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5月11日土曜日、雨の日本武道館。遂にその日がやってきました。鉄人と呼ばれ、絶対王者と呼ばれ、「小橋建太には世代交代も引退もない」と言い切ってきたプロレスそのものの人、小橋建太選手が、プロレスラーとして最後のリングに上がる日です。
チケットは即日完売、17000人の観客の熱気で高い天井が霞んで見えるほどでした。小橋選手が自分で選んだ引退試合は8人タッグで、同じコーナーには武藤敬司、佐々木健介、秋山準という同時代を生きたライバルが、相手コーナーにはKENTA、潮﨑豪、金丸義信、マイバッハ谷口という全日本プロレスからプロレスリングNOAHに至るまでの小橋選手の歴代の付き人レスラーが並びました。8人タッグであること、引退試合が447日ぶりの復帰戦でもあること、「試合後には全力を使い果たしているかもしれないから」と試合より前に引退セレモニーを行ったこと、全てが異色づくしの引退記念試合でしたが、その試合は私たちの予想を大きく裏切るものとなったのです。
代名詞でもあった逆水平チョップを愛弟子のマイバッハ谷口に叩き込む小橋
驚くほどにこの日の小橋選手は、ここ数年の中でも一番コンディションが良かった。8人タッグでありながら殆どの時間を小橋選手がリングインし、後輩たちにチョップを叩き込み、若手の頃に使っていた懐かしいローリングクレイドルまで繰り出す。いつも通りの日焼けした肌、太い腕、握り拳、私たちが熱狂した小橋建太がそこにいました。少しでも長く小橋選手を見ていたい。いつしか試合は30分を超えていました。そして武藤敬司選手がコーナーからムーンサルトで飛び、「次はお前だ!」とばかりに小橋選手を指さす。小橋選手が拳を握り、コーナーに登った時に場内は悲鳴のような歓声で埋め尽くされました。それは引退への決断を余儀なくされたムーンサルトを決行する覚悟の拳であり、自分がこの試合を勝って締めくくるんだという強い決意の表れでした。果たして綺麗な弧を描いて小橋建太選手の身体が宙を舞い、初代付き人だった金丸選手の上にその巨体が覆い被さり、レフェリーと同じコーナーのライバルたちと、武道館を埋め尽くした17000人が「ワン、ツー、スリー」と3つ数えた時、小橋建太というプロレスラーにピリオドが打たれたのです。
最後の勝ち名乗りを受け、紙テープがリングを埋め尽くす
試合を終えた小橋選手の顔は、これまでにないほどに穏やかで清々しい笑顔でした。その笑顔を見て私たちの胸に去来したのは実は寂しさではなく、喜びであり、安堵でした。この稀代の名レスラーが笑って、自分の足でリングを降りられることに本当に感謝することができた。なぜならこの10数年、私たちは志半ばで引退試合をすることもなくこの世を去ったプロレスラーたちを何人も見送ってきたのです。
ジャイアント馬場。ジャンボ鶴田。三沢光晴。日本のプロレス史に名を刻む名選手たちがある者は病に倒れ、小橋選手にとっては兄貴分でもあった三沢選手に至っては試合中の不慮の事故で帰らぬ人になった。どれほど悔しく、悲しかったことか。天国の三沢さんには心の中で引退しますと告げました、と試合後にリング上で小橋選手が述べた時、誰からともなく武道館には三沢コールが沸き起こり、みな一様に天を見上げました。「この三沢コールは引退試合が出来なかった三沢さんへのみんなの気持ちだと思います」と小橋選手が言った時、私たちは小橋建太だけでなく、ようやく三沢光晴という人も一緒に送り出すことが出来たのです。今回、46才という若さで小橋選手が引退を決意せざるを得なかったのは残念なことではあったけれど、プロレスの神様は小橋建太から命は奪わなかった。試合を終えて感謝の言葉を述べ、10カウントを聞き、笑顔で手を振りながら花道を去っていく小橋選手を見られて、本当に良かった。嬉しかった。
よく「○○のためなら腕の1本や2本くれてやる」という言い回しを耳にしますが、小橋選手は言葉のあやではなく本当に、両腕も、両足も、首も肩も腰も内臓すらもプロレスに捧げた人でした。186センチ115キロという体重で相手の技を受け止め、剛腕と言われる太い腕でラリアットや逆水平チョップを叩き込み、巨体を空に踊らせてムーンサルトを繰り出す。身体にかかる負担は想像を絶し、膝も肘もまっすぐには伸びない。幾度となく全身麻酔で手術をし、長期欠場に追い込まれても彼はファイトスタイルを変えなかった。子供の頃から健康で、一度も入院も手術もしたことがないんです、という私に小橋選手が「ミタちゃん、それは本当に幸せなことだよ。ご両親に感謝した方がいいよ」としみじみ言ったことを忘れません。その上2006年には腎臓ガンが発覚し、右の腎臓を摘出。それでも小橋選手はリングに帰ってきました。なぜなら、そこが唯一、彼の生きる場所だったし、私たちもそう信じて疑わなかった。
