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 ヘッドマーク&旧型国電前頭板

   機関車・客車用 電車用 気動車用 旧型国電前頭板

機関車・客車用

 
商品名
説 明
詳 細
価 格
〔A1〕
つばめ
TSUBAME

1980年代初頭、当時度重なる赤字に悩まされていた国鉄が、打開策の一環として全国的にも注目される一大イベントを企画する事となり、その記念すべき第1弾として1981年7月25・26日の両日に運転された、臨時特急“栄光のつばめ号”。
25日(東京9:00発→大阪16:30着)/26日(大阪9:00発→東京17:02着)の2日間に渡る行程で設定された同列車には、往年と同じEF58(EF58−61)が牽引機として充当され、客車こそ扉保安上の理由から14系とされたものの、8号車に食堂車が連結される等、当時の姿を出来る限り再現する為の様々な工夫が施されました。
また、各車両には学習院大学鉄道研究会の女子大生が、現役当時と同じ“つばめガール”の制服を着用して乗務し、乗客約800名の接客に当たった事でも知られています。
当該商品は、そんな昨今のリバイバルトレインの元祖となる列車に装着された、唯一の経歴を持ち合わせている他、1986年3月27日に運転された“懐かしのつばめ号”(EF65−1004牽引)にも使用されており、それを裏付けるかの如くヘッドマークの裏面や側面には、使用に伴う当たり傷と共に葡萄色2号や青15号の塗料が至る所に付着しています。
流石に、青大将時代に使用されていた物と比べると裏面の構造は簡略化されていますが、金色に光り輝く真鍮叩き出しの文字は定期列車のそれより見劣りせず、その風格からは日本の鉄道史を代表するに相応しい列車の威厳さえ感じ取る事が出来ます。
ジャパレが御贈りする2012年最後のヘッドマークを、是非貴方の御部屋に飾って頂けると幸いです。

・EF58用
・東京機関区常備品
¥1,000,000
(売 切)
〔H2〕
海 峡

北海道と本州の大動脈:青函トンネルが開通した1988年3月13日、それまでの青函連絡船に取って代わる形で“北斗星”と共に誕生した、快速“海峡”。
窓の固定化等、青函トンネル走行用の改造が施された50系5000番代や、“はまなす”用の14系が間合いで運用に就いていた他、最盛期にはJR東日本の14系や12系までもが借り出される事もありました。

しかし、運行開始直後は高かった青函トンネルブームも、1990年台後半ともなると徐々に落ち着きを見せ始め、晩年はカラオケ設備やゆったりカーペット等の導入も虚しく、乗車率は軒並み低迷の一路を辿っていました。
そんな中、津軽海峡線開業10周年を迎えた1998年3月、当時乗客の減少に歯止めを掛けたかったJR北海道は、映画“ドラえもん”の製作会社として知られている藤子プロとタイアップし、当該列車の装いを一新した上で“ドラえもん海底列車(海峡号)”として運行する事を決定します。
その懲り様は外装のラッピングに止まらず、一部の車内にキャラクターの人形を設置した他、ドラえもんとのび太がまるで一緒に乗っているかの様な車内放送まで流すという、大変手の込んだ物でした。
が、これが功を奏したのか一時的に乗車率も持ち直し、以来2002年12月1日に“スーパー白鳥”・“白鳥”へと置換えられるまでの間、休日には多くの家族連れを乗せて函館〜青森間を走る姿を目にする事が出来ました。
当該商品は、そんな同列車がまだ“ドラえもん海底列車”となる前に使用されていた逸品で、裏板には雪解け水の浸入を防止するコーキングが施されている事から、その過酷な使用環境を手に取る様に感じる事が出来ます。
JR線内最後の客車ローカル列車の前面に掲げられていた、北海道の鉄道史を語る上では絶対に欠かす事の出来ない列車のヘッドマークを、どうぞ御見逃し無く!!
今宵、ジャパレが地元:函館から御届けさせて頂きます。

・ED79用
・ひび割れ無
・青函運転区常備品

¥600,000
(売 切)

