日本の創価学会で「地球市民」としての「貢献的人生」がほとんど語られないのはなぜなのか

きょう2013年5月31日付けの2、3面は見開きで、SUA(アメリカ創価大学)卒業生の活躍が特集されている。

だれもがSUAにおいて培った学問へのあくなき探究と豊かな人間交流が、現在の舞台で発揮されていることが、生き生きと述べられていて、読んでいて大変すがすがしく、心洗われる思いがする。

本当に素晴らしい。

彼らの言葉の中に共通して出てくるものは、「地球市民」であり、「貢献的人生」だ。

事実、障がい者支援のNPOで活躍する6期生、アフリカで移民保護に奮闘する5期生など、彼らの卒業後の生き方は、まさに「地球市民」としての「貢献的人生」を貫いているといえよう。

このことを実現させる最大の要因は何か。

当たり前のことではあるが、彼らがその目的に向かって努力した結果であり、何より、その方向性に向け、彼らが常日頃から、対話を繰り広げていたからに違いない。

何のために、どうすれば、貢献的生き方ができるのか。

昼夜に分かたず、熱い議論、対話が交わされてきたのだ。

一方、私たち日本の創価学会はどうか。

「地球市民」としての「貢献的人生」の在り方がどれだけ語られているか。

残念ながら、私はそういう話がされた場面に遭遇した記憶がない。

「日本はアメリカでも大学でもない、だから、そういう話にならないのは当然だ」という声が聞こえる。

果たしてそうなのか。

私にはそうは思えない。

SUAは何のために作られたのか。

創価学会の理念と実践を世界へと広げるための教育機関として、創立されたものであることをだれも否定はしないだろう。

ならば、その原点である日本の創価学会において、「地球市民」としての「貢献的人生」が会員の間でほとんど語られないのはなぜなのか。

私には理解できない。

幹部から語られる言葉は、「選挙の勝利」であり、「目標完遂」への檄ばかりだ。

創価学会はいつから、特定の政党を勝利させることを至上目的とした団体へと変貌してしまったのだろう。

創価学会はいつから、自らの団体の利益と拡大のみに価値を置く団体へと変質してしまったのだろう。

今こそ、SGIに残る座談会の在り方、地球市民としての貢献的生き方を目指すという創価学会の本来の目的に立ち返る時なのではないだろうか。

一人でも多くの会員がそこに気がつき、お仕着せでない、自らの言葉で、貢献的人生の在り方を語っていくべきなのではないか。

師はそのことを黙って待っている、と私には思えてならない。

本音を語り合える小単位の座談、対話は学会の人間主義そのものである

「話をする際、話を聞く対象の人数が増えるに応じて、出せる本音の部分は小さくなっていく」という法則がある。

簡単に言えば、話す相手が少なければ少ないほどに本音が出しやすい、ということだ。

もちろん、相手によるのはもちろんだが……。

本音の対話(会話)は心を浄化してくれるし、何よりも楽しいと感じられるものだ。

逆に建前の話は人に退屈と苦痛すらもたらす。

池田SGI会長は、小単位の会合の重要性について以下のように語っている。

アメリカの名門タフツ大学の元宗教学部長で、仏教研究で著名なハワード・ハンター博士も、「5・3」を祝福し、こう語ってくださった。

「創価学会の大発展の理由の一つは、この運動が、人間の魂に訴えかける運動だからです。自身の人生、さらには、周囲の人々の人生を意味あるものにするという価値創造の運動が、人々の心にアピールするのです。
そのうえで、創価学会には、洗練された組織力があります。学会の思想を、会員に伝えていく体制が整っています。
さらに、小単位のグループに焦点をあて、それを発展させていくところにも学会の強さがあります」

明快な洞察である。

大切なのは、会員一人ひとりである。

小単位の集いである。

婦人部の少人数の会合をはじめ、座談会などの”草の根の語らい”こそ、時代の最先端を行く民衆運動なのである。(2005年5月7日付聖教新聞)

創価学会の普遍の原点は一人を大切にするための小単位の集いである。

つまりは座談であり、対話なのである。

本音を語り合える小単位の座談、対話が、学会の人間主義そのものであると言っていい。

しかし、その本音を尽くした座談や対話が、絶対的に不足していると感じるのは私だけだろうか。

本音を抑え込み、建前だけで積み上げられた組織ほど弱いものはない。

創価学会発展の原動力であった「人間の魂に訴えかける」ことができなくなった運動に陥っていると、わずかでも感じることがあれば、組織の硬直化を疑うべきだ。

一度、硬直化してしまった組織を立て直すことは、多くの組織が直面しているように、極めて難しい。

ただ、唯一可能な手段は、繰り返すが、本音が出せる小単位による座談のほかないのだ。

創価学会の原点に立ち返ることだ。

私たちには師弟関係のモデルを、進化、発展させていく試みが欠如している

2013年5月29日付け聖教新聞3面に掲載されたSUA卒業式におけるハービー・ハンコック氏の記念講演に深い感銘を受けた。

氏が「根源的な価値」として示した6つのポイントを記しておこう。

(1)自分自身に安心すること。

(2)既成のものを打破し、枠にとらわれない勇気を持て。

(3)勝つためには他人が負けなければならないという考え方は誤り。

(4)違う、新しい、普通でないことは面白い。

(5)不可能なことは可能にすることができると信じる。

(6)自分自身への探求が想像力のために不可欠。

そして、氏はこれらポイントを包含する重要な言葉として、以下のように語っている。

「師弟関係の共有のモデルの上に進化していく」

見事な洞察というほかない。

果たして、私たちはどこまで、氏の洞察力に匹敵しうるのだろうか。

常に師匠のおひざ元にいるというのに。

私が注目したいのは、氏が示した「進化」というキーワードだ。

私たちは、「師弟関係の共有のモデル」については、語られもし、あらゆる機関誌・紙で訴えられてきてもいる。

多くの学会員がこの精神を体得しているといっても過言ではない。

しかし、ハンコック氏が示した、このモデルを「進化」させていくということについては、だれも語ることはないし、訴えることもない。

私は、現在の創価学会の課題の一つをここに見ている。

つまり、師弟関係のモデルを、進化、発展させていく試みが欠如しているという課題だ。

私たちが教えられ、目指していることは、師匠の後を追うことである。

師匠がしてきたことを、そのまま実践すればいいという考え方が支配的だ。

しかし、時代も環境も変化していく中で、同じ実践をして、果たして望みうる成果が期待しうるのか。

そこで、ハンコック氏言うところの「根源的な価値」が生きてくる。

(2)既成のものを打破し、枠にとらわれない勇気を持て。

(4)違う、新しい、普通でないことは面白い。

という進化への試みが不可欠なのだ。

ハンコック氏の講演を何度も読み返し、その意味するところを徹して話し合うことから初めてはどうか。

このメッセージはSUA卒業生だけに与えられたものでは決してなかろう。

私たち一人ひとりに与えられたものととらえ、私にとっての「進化」のあるべき道を思索していくべきだろう。

 
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