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Die, Teenagers Die! ないしは シュレーディンガーの猫

 髙村薫「マークスの山」を初めて読んだとき、ちょっとした衝撃を受けました。
 内容は勿論ですが、合田雄一郎が、三十三歳六ヶ月にして警視庁の警部補である、という設定に唸ってしまいまったのです。当時、丁度僕自身も似たような年齢でしたから、日本にいて一つの組織に留まっていれば、そういう道もありえたのだろうか?としばらくの間、愚にもつかぬ考えをめぐらせました。
 
 僕が手にした単行本は初版の何刷りだかであったと記憶しています。
 ハヤカワが裏表紙に“本邦初の本格警察小説”と惹句をつけたのもむべなるかな。この作品以降、推理小説、刑事ドラマ共に「七曲署捜査一係」というような表現が消え、「第三強行犯捜査班◯係」にとって代わられたように、圧倒的なディテールに満ちていました。
 しかもディテール倒れに終わらない、すさまじい筆力が綴る情念の重層は、少し前にペーパーバックで読んでいたジェイムズ・エルロイの「The Black Dahlia(ブラック・ダリア)」を思い起こさせました。それどころか、髙村薫もジェイムズ・エルロイを読んだ上で本作を執筆したのだろうと、僕は勝手に推測さえしたのですが、後に目を通した雑誌記事によれば、髙村女史はル・カレを読むぐらいで内外のサスペンス・推理小説に興味がないそうです。
 ただ作中でもしばし言及されるように、ドストエフスキーの影響を否定していません。ならば魔界のドストエフスキーを自称するエルロイの影を、「マークスの山」に見たのも強ち間違いではなかったのでしょう。

 小説は直木賞を受賞、映画にもなりましたが、製作発表会見の記事をハヤカワのミステリ・マガジン誌上で読み笑ってしまいました。合田を演ずることになった中井貴一が初対面である髙村薫女史の印象を訊かれ、「あんたなんか合田と違う、といわれそうで怖かったです。」と答えていたのです。

 その後、「照柿」「レディ・ジョーカー」を経て一旦、合田雄一郎の物語は終息します。「李歐」「晴子情歌」「新リア王」創作の後、「太陽を曳く馬」で再び合田が帰ってきたときには、作中の彼と同様、僕自身も既に四十代に達していました。
 世間一般の評価は「レディ・ジョーカー」に集まるようですし、一連の作品を通じて教養小説的に成長するかと思いきや、むしろ思索の迷宮に潜り込むばかりの合田雄一郎に共感するのも否定できません。でも、それ以上に僕が惹きつけられるのは「李歐」と「晴子情歌」二つの物語です。

 「晴子情歌」は当然のこと、高村作品にしては珍しく、五千本の桜が咲き乱れる中美しく朗々たる大団円を迎える「李歐」にしても、根底に流れるのは母と子、親子の物語であってその核には “守山工場”の章が横たわっています。
 母が仕事に出た後、就学前の一彰が早朝に母の作り置いた味噌汁とご飯を一人で食べ、母が毎朝つくっておいてくれるおむすびと卵焼きの弁当をもって遊びに行く、その先にある守山工場で幼少の一彰の目に映る工場の人々。特に守山耕三は明らかな“代理父”として成長後の一彰にも影を落とします。

 昔、僕の母が、弟の生まれる以前、まだ幼さなかった僕を連れて家をでようと考えていた、と洩らしたことがあります。ならば、六十年代初頭高度成長期の最中を背景に綴られる「李歐」の母子二人の生活は、僕自身のものであったかもしれず、しかしそうはならなかった現実世界において守山工場のごとき存在もまた、幼年期の僕にはあったのです。
 当時暮らしていた小さな借家から国道一号線をはさんだ向かいに、父の営む食堂が麺を仕入れていた小さな製麺所がありました。母に云わせると、幼少の僕はほとんどこの製麺所の子供みたいなものだったそうです。家内工業のような製麺所を切り盛りしていたおばさんには既に成人だった三人の子供がいて、もっぱら僕の世話をしてくれたのは長女の「モッちゃん」でした。長男の「キー坊」は尾崎紀世彦の同級生だったそうで、彼が茅ヶ崎に凱旋し、「また逢う日まで」を歌ったときには、その会場に連れて行ってもらいました。事実、僕の記憶に多く浮かぶのも住んでいた借家よりはむしろ、黒光する鉄製の製麺機や、製麺所から棟続きの母屋と庭、そして大きな池の様子なのです。
 もちろん、そこでは拳銃なんぞ密造されていませんでしたけれど。