〔F2〕
瀬 戸
SETO

山陽新幹線岡山開業を迎えた1972年3月15日、それまで東京〜宇野間を結んでいた急行“瀬戸”が格上げされる形で誕生した、寝台特急“瀬戸”。
当時、14系が他の寝台特急へと導入され始める中、当該列車にはその置き換えにより余剰となった20系が充当された為、サービス面では“7人の侍”の中でも些か劣るスタートを切る事となりましたが、5年後の1977年10月に遅ればせながらも24系へ置き換えられると、その後は特に大きな変化を見せる事の無いまま国鉄民営化を迎えます。
そして、1988年4月1日の瀬戸大橋線開通を機に、遂に念願の高松乗入れを果たした同列車は、宇高連絡船への乗り換えが不要となった事で利便性が向上し、その甲斐もあってか1998年7月10日のダイヤ改正からは、583系以来の電車寝台:285系を使用した“サンライズ瀬戸”として姿を変え、21世紀になった今も尚活躍し続けています。
当該商品は、そんな老舗特急の前面を誇らしげに飾っていた逸品ですが、その裏面には“JR東日本品川運転所”の文字を見て取る事が出来、当時の写真等からも比較的晩年に使用されていた事が解ります。
また、文字や枠の材質も国鉄指定図面で指示されている真鍮板から、プラスチック製へと独自に変更されている為、“出雲”を含む同ロットのヘッドマークは、長年の太陽熱により生じた表面の湾曲が使用されていたひとつの証となります。
朝焼けの中、渦潮を下目に瀬戸内の潮風を切りながら颯爽と走る、EF65−1000番台の前面に掲げられていた極上の一級品は、どこか“四国で唯一の寝台特急”としての風格が感じられてなりません。

・EF65用
・品川運転所常備品
¥1,300,000
(売 切)
〔F1〕
彗 星
SUISEI

全国規模で行われた1968年10月1日のダイヤ改正で、関西発着の九州ブルトレとしては初めて日豊本線へ乗入れる事となった、寝台特急“彗星”。
新大阪〜宮崎間で運転を開始した同列車は、当時九州方面への観光ブーム等も相重なってか、連日満席が続く程の盛況振りで好スタートを切り、誕生から6年後の1974年4月時点で最大5往復まで増発されます。
しかし、山陽新幹線が全線開業を果たした翌1975年3月以降は、山陽本線を走る他の寝台特急と同様に乗客離れが加速し、結局1984年2月の段階では新大阪〜都城間の1往復が残るのみとなりました。
また、その1往復も後に運行区間が新大阪〜南宮崎間へと短縮されてしまい、もはや“いつ廃止されても不思議ではない”状況にまで、一時は追いやられてしまいます。
そんな中、2000年3月11日のダイヤ改正で関西発着のブルトレが整理される事となり、遂に廃止かと思われた同列車でしたが、前年の“さくら・はやぶさ”と同じ方式で京都〜門司間を“あかつき”と併結しながらの存続が決まり、以後2005年9月末日の最終運行まで“彗星・あかつき”として活躍していました。
当該商品は、そんな同列車が九州島内:大分〜南宮崎間を走行する際に牽引機となる、大分車両センター所属のED76へと装着されていた物ですが、その造りやデザインは初期や晩年の物と比べると大きく異なり、数ある九州型ヘッドマークの中で最も品格があると言っても過言ではありません。
ほうき星の三本線や外周の枠に始まり、裏面全体に塗装された青15号や盗難防止用の鎖等、どこを取ってもここまで見る人の心を虜にしてしまう逸品は、そう容易く出て来ないのではないでしょうか?
同仕様の物はこの世に2枚しか存在しない極上の一級品を、この度ジャパレが自信を持って御奨め致します!!

