴台のほうがよい。(中央の写真をクリックすると赤外線写真)
  

神社の前を左に行くと道案内の標識があるが、この先に20メートルに水洗トイレが設置してある。なお、トイレへの近道は、石段を登らずに頂上標識を左に行く。
 

井戸曲輪
頂上を下り始めると、富士見台まで2時間の案内標識が目に入る。標識をやり過ごしながら、進むとすぐに井戸曲輪につく。竹ぼうきが立てかけてあった。圏央道の工事で井戸が枯れているため、沢の水をポンプアップしているようで飲まないほうがよい。(赤外線写真は井戸をクリック)
   

馬 場 道
しばらく下ると標識。標識を過ぎる所からは、なだらかな道になるが、うっそうと樹木が茂っており、悲話がそうさせるのであろうが、不気味でさえある。
  

駒 冷 場
樹木で太陽が遮られて薄暗い中を、邪気を振り払って15分ほど歩くと堀切になっている駒冷場に着く。城内は馬で移動していたようで、ひずめ野音が追っかけてきそうで背筋が寒くなる。ここの手作りの案内板には、北高尾縦走路6.5時間を要すとある。安易な登山を戒める先人の気遣いが伝わってくる。恩方、大久保の地名が判読できる。ここを右にとれば、恩方に下ることもできるのであろう。(1時間程度)ここからは標高550mの 「富士見台」まで1時間ほどである。ここで進路をアップダウンの山道を「詰の城」の大天主、富士見台方向にとる。
 



「詰の城」の大天主
山道の左は石垣の跡である。八王子城攻めでは使用されなかったため、投石用の石も多く残る場所である。秀吉の軍勢に圧倒された北条勢は、ここまで退却することもなく敗れたのであろうか。この所を上り詰めれば、目的地の大天主跡である。跡地は広場になっていて、八王子城跡では、唯一、城らしさを残す地である。真夜中には、戦いに敗れたことさえ知らない鎧(よろい)を付けた首のない武士たちが、集まってきて軍議を行なっていても不思議でない雰囲気がある。
 

帰  路
健脚者の楽しみは、この先をすすむと小下沢林道にでる(休憩小屋あり)。高尾山系で唯一の沢下りである。富士見台から裏高尾の荒井バス停に下るもよし、道を戻るのがよいが、現在、裏高尾コースは、圏央道の工事のため足元が良くない。初心者は、戻る勇気を持ちたい。ここで遭難したり、骨を折ったり、捻挫していては洒落(しゃれ)にならないので、日が落ちる前に麓(ふもと)まで下山したい。
 富士見台から見た夕日に照らされた富士山がみれる。但し、この時間にこの写真を撮ろうとすると、麓についた時には真っ暗になるので注意したい。

仮設登山道

--------------蛇滝口バス停方面に抜けるはトンネル(工事現場広場の最左端)は、工事関係者以外通行できない。登山者は、仮設金属製階段を30分山越えして一つ先の荒井バス停にでる。工事完成後は利用再開できると思われる。なお、
 1時間20分とあるが、仮設経由で2時間。仮設道路は薄暗い。荒井側からは、急登。

  (出口)


                                                   
                                                                    
                                             (八王子城居住区の配置図は管理事務所の案内板を複写、地図は道路わきの看板を複写したもの。)
登山時期
 高尾駅から徒歩でいくのであれば問題ないが、車やバスを利用するのであれば、春・秋・お盆の墓参りの時期は絶対に避けたい。近くには東京霊園を始め、多くの霊園や寺が多くて大々渋滞が発生するからである。

著作権のお断り
 案内板の写真は、車道の案内板、頂上に設置したレリーフ、入口広場のリーフ等を撮影したものである。

高尾山(海抜599.3メートル)
 登山口からは徒歩1時間30分程で、ケーブルカー高尾山駅から歩いても20分程で、山頂に達する。

リンク
 日本には城跡は数々あれど、八王子城ほどベールに包まれ、1日で落城したところはない。このため悲話が多く伝わっているのであろうか。なお、このコンテンツ作成にあたり、次のホームページを参考にさせていただきました。特に八王子城を守ったのは、地元でも千人とも二千人とも言われているが、高尾通信の作者の意見どおり兵千人とした。標高についても定かではないが、城に詳しい日本のお城・世界のお城の作者の意見どおりとした。滝の名前は石器・縄文・邪馬台国・古墳の作者の意見どおりとした。大天主にいたる道に転がるおびただしい数の石は石垣の残骸かと思っていたが城旅のHPで投石用と教えらた。城の規模についてもしかりで、史跡訪問を参考にした。・・・・・HPのご発展を祈念しつつ謝意。
日本のお城・世界のお城 歴史・一口話・見どころ・周辺案内
 
高尾通信 高尾通信
 歴史探訪:歴史に造詣の深い方が執筆されているのであろう。歴史的背景が、とても詳しく解説されているので、歴史の中に引きずり込まれてしまう。
 八王子城の歴史:八王子城落城:「また前田・上杉両軍は小田原を目指して八王子を通過の際、相模に向かって行軍する中に、八王子城で捕らえられた婦女子が、ぼろぼろに破れた着物を身に纏ったみすぼらしい姿のまま歩かせ、これが小田原城の開城を早めたとする研究もあるようです。いずれにせよ八王子城の陥落は小田原城に籠城していた北条軍の志気を失わせ、7月に開城することになりました。北条氏照も兄氏政ともに切腹しました。」は、悲話そのものである。
 八王子城伝説は、相当に怖いよ。
城旅の部屋へようこそ  城旅一覧:作者は説明会があると早速参加するなど、史実に基ずく記事がすばらしい。
中央電子(株)ホームページ  八王子散歩道:コンテンツの更新がよくされている。特に「交通」は、一読したい。八王子の由来も史実に基づいていて、安心して読める。
史跡訪問〜歴史の道程は遥かなり〜 東京都
歴史物語のCG絵本 時のふしあな
 落城悲話:ちょっと怖い。歴史上の人物の似顔絵があったり、八王子城立体図を拝見できるので必見。
石器・縄文・邪馬台国・古墳 舘盛 光弘さんの北条氏照の城跡を歩く
小田原合戦紀行紀 第1回八王子城
 このページで公開してる画像の最後の五枚などは見てない方も多いと思いますが、本当に八王子城はたくさんの道がある味わい深い城なので、隅から隅まで探索する事をお勧めします。一般のルートでは見られない部分がたくさんあります。
マー坊のカントリーウォーク家族ハイキングが楽しい
鈴木則章さんのHP 「市名の由来 延喜16年(916年)に華厳菩薩という名僧が,現在の元八王子3丁目の城山に庵を建て,牛頭(ごず)天王と八人の王子を祀り八王子権現と称したのが「八王子」という名の起こりであるという伝説があります。そして天正10年(1582)頃、滝山城主の北条氏照がこの城を移し、城を「八王子城」と呼んだのが、八王子という地名の由来であると言われています。」


学生情報:不妊症予防、性感染症に感染しないための緊急アピール
オナニー
性行為感染症(STD)
***************************************************************************


 戻る

更新日 2002.8.24