★ウィーン発国連記者さんの正論〜橋下市長発言と「メディアの責任」
ヨーコの物語がアメリカの教科書に取り上げられている事を
知らせて下さったブログ、ウィーンの記者さんのブログの記事が素晴らしくまさに正論ですので、また勝手に転載させていただきます。
日本のジャーナリスト、マスコミはこの方を見習うべき。
ウィーン発 『コンフィデンシャル』
http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/52034130.html
〜ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。〜
橋下市長発言と「メディアの責任」
韓国紙・中央日報で日本への米軍の原爆投下は「神の懲罰だった」と主張するコラムを掲載した同紙論説委員は27日、「自分の本来の趣旨と異なり……」と説明し、関係者に謝罪表明する記事を載せた。一方、「従軍慰安婦」問題の発言で批判にさらされてきた橋下大阪市長は同日、東京都内の外国特派員協会で記者会見し、「日本は慰安婦の方々に謝罪とおわびをしなければならない。私の発言が慰安婦を容認していると受け取られたことは遺憾だ」と述べている。
韓国の論説委員も橋下市長も「本来伝えたかった趣旨と異なり、受け取られ、誤解された」と悔やんでいる。弁解でないとすれば、「誰が論説委員の記事と大阪市長の発言趣旨を誤解し、歪曲したのか」という問題が出てくる。
日韓両国の国民だろうか。結果的にはそのように受け取られているが、その誤解の発端となったのは両者の発言を掲載し、報道した日韓メディアだろう(中央日報紙の場合、論説委員の表現問題もある)。
ここでは橋下市長の「従軍慰安婦」問題の発言を再度、考えてみたい。当方が理解した範囲では、彼の発言内容は従軍慰安婦を容認していない。市長は戦時の兵士たちの哀れな現実を改めて説明しただけだ。それを「従軍慰安婦容認」と受け取り、報道したのはメディアだ。
メディア機関に従事するわれわれは、自戒と反省を常に忘れないようにしなければならない。例えば、性風俗を煽っていながら、性犯罪が発生する度に「許されない蛮行だ」と批判する。性風俗を煽った側のメディアの責任などは忘れさられている。そして、いかがわしい性情報に踊らされた人間に対して、「現代の性モラルは嘆かわしい」と解説する。嘆かわしいのはメディア側の倫理問題だ。
橋下市長は戦争時の人間の性問題を説明した。同市長が提示した「人間の性」について再考する解説記事を掲載したメディアはあっただろうか。メディアには宗教的側面が決定的に欠落している。発言を表面的に受け取り、その内容をトピック化することに専念する。換言すれば、話題となり、面白ければいいのだ。
橋下市長の発言は「なぜ、人は究極的な状況下(戦時)では自身の欲望に走り、他者(主に女性)を傷つけるのか」という有史来のテーマを提供している。その問題が解決されない限り、紛争は解決できないからだ。国連が世界の紛争を解決するのではない。われわれ1人1人の中に潜むこの問題を克服しない限り、世界の紛争は永遠に繰り返されるだろう。
メディアが人間の性問題を突っ込んで議論しないのは、メディア自身の性倫理が問われる危険が出てくるからだ。いかがわしい性情報を垂れ流している張本人だからだ。メディアは戦争時の兵士の性問題だけではなく、人間の中に潜む性の問題を掘り下げて分析し、報道しない。従軍慰安婦問題でも政治的側面だけ捉え、発言者を批判するだけだ。
橋下市長の発言は本来、人間の性問題を考える絶好の機会だった。それをメディアは橋下市長の発言を政治的側面からだけ報じ、韓国の批判と反発を恣意的に誘った。今回の件では、自省し、謙遜にならなければならないのは橋下市長ではなく、メディア側だ。
傷跡のない「悲劇の継承者たち」
「韓国とイスラエルの類似点の考察」の中で書いた内容の続編だ。読んで頂きたい。
「ホロコーストを自ら体験したユダヤ人がその後の人生で加害者に転身するケースは少ない。なぜならば、彼らは痛みや苦痛の意味を誰よりも知っているからだ。だから、自分が受けたように、他者を攻撃し、殴打して苦しめることはできない。一方、ホロコーストの悲劇を継承した多くのユダヤ人の場合、パレスチナ人に対して、同程度か、それ以上の弾圧を繰り返すことができる。パレスチナ人の3分の2がディアスポラの状況に生きていても意に介しない。彼らはホロコーストを身をもって体験していないからだ。単にホロコーストの恐ろしさ、加害者への憎悪を継承してきただけだ。彼らは痛みを継承していないから、相手の痛みを共有できない。繰り返すが、彼らが継承したのは憎悪と恨みだけだ。だから、彼らが加害者に転身したとしても驚きには値しない。その場合、新たな悲劇が生じる」
「韓国や中国では、旧日本軍兵士から迫害され、弾圧された人以上に、その悲劇を継承した人の憎悪のほうがより激しい場合が少なくない。彼らの総身には日本軍兵士から受けた殴打の傷跡はないが、体に傷跡をもつ犠牲者以上に憎悪に燃えている。あたかも、今、体から血が流れているように。注意しなければならないことは、悲劇の継承者の反日感情は体験の裏づけのないものが多いことだ。だから、ある日、彼らは同じような蛮行を繰り返すことができる。一方、体に傷を抱える犠牲者は加害者の謝罪をいつかは受け入れようとするものだ。なぜならば、恨み、憎悪を抱えたままでは自身が幸福になれないと悟るからだ。彼らは過去の悲しい束縛から解放されるために、加害者の謝罪を受け入れようとする。それと好対照は悲劇の継承者だ。彼らは加害者の謝罪を受け入れない。なぜならば、謝罪を受け入れれば、その瞬間、自身のアイデンティティが消滅する、といった懸念を感じるからだ。彼らの加害者への憎悪、恨みは体験や傷によって裏づけされていないから、時間の経過とその必要性からさまざまな形態に変容できる」
「体に痛みを抱える犠牲者は加害者の謝罪をいつか受け入れようとする」という論理は新鮮だった。謝罪を受け入れない限り、自身の悲劇は終わらないからだ。その一方、日本側の度重なる謝罪を拒否し続ける人々は同胞の悲劇の継承者に過ぎない、という説明も非常に説得力があった。
特に、韓国と中国両国で目撃される反日運動は犠牲者ではなく、その悲劇の継承者によって主導されている。「正しい歴史認識」という概念は犠牲者から出てきたものではなく、悲劇の継承者が考えだした政治的キャンペーンではないか。傷跡をもつ犠牲者が少なくなり、継承者の数が増えていけば、それだけ悲劇の内容も変容していく。
犠牲者に必要なものは、経済的補償だけではないだろう。傷が癒され、加害者の謝罪を受け入れようと決意するまでの静かな時間の進展ではないか。
人は相手を許さない限り、自身は永遠に救われない。憎悪を抱え続けていては人は幸せにはなれないからだ。一方、加害者側は犠牲者から許される以外に他の選択肢はない。その意味で、犠牲者と加害者は‘運命の共同体‘といえるわけだ。
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2013-05-30 01:50
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