・ED76用
・大分車両センター常備品
¥900,000
〔E5〕
富 士
FUJI
東海道新幹線が開業した1964年10月1日、それまで東京〜熊本・大分間を結んでいた“みずほ”の大分編成を独立させる形で誕生した、寝台特急“富士”。
編成には、当時“走るホテル”と定評だった20系客車が充当され、その人気の高さから運行開始の翌1965年10月には、日豊線を経由して東京〜西鹿児島間:1574.2kmを結ぶ事となり、距離・時間共に“国内最長特急ランナー”の座に登りつめます。
しかし、山陽新幹線が全線開業を果たした1975年3月以降は、所要時間の長さが仇となって徐々に利用客の低迷化が進み、途中24系25型や1人用A個室の導入等も試みられたものの、1980年10月改正では運転区間が東京〜宮崎間(後に大分)へと短縮されてしまった為、上記の記録も鹿児島本線経由の“はやぶさ”に破られてしまいました。
ただ、そんな当該列車にも長い歴史の中で培われた“名門特急”のプライドがあったのでしょうか、その後は2005年3月1日に東京〜門司間で“はやぶさ”との併結運転を開始するまでの間、特に大きな変化を見せる事も無く走り続けます。
そして、昭和の古き良き時代がまたひとつ消えてしまった、運命の2009年3月13日…。
全国のブルートレインが時代の流れに沿って淘汰されて行く中、遂に同列車も東海道〜九州ブルトレの伝統ある歴史へと終止符を打つ形で、廃止されてしまいました。
当該商品は、そんな花形列車のヘッドマークデザインが丸富士から戦前の山富士へと復元された、1985年3月14日以降に使用されていた物ですが、風圧による反りを防ぐ為の補強板や昔ながらのリベット打ち等、その手の込んだ造りからは、当時ヘッドマークを製作していた小倉工場の力の入れ具合を窺い知る事が出来ます。
日本初の特別急行列車として明治の時代に生まれ、大正・昭和・平成と激動の日本を駆け抜けた、まさに日本の鉄道史そのものと言っても過言ではない名列車のシンボルを、どうぞ御見逃し無く!!
こんなに風格のあるヘッドマークは、本当に久し振りです。
・ED76用
・門司機関区常備品
¥800,000
(売 切)
〔A3〕
夢空間
北東北
1991年8月から開催されたデスティネーションキャンペーン“北東北に針路をとれ”に合わせ、同年10月:横浜〜青森間・1994年5月:新宿〜弘前間・1995年5月:上野〜弘前間・そして1998年9月に上野〜青森間でそれぞれ運転された、寝台特急“夢空間北東北”。
“オリエント急行”の影響を受け、JR東日本が1989年に設計した豪華車両“夢空間”が、24系“北斗星”編成の後ろ3両に連結されており、またその華やかさも然る事ながら、上り列車と下り列車で羽越〜東北本線をちょうど1周するという、まさに北東北を存分に満喫出来る運行ルートが、鉄道ファンや利用客から好評を得ていました。
しかし運行サイドからすれば、“はくつる”や“鳥海”等の定期列車と比べると大幅に所要時間を要していた点や、“カシオペア”の運転開始もきっかけとなって徐々にその設定回数を減らす事となり、2008年3月遂に車両自体を除籍とした事で、当該列車を含む“夢空間シリーズ”も完全に廃止されてしまいました。
4年間に渡る運転日数はさほど多くありませんが、そんな夢の様な列車の先頭に掲げられていた逸品を、是非この機会に如何でしょうか?
・ED75用
・仙台運転所常備品
¥750,000

¥600,000
(売 切)
〔C1〕
シュプール
日本海蔵王
1989年12月より、山形方面のスキー客輸送列車として神戸〜鶴岡間に登場した、急行“シュプール日本海蔵王”。
当時はスキーブーム全盛期とあって、関西から各スキー場へ向けて様々なシュプール号が運転されていました。
その為、車両の確保から当時波動用として使用されていた20系までもがその運用に駆り出され、毎年冬の大阪駅では様々な車両を目にする事が出来ました。
しかし、運転時刻が寝台特急“日本海2・3号”に近かった事や車両の老朽化に伴い、運転開始から僅か3年後の1992年12月の運転を最後に廃止されてしまいました。
“シュプール”のロゴと“日本海”のテールマークが見事に調和した逸品を、貴方の御部屋に飾ってみませんか?
・20系用
・ひび割れ無
・内填め式
・宮原総合運転所常備品
¥150,000
〔B7〕
シュプール
ユーロ赤倉
映画“私をスキーに連れてって”の放映を契機に、社会現象で賑わうスキー場への足として、1987年12月に名古屋〜妙高高原間で運転を開始した、急行“シュプールユーロ赤倉”。
2年後の1989年からは、“シュプールユーロ赤倉・志賀”へと列車名が変更された為、“赤倉”単独運転としては僅か2年いう短命で終わりましたが、客車には当時JR東海の花形ジョイフルトレイン“ユーロライナー”が充当され、牽引機も同カラーのEF64が担っていました。
そんな“シュプール号の元祖”と言っても過言ではない名車のテールマークを、どうぞ御見逃し無く!!
・12系用
・ひび割れ無
・内填め式
・名古屋車両区常備品
¥100,000

¥70,000
(売 切)
〔B9〕
いきいきサロン
KINOKUNI
きのくに
JR西日本のジョイフルトレインとして1989年9月に登場した、“いきいきサロンきのくに”。
それまで“ワカ座”の愛称で親しまれていた無名の御座敷列車が、設備面で当時のニーズに合わなくなって来た事から鷹取工場にて内装・外装共に再改造される事となり、従来の畳敷きに加え掘り炬燵やカラオケ等のAV装置積込みの他、塗装も一般の12系客車と同じ青20号から、白を基調に“くろしお”・“紀の国”・“ふれ愛”を意味した青・緑・ピンクのラインが入れられた物へと変更されました。
そんな当該車両は、関西を中心に西日本各地を大勢の団体客を乗せて活躍していましたが、種車には12系の最若番車両が使用されていた事もあり、種車の落成から数えると40年近くが経った2007年11月、遂にその老朽化を理由に後藤総合車両所にて廃車となってしまいました。
団体旅行での移動方法が、鉄道から車へと変わり行くに連れ消えて行った、悲しいジョイフルトレインの逸品をどうぞ。
・12系用
・ひび割れ無
・内填め式
・宮原総合運転所常備品
¥100,000


