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被災地の医療ルポ(下) 孤立した病院団結し守る

(2011年4月5日) 【中日新聞】【朝刊】 この記事を印刷する

情報なく不安に

画像家族を亡くした入院患者を励ます樹神学院長(左)

 暗闇の病棟で入院患者を励ます看護師、水や食料の確保に奔走する事務職員…。東日本大震災の被災地では、多くの病院がライフラインの途切れた中で医療を支え続けた。その1つ、宮城県石巻市にある精神科主体の「こだまホスピタル」(330床)の奮闘を紹介する。(編集委員 安藤明夫)

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 震災から半月後の3月26日。院長の樹神(こだま)学さん(78)が病棟を巡回すると、顔なじみの入院患者が次々に集まってきた。

 津波で母親を亡くした中年女性は「外泊許可をいただいて、お線香を上げてきました」と憔悴(しょうすい)した表情。樹神さんは「大変だったね」と肩に手を置いた。

 伏し目がちの中年男性は「台所が消えた」と何度も訴えた。自宅の被害ではなく、妄想らしい。隔離された部屋のドアを内側からたたき続ける女性もいた。症状が悪化した患者は多い。

 海から約1.5キロの丘陵地にある同ホスピタルは冠水を免れたが、周囲の道路は分断され、孤立状態に。非常電源は1日で切れた。16日に電気が復旧するまでの5日間、病棟の看護師らは、患者たちに声をかけて励まし、事務部門のスタッフは昼間に物資集めや職員・家族の安否確認。夜は、暗闇の中で、ただじっとしているしかなかった。

 事務部長の津田久美さん(55)は「情報がないことが一番の不安でした」と話す。電話もネットもつながらず、市内の被害状況も、断片的に入ってくるだけ。その中でも、救急車が来れば受け入れざるをえない。避難所で精神状態が不安定になるなどして、搬送されてきた患者は半月で34人に達した。

 ナースステーション内の臨時ベッドに寝かされていた女性(55)は、18日に街をさまよっているところを保護された。統合失調症の症状が進み、今は呼び掛けても反応しない。保護される前は、市内の避難所に中学生の娘と2人でいたと分かったが、医師が避難所に行っても娘の姿はなく、行方は分からない。

画像震災後の9日間、ロビーは炊き出し本部となった=いずれも宮城県石巻市のこだまホスピタルで(病院側提供)

行政は「民間」後回し

 外来のロビーは、炊き出し本部となり、停止した都市ガスの代わりに、プロパンのボンベが運び込まれた。

 職員と入院患者を合わせ、毎日500人分を確保しなければならない。備蓄の水や食料は数日分程度。長期戦に備え、震災翌日はアルファ米と梅干しの1食にとどめた。

 行政に支援を求めようにも、市役所も周囲が水没して機能まひの状態。災害対策本部のある石巻赤十字病院との通信もままならない。ガソリン難が物資集めの足かせとなった。

 「出入りの業者さんたちが心配して、野菜や米などを持ってきてくれて、本当にありがたかった」と、栄養部長の佐久間まゆみさん。震災3日目からは、ご飯と即席みそ汁、おかず一品程度の3食を提供できるようになった。

 外来の混雑も忙しさに拍車をかけた。同病院は、地域に開かれた精神科医療の実践で全国に知られ、内科、精神科の外来には、1日平均250人訪れていた。それが「あそこに行けば薬がある」と避難所の口コミで広がって、最高400人にも。「何もかも、必死でした」と津田さんは振り返る。

 老人保健施設などの関連施設を含め約500人いる職員の被害状況も、ようやく分かってきた。

 職員の死亡1人、家族が死亡、行方不明の人は33人。家が全壊・水没した人も少なくとも108人。住居の確保がこれからの課題だ。津田さんの夫も行方不明のまま。「家も息子も無事だったし、仕事があるから、まだ幸せです」と気丈に話す。

 30代の看護師は、自宅で夫と子どもが津波で流されるのを助けようとしたが、投げたロープが届かなかった。行方は今も分からない。新築の家も失った。それでも休まず働いている。

 樹神さんは「職員が一致団結した経験は、これからの石巻の危機を乗り越えていく力になると思う」と感謝しつつ、行政の対応の悪さに苦言を呈する。

 「民間病院として精いっぱいの貢献をしたつもりだが、行政にどれだけ水やガソリンの支援を求めても、後回しにされてきた。大災害の際に、地元の民間医療機関を支える態勢づくりを早急に考えてほしい」

 取材に応じた亀山紘・石巻市長は「通信網が壊滅状態になり、市の対応が後手に回って多くの市民にご迷惑をかけてしまった。今後の教訓としたい」と話した。

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