●迫る再開発、行き場なくす恐れ
人が擦れ違うのも困難な狭い道が迷路のように入り組む、韓国釜山市西区峨嵋洞(アミドン)地区。足元に目を落とすと、「国分治之墓」「西山家之墓」などと刻まれた日本人の墓石が、塀や家の基礎など、至る所に使われている。日本統治時代(1910-45年)、ここに住んでいた日本人の墓石だ。なぜ、墓石が建築資材になったのか。「日本人は気を悪くするだろうが、話を聞いてほしい」。西区庁(区役所)の金敬煥(キムギョンファン)文化観光課長から連絡を受け、峨嵋洞に向かった。
塀に埋め込まれた墓石、プロパンガスや植木鉢の台にされた墓石、階段の一部と化した墓石。中には欠けて路上に放置されたままのものもある。
日本統治時代、峨嵋洞には日本人の共同墓地 と火葬場があった。45年の終戦で日本人は引き揚げ、墓地や位牌(いはい)だけが残った。そこへやってきたのが朝鮮戦争(50-53年)前後に北部から避難してきた人たち。
日本統治時代、峨嵋洞には日本人の共同墓地と火葬場があった。45年の終戦で日本人は引き揚げ、墓地や位牌(いはい)だけが残った。そこへやってきたのが朝鮮戦争(50-53年)前後に北部から避難してきた人たち。
「当時の避難民はお金も建築資材も何もなかった。父たちは簡単に家を造る手段として墓地を利用した」。同地区の住民金昌福(キムチャンボク)さん(65)が申し訳なさそうに語り始めた。日本人の墓は墓石を囲む2、3メートル四方ほどの囲いがあるものが多く、囲いを柱にして屋根を張ると小さな家ができたというのだ。家族が暮らすには中心部の墓石が邪魔になるので取り払い、階段や塀などに使った。
「決して日本人が嫌いだからではない。多くの避難民が生きるため仕方なくやった」という。
墓石を基礎に使った家に住む申〓均(シンチョルギュン)さん(71)は毎年、日本の盆に当たる秋夕(チュソク)と正月、自分の先祖のほか、見知らぬ日本人のために食事や果物を供える。「この方に申し訳なく49年間、お供えを続けている」。墓石には「北村家之墓」と刻まれていた。
西区の峨嵋洞事務所長も務めた金課長によると、同地区には300基ほど墓があったらしい。現在、目で確認できるのは100基ほど。共同墓地の管理人が持っていたという全5巻の名簿も墓地移転で紛失し、全体像はつかめない。金課長は「峨嵋洞地区には再開発計画もあり、墓石がどうなるかわからないので何とか日本の子孫に知らせたい」と話している。
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墓石とは別に、位牌は他の墓地のものと合わせ全部で1528柱が、同市金井区の市立公園墓地に安置されている。戦前、日本統治下の朝鮮人男性と結婚した日本人女性の親睦(しんぼく)会「在韓日本婦人芙蓉(ふよう)会釜山本部」(国田房子会長)が慰霊碑を清掃し、在釜山日本総領事館とともに毎秋、慰霊祭も行っている。
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