電車用 上に戻る

 
商品名
説 明
詳 細
価 格
〔D4〕
にちりん
NICHIRIN
“ヨン・サン・トオ”として知られている全国ダイヤ白紙大改正が行われた1968年10月1日。それまで博多〜西鹿児島間を日豊本線経由で結んでいた急行“にちりん”が、列車名もそのままに特急へと格上げされ誕生した、特急“にちりん”。
運行開始当初は、幸崎以南がまだ電化されていなかった事からキハ82が充当されていましたが、その後博多〜大分間の電車特急として増発された際に、他の“みどり”や“有明”と同じ485系が導入され始めると、日豊本線が全線電化を果たした翌年の1980年10月には、遅ればせながらも完全に電車化される事となりました。
こうして、L特急としての一大勢力を着実に九州島内で築き上げていった当該列車は、誕生から40年余りが経った今も尚、783系や787系に姿を変えながら活躍し続けています。
当該商品は、そんな同列車が電車化されて間もない頃から、下記のイラスト版が用意されるまでの間に使用されていた逸品です。
また、“レッドエクスプレス”化以降も、ヘッドマークに不足が生じた際等は時折使用されていた為、結果的にイラスト版よりも使用期間は長かった事になります。
そのせいもあってか、周りのゴムパッキンは経年の劣化から硬化してしまっており、内板にもひび割れの隙間から若干ではありますが水が入り込んでいます。
しかし、文字の退色や酷いひび割れ等は一切見受けられず、使用年数から考えるとこれでも状態は良い方なのかもしれません。
『いつか九州鉄道記念館の“クハ481−603”に取り付けてみたい』と、ついつい淡い期待を持ってしまう九州からの一級品を、是非この機会に如何でしょうか?
・485系用
・ひび割れ有
・外填め式
・南福岡電車区常備品
¥550,000
〔C5〕
にちりん
“ヨン・サン・トオ”として知られている全国ダイヤ白紙大改正が行われた1968年10月1日。それまで博多〜西鹿児島間を日豊本線経由で結んでいた急行“にちりん”が、列車名もそのままに特急へと格上げされ誕生した、特急“にちりん”。
運行開始当初は、幸崎以南がまだ電化されていなかった事からキハ82が充当されていましたが、その後博多〜大分間の電車特急として増発された際に、他の“みどり”や“有明”と同じ485系が導入され始めると、日豊本線が全線電化を果たした翌年の1980年10月には、遅ればせながらも完全に電車化される事となりました。
こうして、L特急としての一大勢力を着実に九州島内で築き上げていった当該列車は、誕生から40年余りが経った今も尚、783系や787系に姿を変えながら活躍し続けています。
当該商品は、そんな同列車にボンネット専用のイラストマークが採用された1985年3月から、同形式が“レッドエクスプレス”へと塗替えられマークも簡略化されてしまうまでの、僅か5年間だけ使用されていた逸品です。
数ある九州特急の中でも、特に南国らしいデザインとして鉄道ファンから人気を評していた迫力満点の極上品を、どうぞ御見逃し無く!!
・485系用
・ひび割れ無
・外填め式
・南福岡電車区常備品
¥650,000
〔C8〕
みどり
MIDORI
1964年10月1日の東海道新幹線開業に伴い、新大阪以西の新幹線連絡特急として新大阪〜大分間に誕生した、特急“みどり”。
当初はキハ82を使用した気動車特急として運転されていましたが、3年後の日豊本線:小倉〜幸崎間電化開業を機に485系へと置き換えられ、以後1975年3月に山陽新幹線全線開業を迎えるまでの間、山陽本線の一時代を築くエースの一員として活躍しました。
そんな当該列車は、廃止された翌1976年7月に再び小倉〜佐世保間の特急として復活する事となりますが、その際当該商品も向日町から車両の転属と共に九州へと渡り、以後ヘッドマークがイラスト化されるまでの2年間だけではありますが、南福岡電車区で常備される運びと相成ります。
また、当該商品は長期間の使用により枠の裏板を留めるネジが馬鹿になっており、固定の為現場にて施された溶接痕が周囲の所々に見受けられます。
山陽特急全盛期の舞台裏で、過酷な長距離運用に長年耐え抜いた極上の逸品を、是非この機会に如何でしょうか?
・485系用
・ひび割れ無
・外填め式
・南福岡電車区常備品
¥500,000
〔D2〕
しおじ
SHIOJI
1964年10月1日の東海道新幹線開業に合わせ、新大阪〜下関間で運行を開始した、特急“しおじ”。
運行開始当初のダイヤは、それまで東京〜広島間を結んでいた“つばめ”の筋を引継ぐ形で設定された為、片道8時間と電車特急としては些か物足りないスタートとなりましたが、その後ダイヤ改正ごとに増発され、山陽新幹線岡山開業前の全盛期には最大7往復体制で運転されていました。
また、使用車両も151系や181系・485系・583系とバリエーションに富んでおり、1975年3月の山陽新幹線全線開業を機に廃止されるまでの10年間、まさに山陽本線の黄金時代を象徴するかの様な列車として、“こだま型”ファンから人気が高かった事でも知られています。 そんな名列車の前面に掲げられていた当該商品ですが、その造りは裏面より文字が彫刻された国鉄指定の仕様とは異なり、当該列車が廃止となる1975年頃の向日町運転所に数多く見られた裏面塗装仕様となっています。
山陽特急の輝かかりし頃を髣髴とさせる逸品を、どうぞ御見逃し無く!!
・485系用
・ひび割れ無
・外填め式
・向日町運転所常備品
¥500,000
〔F5〕
ムーンライト
えちご
1996年3月16日、東海道本線の“ムーンライトながら”運行開始により、それまでの“ムーンライト”が、誤乗防止の観点から名称変更され誕生した、快速“ムーンライトえちご”。
新潟県は村上と新宿を結び、今でこそ“青春18切符”利用者にとっては欠かせない存在となった同列車ですが、元々は関越自動車道の夜行バスに対抗する使命を担っていた他、上りは高崎線の始発列車として通勤客輸送の役割も果たしており、車両もそれに合わせアコモ改造が施された、上沼垂運転所の165系が充当されていました。
しかし、同所の165系は既に落成から40年近くが経過しようとしており、台車回りの老朽化も目立ち始めていた事から、遂に2003年3月31日付で現在の485系へと置換えられ、同時にその前面を飾っていたヘッドマークも着脱式の物から方向幕へと姿を変えてしまいました。
そんな当該商品の表面には、貫通扉裏の収納箱から出し入れする際に出来た擦り傷が中央付近に見受けられ、またアクセントの白星マークも長年に渡る過酷な運用で一部が退色してしまっています。
ただ、その他の下地や列車名を始めとした箇所については比較的状態が良く、また晩年に使用されていたタイプである為、アルミ製と重量の軽量化も図られています。
真冬のまだ日が昇っていない早朝、眠たい目を擦りながら新宿駅で見たあの懐かしい思い出の逸品を、是非この機会に如何でしょうか?
・165系用
・上沼垂運転区常備品
¥250,000


