生きているなら、また何処かで。

形あるものは、いつか壊れる。

なればこそ、尊厳と愛情を以って繋がりたい。

という、ブログ。


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酔った勢いで、女子の部屋に来た。

窓の外から男がこっちを見ている。

女子は意識が朦朧としていて、なだれ込むようにベッドに倒れた。

「あのさ」

「なに?」

「窓から見てる男・・誰?」

「ああ、お父さん」

私はにこっと笑って、お父さんに手を振った。

お父さんの目は笑っていない。

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「家族との関係で、苦しんでいます」という女子のブログがあったので
「それって、こういう事じゃない?」
という書き込みをしたら
「そんなの、わかってます!」
と、怒られてしまった、たけ★けんです。

(。’・ω・`。) コニチワ

教訓!

『余計なアドバイスは、やめましょう』


(笑)


と突き放すのもアレなので、ちょっと補足。
(まあ、本人は読んでないだろうから・・・ww)

(。’・ω・`。) ソレカラドシタ?

人の理解には5段階あって、それぞれ
「知る・わかる・行う・できる・分かち合う」
に区分できます。

その女子は「わかっています」と言った。
「わかる」は2番目の段階。
「わかる」で留まっていると、「できなくて」苦しい。
逆に言えば苦しいのは「できない」からです。

例えば家族間での確執は、私も同じような経験がありました。
新しい父親の事を許すことができず、味方になってくれない母親を許すことができず、私を置き去りにした本当の父親を許すことができませんでした。
家庭にいるのが本当に苦しくて、アルバイトに打ち込むことに逃げ、実家を逃げました。
その時も自分なりに「わかって」は、いたと思う。

そこから「できる」に到達したのは、10年以上経ってからです。
師匠から『あなたは前の父親が残した遺物なんだから、次の父親にとっては目ざわりにきまってるでしょ!』とバッサリ言われて目が覚めたwww
新しい父を許し、母を許し、本当の父を許し、結果自分を許すことができた。
つまり「わかる」が「できる」になり、そして今このブログで「分かち合う」になったんだよね。

「分かち合う」って自分の為でもあって、誰かの為でもある。
あなたが理解を深めることは、誰かのために繋がる。
苦しんでいる誰かに明るく手ほどきすることは、世界に光をともすこと。

そうやって、
あなたから、光を世界に。

テーマ:
少し前に、それまで続けていたブログを諸事情により閉めて、このブログを始めました。
その時からのアメンバーさんが今回もアメンバーになってくれることや、
昔のブログを見に来てくれている形跡があったりすると、うれしいものです。

私なりには彼・彼女らの事を大切な友人だと思っているものの、やっぱり異性だったりすると一定の距離感が必要。むやみに近寄っていいものでは、ありません。
それでも何かあった場合に励ましてあげたり、応援してあげたり、一緒に喜んだりしたくなる。
想いを共有したくなる。

。。。何を言いたいかっつーと、

「いつも遊んでくれて、ありがと。」

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幸福と不幸は、表裏一体です。
不幸になりたくなければ、幸せから手を離せばいい。
多くの悦びが亡くなり、多くの苦しみも消えます。

けれど輝いて生きた過去は、知っている。

失敗に苦しむのは、挑戦をしたから。

失恋で悲しむのは、その人を愛したから。

裏切りに傷つくのは、誰かを信じたから。

思い通りに進まないのは、高い理想があるから。

永遠の別れを嘆くのは、美しい思い出があるから。

悦びも苦しみも無く、穏やかに命を運ぶのもひとつ。
傷つきながら何かを求めて命を運ぶのも、またひとつです。

なればこそ私たちは輝きながら生きて、、、
いきましょう。

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ある女子から「私は、これから何をしていけばいいかわからない、つまらない人なんです。。」というメッセージを受けて、今回のブログを書いてみました。
*メッセが誰から来たのかは、もちろんトップシークレットです。

大人になると痛感するのは、「自分の評価は、他人が決める」ということ。
あなたがどれだけ一生懸命に何かをやろうとも、それを評価するのは他人です。それは時にお客様であったり、上司であったりしますよね。

たとえば一週間くらい徹夜に近い状態で、ある作品を仕上げたとする。自分はその完成度に満足していても、お客様に受け入れられなければ評価にはつながりません。
反対に言えば、全く手を抜いていてもお客様がそれを絶賛してくれることだってあるかもしれません。

しかし「評価」は他人が決めるのだとしても、「価値」は自分自身で決めればよろしい。
自分の事を「つまらない人だ」と思うのも「価値がない人間だ」と思うのも自由。
「私なんか、生きていても意味がない」
「どうして生きている価値があるのか」
という人さえも、価値定義の意味でそれはその人の自由なのです。

ただし思い出して欲しいのは、あなたは過去に連綿と繋がってきた生命の集大成であるということ。
あなたのお父さんとお母さんがいて、そのまたお父さんとお母さんがいて、そのまたまたお父さんと・・・という、過去数万人以上の集大成なんです。
もちろん、その中には望まれない妊娠によって生まれてきた生命というのもあるでしょう。全ての人が十分に愛されて育ってきた、とは必ずしも言えませんから。

ただそうだとしても過去数万人以上の中で、たった一人欠けていただけでも、あなたはこの世に生まれなかったかもしれない。
「私なんて生きている価値がない」なんて、そもそも考えることすらできなかったかもしれない。
あなたは、それだけ必然と尊厳に満ち溢れている存在だ、という事を忘れてはなりません。

だとしたら、やっぱり明るく・楽しく生きていく方がいいに決まってる。
「私はこれからもどんどんと成長していける人なんだ」
「私の愛情で世の中を明るくしていけるはずだ」
そうやって自分の価値を明るく・強く定義できる人の方が、いいに決まってます。

言葉を交わしてしまえば、もう「見ず知らずの他人」ではない。

あなたに出会って言葉を交わすことで、私の中にある感情が芽生えた。
その時点で少なくとも私にとっては「価値のある人」になってしまっています。
そんな風に、世の中の誰かにあなたの影響を与え・与えられながら世界が回っている。
だから言葉は、素晴らしいのです

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