これも千田夏光が聞き取った話。比較的正直に語られているのではないかと思う。これも70年代に採取された証言。
私はいつ日本に来たのかはっきり憶えていないのです。慶尚南道で百姓していた両親は小作料が払えないと日本人地主に土地をとりあげられたので、九州にきたそうです。そこに行けば仕事があって三度のご飯が満足に食べられると言われたので渡ってきたのでした。私のまだ幼いときのことです。九州は直方の炭鉱で父も母も働いたが生活は苦しく、12才のとき私も飯場の雑役に出ました。水汲みと米とぎが仕事でした。一日働くと20銭くれました。16才になると炊事場の仕事になり50銭貰えるようになりました。そこで白いご飯も食べさせて貰うようになりました。とてもうれしかったのでした。
19才のとき支那事変がはじまりました。そしてその年の秋の終わりごろです。飯場の口入れ屋みたいなヒゲを生やした人がきて「戦場で兵隊の洗濯物を洗ったり炊事をする仕事をしないか。支度金を100円出すし三度々々の食事は無料で腹いっぱい食べられ、そのうえ一日1円50銭の給金まで貰える」と言いました。私は小学校も途中までしか行ってなかったけど、それだけのお金があれば弟や妹を学校にやれます。心配する母に「職場といってもずうっと後の方だし弾は飛んで来ない、娘さんの命は絶対に補償する」その人は言っていました。
私が直方を出発したのは昭和12年12月の中頃でした。[・・・]長崎から軍の輸送船に乗せられた私は昭和13年1月初め上海郊外の小学校に収容されました。120人くらいの女の子が一緒でした。朝鮮人は30人くらいでした。残りの日本人は私より年上でした。着いて二日目か三日目に軍医さんが来て進退検査をしました。ズロース脱がされ台の上で股を開かされ、いきなりあそこに器械をいれられ、ぐっと開かされました。「お前はまだ処女だな、よおし合格」と言いました。「うっ」声をあげるほど痛かったのを憶えいています。その時軍隊では洗濯や炊事をするのにここまで検査するのか、ずいぶん厳しいなと思いました。翌日送られたバラック長屋で、はじめて私は売春婦をさせられるのだと知らされました。
「天皇陛下の皇軍将兵をお慰めするのだ、光栄な仕事である」と言われました。頭がポカンとして何も考える暇もないうち兵隊たちがどっと入って来ました。その日何人の兵隊を相手にしたかよく憶えていません。その夜、私のあそこはスモモみたいに腫れました。そこが軍の経営する慰安所で私たちは従軍慰安婦だったのでした。私たちは小さな部屋を一人づつ与えられ、そこで兵隊たちの相手をするのでした。腫れて痛いので隣りの日本人のお姐さんに相談したらメンソレターム(ママ)をくれ「これを塗ってごらん、誰でも初めはそうだよ」と言いました。腫れは10日もひきませんでした。私が「痛い痛い」というのに兵隊たちは誰れ一人としてやめてくれませんでした。そのたびに鉄の焼けた棒をつっこまれているようでした。
慰安所は兵隊が入口にいて番兵していましたから外に出ることも出来ません。そのころ日本人のお姐さんは私が「100円の支度金を貰って来た」ことを言うと「本当は1,000円なのだよ、誰れか悪い奴に900円ピンはねられたね」と言っていました。慰安所では一人の兵隊相手にすると1円くれました。そのお金は管理部の兵隊さんに頼んで全部を母に送って貰いました。多きときは一日に30人から40人の兵隊さんの相手しました。半年ほどして安慶の慰安所に送られ、九江の慰安所でも働きましたが、もうこの頃になると何人相手にしても腫れたりしなくなりました。そこでは多いときは80人くらいから90人くらいの兵隊をとらされるようになりました。慰安婦が少なく兵隊の方が多くなったからでした。でも平気になっていました。
帝国軍隊従軍記 現代史の証言4--朝鮮人従軍慰安婦 千田夏光 1975年
この女性は「日本人のお姐さん」から、兵隊は慰安婦がいないと中国人の女性を片っ端から強姦すると聞かされている。他に日本人女性は将校、朝鮮人は下士官と兵隊の相手だったとも。兵士たちから、生々しい強姦の話を直接聞いている。
証拠を残さないため強姦すると殺すのだと言ってました。一個分隊はふつう12人ですがそろって一人の中国の女の人を輪姦するときは、一人でもやらないと、その人が上官に密告するかも知れないので全員がそろってやることになっていたのだそうです。
こういう話をどう受けとるかは人それぞれだろうと思うが、本人にとって都合の良いことも悪いことも話しているのは、証言者として信用できる証だろう。疑う理由はないのではないか?密告を防ぐためにグループ全員で強姦するといった話はベトナム戦争でもあったようなので[Against Our Will?]、ムキになって否定したり、逆に日本軍の特殊性だとアピールする必要もないだろう。軍が強姦を許していなかった証拠でもある。 ・・・また、この女性はこういう事も言っている。
ビルマは最初はよかったけど昭和19年暮れごろから逃げまわらされてばかりいるようになりました。そして日本軍が負けたとき放り出されたのです。親切 な軍医さんが私たちを看護婦だと英|国兵にウソを言って一緒に復員船へのせ連れて帰ってくれました。
林博史あたりなら、「軍の隠蔽工作?!」などと騒ぎ出しそうだが(慰安婦は少女だったのか?共同の記事)、本人が親切でしてくれたと言ってるんだからそういう事だったのだろう。
慰安婦という商売が過酷であったこと、騙されて連れて来られた人もいたこと、1000円の支度金と一人1円で日に数十人の客を相手に稼いでいたことがわかる。現実は白でも黒でもないようだ。
by 犬
渡辺美奈、米国の慰安婦碑の前…