気動車用 上に戻る

 
商品名
説 明
詳 細
価 格
〔D3〕
礼 文

1966年3月改正における準急列車料金制度の改訂に伴い、それまで旭川〜稚内間で活躍していた準急“礼文”が格上げされる形で誕生した、急行“礼文”。
1968年10月には、“利尻”と統合となり一度廃止されてしまいますが、2年後の1970年10月に再度“礼文”として独立・復活を果たし、以後2000年3月に特急“スーパー宗谷”へと置き換えられるまでの30年間、稚内と利尻島や礼文島を結ぶフェリー接続の大役を担っていました。
そんな当該列車には、運行開始当初からキハ56が充当されていましたが、当時道内の急行にはヘッドマークを装着する風習が無く、1986年のキハ54導入時に初めて他の急行よりも一足早くヘッドマークが製作されました。
そして、2年後の1988年にようやくヘッドマークの装着が規定で定められると、同時にキハ400にも取付けが可能な大判仕様へと、規格が統一される事となります。
当該商品は、まさにその2年間の過渡期に使用された、2枚の内の貴重な1枚です。
当初は銀の縁はありませんでしたが、当時の写真を順に遡って調べて行くと、使用開始から1年半が過ぎた辺りで、周囲に銀の縁取りが施されているのが解ります。
最北を目指し、宗谷本線の高速化と共に役目を終えた北海道四大急行のヘッドマークを、どうぞ御見逃し無く!!