 やがて一彰の母は小学校入学を前にした彼を置いて出奔してしまいますが、明らかに彼女の延長線上に「晴子情歌」の晴子はあります。それどころか、母性という意味では「マークスの山」の高木真知子にもその種子は既に播かれていました。
 でも何故母と子の物語なのか。しかも描かれる情動は、失礼ながら子供を持たぬ女性の筆になるものとは思えぬくらい濃密です。答えらしきものを僕がみつけたのは毎日新聞に連載されたインタビュー・談話記事の中でした。
 「黄金を抱いて飛べ」でデビューする以前、髙村女史は、ある事情から結局実らなかったものの、養子をもらい育てることを考えていたといいます。
 『親がいなくて学校にいけない子供を二人か三人引き取って、せめて学校ぐらいは出してあげる。わたくし実は子供が好きなんですよ。お裁縫も編み物もみんなやるし、料理するのも大好きなんです。女の子だったら、可愛いお洋服縫ってあげたりできます』
 この言葉は“母が自分のシャツやズボンを仕立てながら、「お前が女の子だったら、可愛い服をいっぱい作ってあげるのに」と言うのを思い出して胸中複雑になり、その夜は「僕も欲しい」と言って母を呆れさせ、困らせたのだった。”という小説の一節へとつながります。ならば二つの小説は、彼女自身にとってありえたかもしれない世界の切り取りを紡いでみたものなのではないのでしょうか。
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 CBSのドラマ、「The Mentalist」でそのチャームが爆発し、ようやくブレイクした感のあるサイモン・ベイカーですが、彼が十年まえに同じCBSで「The Guardian」の主役を与えられたときは、生硬な設定の役柄に馴染まぬように見えたまま、ドラマそのものが3シーズンで終了してしまいます。児童福祉に特化した法律事務所を舞台に、児童虐待やネグレクトなどを取り上げた意欲的な番組だっただけに残念でした。
 同じ時期、なぜかCBSはもう一つの、児童福祉を巡るドラマを制作していましたが、こちらの「Judging Amy」は家庭裁判所と児童福祉事務所を舞台としながらも、エイミー・ブレネマン演ずる家裁判事エイミーとその家族のエピソードを交え、柔らかなユーモアに包まれたストーリーでした。
 コネティカット州の最高裁判事であったブレネマンの実母の体験をエイミーのものとして活写しながら、ブレネマン自身の少女時代はエイミーの娘にポートレイトされています。一方、ドラマに現れるエイミーの母は児童福祉事務所に勤めるソーシャル・ワーカーとの設定です。演ずるタイン・デイリーの、「ダーティー・ハリー3」に出ていた若い頃とは別人のような肥大化ぶり(松坂慶子を優にしのぎます)に目を見張りますが、同じくらい巨大な良心と、巨大な自己主張を並べ抱えたまま、ブルトーザーのごとく突進するキャラクターを体現してもいました。

 エイミーの取り扱った審判の一つに、子供の養育費を巡って対立する元夫婦の話がありました。父親はクリーニング店の店主。親権を持つ母親は、父親が養育費の支払いをしないと、訴えます(父親役はアクの強い悪役・脇役俳優のグレッグ・ヘンリー、いかにも強欲な店主という感じですが、どこか愛嬌も隠れる目元が後の展開に生きてきます)。
 離婚の原因が母親の浮気にあり、どうせ養育費を渡したところで、彼女の浮気相手に流れてしまうのだろうと、父親は頑なに拒みます。しかも審理中、子供は、母親が昔つきあっていた別の浮気相手との間にできたものだったことまでが判明し、驚愕する父親は実子でもないのに養育費など払うか、とますます猛り狂います。そこでエイミーは当の子供を証人席に呼び、お父さんのどんなところが好き?と尋ねるのです。
 ミドル・ティーンらしき少年は、父親とプレイしたアイスホッケーの思い出を楽しそうに話し始めます。父親から教えてもらったホッケーのテクニック、特にスラップショットを上手く打つにはパックに唾をつけるといいんだけれど、そんなことを知っているのは僕のお父さんだけなんだ、と誇らしげに語ります。
 聴いていた父親は、目頭を押さえながらエイミーに向かって云います。「判事さん、あんた汚い手をつかうな・・・わかった、こいつは俺の子だ。養育費は払うよ。」

 出産を経験する母親と異なり、父親は子供との生物学的なつながりを意識することができません。DNAだろうが、血液型だろうが、そんなもの目に見えないし、触れもしません。結局、父親と子供をつなぐのは共にあった時間の記憶だけ、間に流れた時の重さだけが唯一のつながりでしょう。ヘルボーイとブルーム教授を親子たらしめるものだって同じです。
 ティーンエイジャーになった僕の息子は、やることなすこと、見ているといらいらさせられます。そもそも、ティーンエイジャーなどという鬱陶しい生き物は、全部まとめてシベリアかユーコンの僻地に隔離するよう、お偉い政治家の方々に法案を作ってもらいたいくらいなのですが、それでも、幼稚園児だった頃、手をひいてトイザラスへ歩いた道程や、小学校にあがりたての時分、スクールバスの降り場から一人でちゃんと帰ってこられるか心配で、窓越しにそっと覗いた日々の記憶が消えることはありません。
 だからもし、あなたの息子はあなたの実の子ではありません、などと「Judging Amy」や、はたまた「赤い運命」みたいなことになったとしても、僕の子供に対する心情は全く変わりようがない。まあ、僕は人間としても、親としてもダメダメですが、これだけは確信をもって云えます。もっとも、僕の家内を相手にしてくれる奇特な相手なんぞ、ゼッタイにいるわけないのですが。
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 出産を経ない養母と子の情愛とて同じもの。周五郎が「菊屋敷」で鮮やかに描きだしています。だからこそ、髙村薫が並行世界に分身として放った晴子が、血のつながりのない美奈子を全くのわが子として育て、その美奈子が母を想って弟の彰之を叱りつける手紙もまた必然なのです。
 『わたくし、そのころ、三十代の半ばです。里親、できましたよ。お勤めを定年まで二十年続ければ、この子たちを大学だしてあげられると考えていた。いまがチャンスよって』
 もし髙村薫女史が作家にならず里子を迎えていたのなら、きっと良いお母さんになっていただろう、と赤の他人の僕は勝手に想像しつつも、仮に女史がこの戯言を目にしたならば、中井貴一じゃないけれど、「あなたにわたくしのなにがわかるのですか」って怒られてしまうんだろうな。

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ソウルトラック

Author:ソウルトラック
ヘリスキーガイド。
ACMG(カナダ山岳ガイド協会)正山岳スキーガイド。
カナダ ウイスラー在住。

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