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  • 逸身喜一郎『ラテン語のはなし』を読む
    [ 2011-11-20 11:24 ]
  • 大和國男『腐りかけたクラシック音楽界への警鐘』を読む
    [ 2011-11-17 11:22 ]
  • 同和利権受益者としての上原善広
    [ 2011-11-02 05:38 ]

2011年 11月 20日

逸身喜一郎『ラテン語のはなし』を読む

やはりラテン語文法の概説書だが、大西英文の本よりもこっちの方が話題が多岐にわたっていて面白い。一部引用する。

英語のsalaryの語源はラテン語のsalariumである。salariumという単語が<塩>という単語の派生語であることは、形態上、確実である。しかしだからといって「古代ローマでは兵士に給与として塩が与えられた」といったたぐいの、時に新聞などでお目にかかる訳知り顔の説明は困ったことである。

salariumの意味は、残された古典ラテン語の用例から判断する限り、「文官・武官をとわず、ある程度の地位を得ている(したがって兵卒ではない)者に対して、定期的に支払われる金銭」である。なぜその金銭が「塩」に由来する名称を得たのかは、もはや文献的・歴史的に確定できない。実際に兵卒に塩が配られた事例を、私は読んだことがない。

もちろんsalariumの語源が「塩」にあることは否定しようがないから、文献が残る以前の昔に、塩の現物支給があったかもしれないが、しかし想像はあくまで想像でしかない。むしろそうではなくて、「塩代」とでも婉曲にいったかもしれないのである。いずれにせよ文献上、「給料」をもらえたのは兵卒なんかではない。語源は歴史的事実を必ずしも明らかにはしない、と肝に銘じておいたほうがよい。(p.73-74)

coitus<性交>という単語はやや学問的(医学的)おもむきのニュアンスをこめて使われる(私は日本語でも昔、こういう字だけで興奮した年頃に、どこかで「コイツス」という単語を見た記憶がある)。これを語源分析すればco-と-itusになる。もしこれに「一緒に」と「行くこと」と説明をすれば、妙な連想をよぶ。しかしcoitusはラテン語そのものの段階で、もともと<出会い>を意味する単語であった。それがラテン語でも遠まわしに<男女の出会い>さらには<性交>を意味するようになったのである。ラテン語の婉曲用法が、ますます婉曲にラテン語そのままに近代語に導入された、というのが歴史的経過である。(p.75)

…藤村操なる人物をご存じだろうか。彼は『巌頭の感』(ママ)なる遺書を立木を削ってしたためたのだが、その中に「ホレーショの哲学、ついになんらのオーソリチーを価するものぞ」の一節がある。この「ホレーショの哲学」とは何か。

同時代人はわからなかった。これをシェークスピアの『ハムレット』の登場人物であるとの説を一部の人たちに決定的にしたのは赤新聞『萬朝報』の黒岩涙香であったが、釈然としないむきはおおかったにちがいない。

私はこれをホラーティウスだと思う(もっともこう思う人はこれまでもいただろう)。そして(ここからが私の大胆な推測なのであるが)「ホレーショの哲学」とは、この『書簡詩』のことであり、もっと端的にいえばnil admirariでしかないのではないか、と考える。藤村は鷗外の『舞姫』だけでホラーティウスを知ったつもりになったのである(引用者註・『舞姫』に「何事にも驚かず」との 『書簡詩』第1巻6番の文句が引用されている)。(p.136)

<患者>のpatientはデポネント動詞のpatior(~を被る、~される)からきている。そこから「病気を被る」すなわち「罹病する」の意味がでてきて、<罹病した人・患者>の意味になった。「医者に何をされてもじっと我慢強く耐えている人」ではない。patientが<我慢強い>の意味を有するのは、そもそももとのラテン語patiorに<耐える>の意味もあったからである。(p.206)

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by jgaxy-tumblr-com | 2011-11-20 11:24 | 読本 | Trackback
2011年 11月 17日