・キハ54用
・旭川運転所常備品
¥450,000
〔B1〕
かもめ
KAMOME
1961年10月1日のダイヤ改正で、それまでの客車特急から装いを新たに気動車特急として颯爽と誕生した、特急“かもめ”。
客車時代とは違い、京都〜長崎・宮崎間をそれぞれ12時間・14時間という俊足で結び、当時まだ最新鋭だったキハ82の堂々12両編成で山陽本線を駆け抜けました。
そんな華々しいスタートを切った当該列車は、1965年10月の宮崎編成“いそかぜ”分割と時を同じくして新たに西鹿児島行が設定され、その後“ヨンサントオ”として有名な1968年10月の白紙ダイヤ大改正で、晩年の京都〜長崎・佐世保間へと落ち着く事となります。
当時、“つばめ”や“はと”が自由席車を連結する中、最期まで全車座席指定を誇示し続け、栄光の列車番号“1D”を名乗り続けた名列車は、当時他の特急とは格が違い、“北陸の白鳥”・“山陰のまつかぜ”・“山陽のかもめ”と特別扱いされていたものです。
中には子供の頃、大阪駅停車中に“少しだけ…”と車内に入って写真撮影等した方も多いのではないでしょうか?
今回は、その老舗特急の前面を飾った極上の一級品を堂々出品です。
当該商品は、裏板に若干のひび割れこそ見られるものの、文字の彫りの深さや枠の状態がそれを打消し、また文字の色等から運行開始初期に使用されていた物と特定出来ます。
1975年3月10日の山陽新幹線全線開業をもって勇退した、山陽本線の歴史全てが詰まっていると言っても過言ではない“パーニ”のヘッドマークを、是非この機会に如何でしょうか?
・キハ82用
・ひび割れ有
・外填め式
・向日町運転所常備品
¥1,200,000
〔E4〕
はまかぜ
HAMAKAZE

山陽新幹線:岡山開業に沸いた1972年3月15日、関西と山陰地方を結ぶ輸送力強化の一環として新大阪〜倉吉間に誕生した、特急“はまかぜ”。
それまでの“まつかぜ”を始めとする山陰特急と言えば、大阪から福知山線を経由するルートが慣例でしたが、当該列車は岡山方面からの観光客も
見込んでいた為、山陽新幹線で姫路まで来た乗客を拾える様にわざわざ播但線を経由して和田山へ抜けるという、優等列車らしからぬルートで設定されました。
しかし逆にこれが功を奏したのか、大阪〜姫路間こそ乗車率は今ひとつだったものの、姫路から先の区間では乗客からの評判も頗る良く、全車座席指定で食堂車を繋いていた頃の全盛期には、上り・下り共にプラチナチケットの仲間入りすら果たしていました。
そんな同列車は、その後キハ82からキハ181・キハ189へと徐々にその姿を変えていく事となりますが、運転開始から40年が経った今も尚、気動車特急としては勲章とも言える“1D”の称号を胸に走り続けています。
当該商品は、その由緒ある列車の前面に掲げられていた逸品であり、様々な書体が存在する“はまかぜ”の中でも最も人気の高い仕様となっております。
また、このヘッドマークには他にもちょっとした謂れがあり、裏面上部の掛け具に施されたグラインダーの加工痕がそれを証明しています。
それは、1990年代後半に多発した京都総合運転所内での部品盗難事件で、一時期予備のヘッドマークが底を尽いてしまった事があり、その際倉庫に眠っていたキハ82用ヘッドマークを急遽キハ181へ装着出来る様に改良し、新調したヘッドマークが納品されるまでの繋ぎとして短期間使用していたという物です。
その為、これが本線上で一番最後まで見る事の出来た、キハ82用ヘッドマークという事になるのではないでしょうか。
この度、キハ181の配置消滅に伴い用途不要となり放出されましたので、是非この機会に貴方のコレクションへと加えてあげて下さい!!

・キハ82用
・ひび割れ有
・外填め式
・京都総合運転所常備品
¥650,000
〔A5〕
ひ だ

1968年10月1日、それまでの急行“ひだ”を格上げする形で名古屋〜金沢間に誕生した、特急“ひだ”。
運行開始当初は、同区間を5時間で結ぶ高山本線の主力特急として活躍していましたが、要となる増発用の編成が確保出来ないまま飛騨地方の観光ブームを迎えてしまい、1976年10月の“おき”キハ181導入に伴い捻出されたキハ82が転入した事で、やっと2往復の増発が叶う事となります。
そんな一足遅れた感が否めない当該列車は、その後運転区間が名古屋〜高山間に縮小され4往復体制で民営化を迎えますが、1989年に開発されたキハ85への置換えが決定すると、その見晴らしの良さから列車名も“ワイドビューひだ”へと変更され、1990年3月のダイヤ改正をもって完全にキハ85へと置換えられると、元祖“ひだ”の名はキハ82と共に廃止されてしまいました。
当該商品は、そんな同列車にイラストマークが導入された1980年代初頭に使用されていた物です。
通常、イラストは表板の裏側より印刷されていますが、当該商品は気動車特急のイラストマーク第1号であった為か、合唱造りと雪化粧をした北アルプスが全て彫絵で描かれており、その風格は他のどのヘッドマークでも絶対に味わう事が出来ません。
また、JR東海管内のキハ82用ヘッドマーク枠に多い、盗難防止の為の車体溶接による取外し時の爪の千切れが、本体と枠がしっかりと合致している事を裏付けています。
手にした方だけがその造りに酔い痴れる事の出来る極上の逸品を、どうぞ御見逃し無く!!

