2011年 01月 29日
馬鹿左翼「ヤクザに在日や同和が多いのは、差別のせい。ヤクザを批判するなら、被差別者がどうしてヤクザにしかなれなかったのか考えるべきだ」 俺「確かに被差別というカードは犯罪の一因になりうるが、それは『努力』『勤勉』『禁欲』といった別のカードで打ち消せる程度のものだ。被差別という不利な条件を別の条件で克服できなかったのは当人の問題に過ぎない。それとも、在日や同和の全員がヤクザになっているとでも?」 馬鹿左翼「ぐぬぬ」 ■
[PR] 2011年 01月 28日
部屋でテレビを見た。偶然、逃亡容疑者に関する番組が放送されていて、僕のことも取り上げられていた。外国人の超能力者が容疑者の逃走先を予言するという内容だった。 ■
[PR] 2011年 01月 25日
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[PR] 2011年 01月 23日
喫煙擁護論者「喫煙が健康を害するなんてウソ。俺の爺ちゃんはヘビースモーカーだったけど、90まで生きたもんね」 おれ「じゃあ『二重被爆者の山口彊さんは93歳まで生きたから原爆が健康を害するなんてウソ』ということになるわけだ、君の理屈で言うと」 喫煙擁護論者「ぐぬぬ」 ■
[PR] 2011年 01月 18日
「以前、生涯を通してやり続けるとさんざん広言し、そう筆にものせていたことも、つまらぬ短気を起こしてフザけたことをしでかし、一瞬の間にもう絶対、続けられぬ状態にしてしまった」(西村賢太『一私小説書きの弁』p.14)。 その後、西村は芥川賞受賞時のインタビューhttp://www.nhk.or.jp/kabun-blog/100/70088.htmlでは「田中英光は、結局、一種のエリート」だったので「もの足りないもの」を感じて藤澤清造研究に転じた、と語っている。これも本音だろうが、西村が田中英光から撤退せざるを得なかった根本的な理由は上記のようなものであった。 ■
[PR] 2011年 01月 14日
心理学にはbias blind spotという理論があり、差別している人間は自分が差別していることを認めない傾向がある、のだそうである。以前、社会学者の金明秀も同じことを言っていたが、この言い分には確かに一理ある。 しかし同時にこうも思う。実際、差別していなくて「俺は差別なんかしてないよ」という人間もいるだろう、と。論理的には以下の4通りの人間がいるはずである。
「差別している奴は自分が差別しないことを認めない」理論の問題は、2も4も一絡げにして「いや、あんたは本当は差別してるんだ。だからもっと罪悪感を持て」と言ってしまえる点にある。「差別している奴は自分が差別しないことを認めない」理論によると、当人が認めようと認めまいと「本当は差別している」という結論は動かないからである。すなわち、この理論によれば、いったん「差別者」に擬せられた人間には抗弁の術がない。 この蟻地獄のような論理構造は何かに似ている。そう、魔女狩りの論理にそっくりである。周知のように、中世の異端審問所では「魔女」とされた人間が「自分は魔女ではない」と否認すれば「嘘である。真実を言うまで拷問せよ」とされた。「魔女」とされた人間が拷問に負けて「おっしゃるとおり、自分は魔女である」と認めれば「ほら、当人が認めたから間違いない。やっぱり魔女である」とされた。 これと同じ陥穽が、「差別している奴は自分が差別しないことを認めない」理論にもある。特定の言論を弾圧したい権力側にとってはこれほど便利な理論はない。 以上の理由から、「差別している奴は自分が差別しないことを認めない」理論は詭弁であると自分は断言する。カルト宗教の論理と大差ない。一般的に「差別している奴は自分が差別しないことを認めない」と見なすのではなく、あくまで個別的に「このケースでは、実際には差別しているのに自分に甘くてそれを認識できず『俺は差別しない』と言い張っている」「このケースでは、実際に差別しておらず、それを客観的に『俺は差別しない』と正しく認識している」と判断すべきなのだ。判断が割れる事柄についてはひたすら論議を尽くすことだ。個別的な判断を避けて一般論の中に逃げるのは、物を考えたくない人間の知的怠惰でしかない。自戒と共にそう思う。 ■
[PR] 2011年 01月 12日
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』を読んでいて笑ったことがもう一つある。クラシック音楽について語った文章の一節。
こうなると、もはや苦行である。求道者が悟りの境地に達するために滝に打たれるのと大差ない。ここまで努力しないと喜びがわからないとすると、多分この人は本当の意味でクラシック音楽が好きだったわけではないのだろう。こういう教養主義的で頭でっかちな「好楽家」の愛の対象になっているのは正確にはクラシック音楽そのものではなく、それに付随する権威に過ぎない。「クラシック音楽を愛すること」と「クラシック音楽を聴いている自分の姿を愛すること」は違う。そして、おのれの劣等感を補償する道具として特定の芸術の権威を利用しようとする人間ほど非芸術的で格好悪いものはそうそうあるまい。 ■
[PR] 2011年 01月 11日
伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』を読むと「森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』は、『ヴィタ・セクスアリス』の誤りではなかろうか。あるいは『ヰ』のみで『ヴィ』と読ませる習慣が、当時は存在したのだろうか」(p.223-224)等と大真面目に書いてあるので笑ってしまう。伊丹十三は英語に関しては自負を持っていたようだが、ラテン語のvの発音が英語や仏語のvとは違うことを知らなかったのである。 伊丹十三は、同じ文章の中で「一体に日本人は、外国語の子音の発音に鈍感である。そして、その鈍感なところが、外来語の発音に歴然と表われてしまった」(p.224)と慨嘆しているが、高度なギャグを意図していたわけではないらしい。これではまるでピエロである。伊丹十三が可哀相だ。担当編集者か校閲者がほんの一言、注意してやるべきだった。 ■
[PR] 2011年 01月 11日
─シェルビー・スティール『黒い憂鬱』p.224 ■
[PR] 2011年 01月 11日
─シェルビー・スティール『黒い憂鬱』p.122-123(五月書房、1994年)李隆訳 ■
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