ぼくは「努力(=頑張ること)」それ自体には、まったくの価値はないと考えています。この考え方は比較的珍しいようなので、解説してみます。
「頑張っている」のはどうでもいい
「頑張ること」が誉め称えられるのは、子ども時代の話です。「よく頑張ったねぇ〜」「(ニコニコ)」。
大人の世界においては、悲しいがな、「頑張った」ということは、それ自体評価されません。評価されるとしても、それは「成果」とセットです。「大きな損害を出したけど、おまえは今回よく頑張ったなぁ。頑張りを評価して昇級だ!」ということには、そうなかなかならないわけです。
「頑張っていること」を評価するというのは、実は危険な考え方です。
社会への憎悪
まず第一に、「自分はこんなに頑張っているのに、なぜ認めてくれないんだ!」という憎悪に繋がります。
ぼくはこのブログを超ガンバって更新しています。でも、アクセスが伸び悩んでいます。これはおかしいです!なんでみなさん、ぼくの頑張りを認めてくれないんですか!?世の中間違っている!
…というのは、子どもの理屈ですね。そんな理屈で他人と社会を憎むのは、現実に反する、エネルギーのムダ遣いです。
他者の断罪
第二に、「あいつは頑張っていないからダメなヤツなんだ」という断罪につながります。
たとえば「生活保護に陥っているのは、怠けているやつらばかりだ。あんなやつら助ける必要がない」という冷たい態度も、「頑張っている=すばらしい」という価値観に裏打ちされたものです。
たとえば「成績の悪い学生」がいるとします。多くの人は、彼のことを「頑張っていないから、成績が悪いんだ」と断罪するでしょう。しかし、本当に彼は頑張っていないのでしょうか?頑張った結果、どうしても成績が悪いのかもしれません。または、勉強に時間を割くことができない何かの事情があったのかもしれません。
そういう可能性を一切排除して、「あいつは頑張っていないから今の状況に陥っているんだ」と断罪するのは、傲慢で鈍感なやり口です。
騙し合い
第三に、「頑張っているように見せかければいい」という文化を醸成し、構成員がウソを付くようになります。
みなさんの会社でも、上司の前でだけ立派に頑張っている姿を見せる人っていませんか?実は怠け者なのに、都合のいいときだけ、いい顔を見せて得をしているような人間。
日本的な連れションならぬ「連れ残業」も、この心理が駆動しているがために、発生するのではないでしょうか。とりあえず仕事はないけど、頑張っているふうに見せないとマズいから、上司に合わせて残業している。「頑張っているかどうか」あくまで上司の主観的な評価なので、「業務を効率化し、残業せずに帰る」というかたりの努力は、なかなか認められることはないでしょう。
「頑張ること」それ自体を評価するという姿勢は、増悪、断罪、欺瞞という悪徳に繋がる危険なものです。幼児期ならまだしも、大人の世界でこういう評価を行うべきではありません。
多くの場合、もっとわかりやすい「成果」があるのですから、そちらを見ましょう。または、「人はみんなそれぞれのやり方で頑張っている、怠け者などいない」という理解に立って物事を考えるのもよいでしょう。
ぼくがこの考え方に至ったのは、ブログを本格的に書きはじめてからです。悲しいくらい、ブログの成果は努力と比例しないんですよね…。頑張るしかないから頑張りつづけますが、成功するか失敗するかは時の運です。