・キハ82用
・ひび割れ無
・外填め式
・名古屋南運転区常備品
¥600,000
〔B2〕
オホーツク
OKHOTSK
1970年代初頭、“おおとり”や“おおぞら”等の北海道内を走る気動車特急と言えば、全て本州からの青函連絡を考慮して函館発着とされていましたが、そんな常識を覆すかの如く、1972年10月のダイヤ改正で札幌〜網走間に誕生した、特急“オホーツク”。
運行開始当初は、それまで函館〜網走間を結んでいた“おおとり”の補完的役割を担うべく、1往復のみ設定されていましたが、後に急行“大雪”や本家の“おおとり”を統合する事となり、最盛期には5往復まで増発されました。
しかし、そんな当該列車も自家用車や高速バスとの競合にはなかなか勝てず、遂に2008年3月のダイヤ改正では、キハ183と14系の混結編成が話題となっていた夜行の1往復が廃止されてしまい、現在は“道内最古参の特急列車”として4往復が運転されています。
そんな、北海道の気動車特急史を語る上では欠かす事の出来ない名列車のヘッドマークを、是非この機会に如何でしょうか?
・キハ183用
・ひび割れ有
・札幌運転所常備品
¥300,000
〔D5〕
ユートピア高山

国鉄民営化も終わり、JR各社がそれぞれ新たな道を歩み始めていた1988年7月に、JR西日本が大阪から奥飛騨方面へのリゾート客輸送を増強させる為、大阪〜高山間で運行を開始した、特急“ユートピア高山”。
当時、金沢支社が所有していた繁忙期における波動用車両は、国鉄金沢局時代に落成した“ゆぅトピア”しかなく、その当該車両も“ゆぅトピア和倉”等の他運用に就いていた為、急遽同年3月に落成したばかりの“ゴールデンエクスプレス・アストル”が充当される事となり、電車特急ばかりが走る北陸本線内のダイヤを気動車でも維持出来る様、大阪〜富山間は485系“雷鳥”と併結・富山〜高山間のみ自力走行という協調運転方式が採用されました。
利用客に伸び悩んだのか、運行開始から僅か2年足らずで廃止されてしまいましたが、まだ鉄道会社が創意工夫をして頑張っていた頃の逸品を、是非この機会に如何でしょうか?

・キロ65用
・ひび割れ無
・向日町運転所常備品
¥100,000
〔D1〕
Since 1999
HILIPP FRANZ
VON SIEBOLD

1999年3月13日、それまで佐世保〜長崎間で運転されていた“シーサイドライナー”を、2往復のみ特急へと格上げする形で運行を開始した、特急“シーボルト”。
車両は、それまで“ゆふいんの森U”として活躍していたキハ183が改造された上で充当され、トリコロール塗装の奇抜なデザインが当時人気を呼んでいました。
しかし当の利用者からは、「シーサイドライナーと然程所与時間が変わらない上に特急料金が必要」とあまり好評が得られず、誕生から僅か4年後の2003年3月改正で元の“シーサイドライナー”へと格下げされてしまいます。
当該商品は、そんな数奇な運命を辿った列車の先頭を飾っていた逸品です。
家族や恋人との旅行中に当該列車を利用した際、先頭で記念撮影をされた方等にとっては、きっと思い出の品になるかと思います。