大和國男『腐りかけたクラシック音楽界への警鐘』を読む

大和國男『腐りかけたクラシック音楽界への警鐘 ベートーヴェンの魂が響く 青少年の情操を育む指揮者・宇宿允人の音楽』(カズ出版、1995年)を読む。題名からして凄いが、内容も凄い。一部引用する。

「もし3年間ご協力頂ければ、私は社長のそれ以後のご協力がなくてもやっていけるだけのオーケストラにします。3年たってもまだお金なんていう話し(ママ)だったら、私は能無しだ。その時は、私は腹を掻っ切って、腸を全部社長に差し上げます」(p.129-130。宇宿がオリエンタルバイオ社長の渡辺和彦にスポンサー役を依頼した時の言葉)

「ベートーヴェンの音楽は、心の中を涙で洗い流すような崇高な曲なんです。特に緩徐楽章(第2楽章)はシンフォニーであろうと、ピアノソナタであろうと、思わず神の前にひざまずかずにいられないような精神にさせるんです。悪いことは絶対にできない、やましいことはできないという精神にさせる。あれは不思議です。あれこそベートーヴェン教というか、宗教の頂点に立つものです

ベートーヴェンが、いつ宗教家になったんだ。ベートーヴェンの音楽が「悪いことは絶対にできない、やましいことはできないという精神にさせる」というが、佐川一政がベートーヴェンを愛聴して育ったことを知ったら、この人は怒りのあまり悶絶したんじゃないか。

やはり宇宿允人という人は稀代の瘋狂人に違いない。良くも悪くも、こんな指揮者は二度と現れないだろうなあ。

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by jgaxy-tumblr-com | 2011-11-17 11:22 | 予言 | Trackback
2011年 11月 02日

同和利権受益者としての上原善広

上原善広がブログの最新エントリで鳥取ループに言及している─


「鳥取ループ」や「在特会」など、いたずらに差別を扇動するような者たちも出て来ました。

http://u-yosihiro.at.webry.info/201111/article_2.html

自分で『「噂真」最後のタブー「部落出身芸能人」』だの『JDT 日本の路地を歩く』だのといった「部落暴き」「部落民暴き」の記事を書いてきたことについては、「潜在化した差別をもう一度、吐き出させる」ためだと正当化している。上原は、鳥取ループの活動もそうした戦略の一環だとは思っていないらしい(在特会の川東大了については単なる無分別なバカであることは明白なので措いておく)。

上原はまた、

彼らは解放運動の矛盾点、同和問題が抱えている決定的な矛盾点をいたずらにつついているようですが、ぼくは過去の解放運動を否定しようと思いません。


とも書いている。しかし何が「いたずら」なのであろうか。「いたずら」とは「存在・動作などが無益であるさま。役に立たないさま。むだ」の意味である。いまなお続く社会運動の問題点を検証するのが無益であるとは、到底考えられない。

上原は

もちろん解放運動による新たな問題も生まれました。同和利権などはその代表ですね。しかし、それをただ否定するだけでは発展していきませんから、解放運動の発展については、今後あらゆる問題を越えていく必要があります。

とも書いているが、およそ論理的に辻褄の合わない支離滅裂な文章である。過去の問題を検証せず、否定すべきを否定せずして何が「解放運動の発展」なのか。「問題を越えていく」ためにこそ、過去に学ぶ必要があるのではないか。このあたりの鈍さがやはり、全日本同和会支部長(解同にいたこともあるらしい)の家庭に生まれ育った上原善広の限界であろう。

元体育教師の上原善広は専門知識の所有者ではなく、業界における唯一の売りは<同和地区出身という特権性を利用して荊タブーに斬り込む>点にある。これはとりもなおさず、言論における同和利権の受益者とも言える。こういった手合いにとって荊タブーは飯の種として<あった方がいい>ものなのである。

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by jgaxy-tumblr-com | 2011-11-02 05:38 | 闘争