その小橋選手が引退を決意したのは、「小橋建太のプロレスが出来なくなったから」という理由でした。2011年3月11日にこの国を襲った東日本大震災。その復興支援としてプロレス界が開催したのが、2011年8月の日本武道館と2012年2月に仙台で行われた「ALL TOGETHER」というオールスター戦でした。その2大会とも小橋選手は武藤敬司選手とドリームタッグを結成し、コーナーからムーンサルトを放っている。腎臓ガンから復帰した後も実は肘の故障で何度も欠場していた小橋選手。ベストコンディションになかなか戻らない中でコーナーから宙返りをし、両膝をしたたかにマットに叩きつけるこの技は更に小橋選手の身体を痛めつけました。結果的に仙台大会で両足を負傷し、欠場。更に首の故障も発覚し、その回復が思わしくないことから決めた引退でした。ムーンサルトをしなくても、チャンピオンじゃなくても、例え年に1試合だけでも、私たちは小橋建太を見続けていたかったのに、プロレスラー小橋建太はそれを良しとしなかった。
誰もが認めるプロレス界の大エースだった小橋選手ですが、元々はレスリングや柔道などのアマチュアの実績がない中での全日本プロレス入門でした。一度は断られ、サラリーマンになるもやはり夢をあきらめきれずにプロレス界入り。鳴り物入りでもなく、ただひたすらに練習を重ね、愚直なまでに身体を張り続け努力し続けた結果が、小橋建太というプロレスラーでした。誰もが認める練習の鬼で、若手と一緒になって汗を流し、誰よりも長く道場にいた。ケガで入院している時にも病室にダンベルを持ち込み、サウナで特訓する風景がスポーツ紙の紙面を幾度となく飾りました。試合以外に芸能活動をしたり、名を売ったりすることもなく、見出しになるような気の利いた台詞を吐くこともなく、ただプロレスだけをし続けることで絶大なる支持を得た人です。90年代後半から幾度となくプロレス大賞のベストバウトを受賞した三沢光晴vs小橋建太の黄金カードでは、解説席にいたジャイアント馬場さんが絶句して涙するほどの激闘を見せ、川田利明、田上明を加えた「四天王プロレス」はプロレスの最終形のように思えました。
現在よりも過酷なリング環境で、現在よりも過酷な巡業をこなし、脳天から突き落とされ、花道に叩きつけられる。恐らくプロレス史上一番身体を痛めつけていたのが、あの当時の三沢選手であり、小橋選手だったのではないだろうか。それは誰に請われたわけでもなく、プロレスの尊さを彼らが身をもって示していたからであり、それが彼らの、そして私たちプロレスファンの誇りでした。けれどそれは確実に彼らの肉体を疲弊させ、傷つけた。でも、小橋選手はその戦い方をやめなかった。なぜなら、その苦悩を乗り越えた時にファンと一体になれる喜びが、何にも代え難いものだったからです。「プロレスは僕の命であり、青春です。」と、小橋選手ははっきりと言い切りました。
リングを降りる前、赤コーナーに顔を埋める小橋
46才にして「青春」という言葉がこんなに似合う人もいなかった。そして引退試合後、「また新しい青春が始まります」と小橋建太さんは言いました。毎朝道場に通わない小橋建太、逆水平チョップをしない小橋建太、名曲「GRAND SWORD」で花道を歩かない小橋建太を想像するのはまだ今の段階ではちょっと難しいけれど、きっとどこにいっても汗だくで、一生懸命な小橋建太さんがそこにはいるはずです。そして小橋建太がいなくなってもプロレスは続いていく。今日も巡業バスは走り、小橋建太の愛したプロレスは後輩たちによって、日本のどこかで行われています。小橋建太と同時代に生きることが出来て、良かった。そして小橋建太というプロレスラーを、笑顔で送り出すことが出来て、良かった。送られる側と送り出す側、プロレスラーとプロレスファン、最高に素敵なさよならの形が、あの日のリングにはありました。
バックステージにて、良き友でありライバルであった佐々木健介、秋山準と