・キハ183用
・ひび割れ無
・内填め式
・長崎気動車区常備品
¥150,000
〔D6〕
MIDNIGHT
1988年7月1日、急行“はまなす”の補完的役割を担うべく函館〜札幌間に誕生した、快速“ミッドナイト”。
運行開始当初は、青春18きっぷが利用出来る繁忙期のみの設定でしたが、利用客から好評を得た事ですぐに定期列車へと格上げされ、以降2002年12月のダイヤ改正で廃止となるまでの間、北海道側の青函連絡接続列車として活躍し続けました。
また、当該列車の専属車両として用意されたキハ27には、カーペットカーやグリーン車の座席を転用したドリームカー等、他車ではあまり例を見ない改造が施されており、鉄道ファンならずとも道南では有名な列車のひとつでした。
そして、その前面を飾っていた当該商品には、上側のスティに凍結による着脱時の破損が見受けられるものの、それが功を奏したのか逆に長期間厳しい風雪に晒される事無く用途廃棄された為、車体と同じアイボリーに緑とピンクの色分けがしっかりと見て取れ、まさに北海道のヘッドマークとしては最も理想的な状態と言っても過言ではありません。
そんな極上の逸品を、是非この機会に貴方の御部屋へ飾ってみては如何でしょうか?
・キハ27用
・函館運転所常備品
・上部スティ穴千切れ有
¥250,000
〔E9〕
快 速
とっとり
ライナー
1994年12月の改正で、山陰本線:豊岡〜浜田間の列車運行形態が整理される事となり、その際に鳥取〜米子間を結ぶ速達タイプの列車として愛称が与えられ誕生した、快速“とっとりライナー”。
普段は国鉄色のキハ58・28が充当されていましたが、稀に広島急行色や能登路色等も仕業に就く事があり、晩年には定期運用で活躍するその雄姿を一目見ようと、大勢の鉄道ファンが山陰の地を訪れていました。
しかし、2001年7月の米子〜益田間高速化工事完了に伴って、車両が新性能のキハ126へと置換えられた事により、列車名も味気無いLED表示となってしまった為、米子支社管内の快速ヘッドマークは全て御役後免となってしまいます。
その後、長年現場倉庫の片隅で眠り続け、誰の目にも触れる事の無いまま10年以上の歳月を過ごした当該商品は、若干の退色こそ見受けられるものの、使用中に生じた錆は拡大しておらず、まずまずの状態と言っても良いのではないでしょうか。
そんな、鳥取砂丘と夏の日本海が描かれた山陰縁の一級品を、是非この機会に貴方のコレクションへと加えてあげて下さい。
晴れ渡る青空の下、ヘッドマークを付けて海沿いを行く国鉄色の“ニッパ・ゴッパ”を、もう一度だけでも見てみたいですね…。
・キハ58用
・鳥取駅常備品
¥300,000
〔A7〕
石 見
ライナー
1997年3月改正で、それまで米子〜益田間に運転されていた“しまねライナー”の列車名が改称されて誕生した、快速“石見ライナー”。
“とっとりライナー”と共に国鉄色のキハ58・28が充当され、鉄道ファンから多大な人気を評していましたが、2001年7月の山陰本線:米子〜益田間高速化工事完了を機に、列車名が現在の“アクアライナー”へと再び変更される事となり、車両も当時最新鋭であったキハ126に全車置き換えられてしまいました。
そんな米子支社管内を走る快速列車のヘッドマークは、常に日本海の潮風に晒されていた為か非常に錆びている物が多く、現場にもあまり状態の良い物は残っていません。
しかし、当該商品は最晩年に使用されていた為、その状態の良さはまさに一目瞭然です。
夕陽に染まる日本海のシックなデザインが国鉄色によく映えていた逸品を、どうぞ御見逃し無く!!
・キハ58用
・米子駅常備品
¥250,000
〔A8〕
シーサイド
ライナー

1986年11月から、平戸口・佐世保〜長崎間を結ぶ快速列車として運行を開始した、快速“シーサイドライナー”。
地元の足としては勿論、長崎ハウステンボスやグラバー邸園等へ向かう観光客輸送にも一役買っており、最盛期には松浦鉄道へも乗入れる等、誕生から25年近く経つ現在でも長崎では欠かせない列車として知られています。
当該商品は、そんな同列車にシーサイドライナー専用色が導入される前の、まだキハ58が九州一般色を纏って活躍していた時代に使用されていた逸品です。
特に九州は長崎地方に思い入れのある方、是非この機会に如何でしょうか?

・キハ58用
・長崎気動車区常備品
¥120,000
〔C4〕
北ながと
JR西日本

秋吉台・秋芳洞や青海島等を訪れる観光客の利便性向上を図る為、1989年夏と冬の土日限定で小郡(現:新山口)〜長門市間に誕生した、快速“北長門”。
車両にはキハ58が充当され、運行ルートも山口線経由ではなく、関西や九州からの新幹線連絡を考慮した上での事か、厚狭から進行方向を変えて美祢線を通り、一路長門市を目指すという方法が採用されました。
しかし、肝心の乗車率については今ひとつ芳しくなかった為、1999年夏に厚狭〜長門市間で再び復活する事となるまでの間、一時廃止されてしまいます。
晴れ渡る真夏の青空と真っ直ぐな水平線に日本海の波飛沫、そんな“元祖:北長門”のヘッドマークを、是非貴方の御部屋へ飾ってみては如何でしょう?

・キハ58用
・長門鉄道部常備品
¥100,000


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〔D8〕
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鉄製琺瑯板・浮文字
所属表記無
鉄製琺瑯板・浮文字
所 属:鳳備
 
 
¥150,000−
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