横浜市内追悼現場を歩く 神奈川実行委主催 【神奈川】関東大震災(1923年9月1日)の混乱の中で飛び交ったデマに端を発した同胞虐殺。なぜこんな事件が起こされたのか。事実をきちんと学び、次代に教訓として伝えていこうと、市民有志が19日虐殺事件の跡地をフィールドワークした。震災から90年を迎える今年、横浜市内の小・中学校に勤務していた元教員ら8人が中心となって1月に実行委員会を発足させていた。 この日のフィールドワークのテーマは「虐殺された朝鮮人の追悼は、どのように行われたのか」。28人が「朝鮮人狩り」の現場となった南区の中村橋を出発。多数の虐殺死体が浮かび、川が真っ赤に染まったという堀割川を見ながら区内堀ノ内の宝生寺を目指した。 宝生寺は震災当時、横浜で伝道活動をしていた李誠七さんが1924年に納めた位牌を引き受け、その年から今日まで毎年欠かさず供養を続けている。一角には民団神奈川本部が歴史事実を忘れず、伝えようとした慰霊碑が建つ。一行は碑文に目を通し、当時に思いを馳せていた。 この後、24時間フル稼働で罹災した遺体3000体を燃やしたとされる久保山墓地を訪ねた。同胞についてはどこから何体運び込まれたかは記録がなく、いまだに不明。懇ろに葬ったのではなく、虐殺の事実を隠していたものと、実行委では推測している。 三ツ沢市営共同墓地には同胞の遺体をトラックで運び込み、無縁仏のところに大きな穴を掘って埋めたとされる。当時の資料によれば、同胞の遺体は「速やかに(隠せ)」が当局の方針だったようだ。同胞は一般の罹災者と違って死体が焼け焦げていないため、周囲の住民も「朝鮮人」だとすぐにわかったという。 一行は実行委員会によるこれまでの聞き取りから埋葬地だったと目される場所近くまで歩き、その場で黙祷を捧げた。 遺骨は解放後、同胞の手で堀り起こされ、港北区の菊名山蓮勝寺と東林寺に改葬された。一行はフイールドワークの最後に蓮勝寺を訪れ、李誠七氏らが発起人となって建立した朝鮮人納骨塔転徒改葬記念碑と民団神奈川本部の韓国人墓地改修記念碑などの前に立ち、持参した花を手向けた。 フィールドワークに参加した横浜YMCAの職員は、「虐殺の事実自体は知っていたが、東京のことと思っていた。身近な南区であったとはびっくり」と話していた。また、実行委員会代表の山本すみこさんは、「日本の侵略の歴史を見つめず、無責任に放置してきたツケがいまになって回ってきている」と述べた。 次回は「虐殺の地をたどって」とのテーマで6月16日に予定している。 (2013.5.22 民団新聞) |