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宇佐美有罪判決は憲法違反・最高裁判例違反(中) 

ストーカー事件の真相(25)

目 次

第1 はじめに……1頁
 1 本件上告の概要・・・・・・1頁
 2 本件事案の特殊性・・・・1頁

第2 上告理由……2頁
 1 憲法13条違反があること……………………………2頁
 2 最高裁判所判例と相反する判断をしていること……5頁
 3 憲法31条違反があること……審理不尽……………8頁

(上記は「宇佐美有罪判決は憲法違反・最高裁判例違反(上)」 に掲載しています)

第3 判決に影響を及ぼす重大な事実誤認……13頁
 1 恋愛感情充足目的に関する認定の誤り……………………14頁
 2 恋愛感情充足目的と意思確認目的の非両立性……………17頁
 3 「待ち伏せ」に関する認定の誤り…………………………19頁

 4 故意に関する認定の誤り…………・……………………… 27頁
 5 告訴人の「不安」についての疑問…………………………29頁

第4 証拠調べ手続きに判決に影響を及ぼすべき法令違反があること……32頁

第3 判決に影響を及ぼす重大な事実誤認

 1 恋愛感情充足目的に関する認定の誤り

 (1)原判決は,
①被告人は,告訴人と連絡を取ることができなくなった平成20年1月以降,様々な方法を使って執拗に告訴人の所在を捜し,平成22年4月には告訴人の父親が使用している自動車の底部にGPS機能付き携帯電話を貼り付けることまでしていたこと,
②告訴人は,平成20年12月に統一教会に対し,同教会から脱退し,被告人との婚約を破棄する旨の内容証明を送り,平成21年12月には,被告人との婚約を破棄し,会うつもりもない旨の被告人宛の手紙を被告人の実家に送り,被告人はそれらの内容を認識していたこと,
③被告人は,告訴人を愛している旨の手紙を書いたり,告訴人に対し,会いたい旨のメールを送信したり,原判示5の行為の直後にも告訴人が恋しかった旨をノートに記載していること
 
 これら3つの事実を根拠として,原判示の各行為時に,被告人が,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知りながらも,告訴人に対し,強い恋愛感情を有し,告訴人と会い,どうしかして告訴人との関係を修復したいと考えていたと認定した上,被告人には恋愛感情充足目的があったと認定した。

 しかし,原判決の前記事実認定には,以下に述べるとおり,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認が存在し,これを破棄しなければ著しく正義に反する。
以下,詳述する。

 (2)まず,前記①の事実は,被告人が,告訴人と連絡をとれなくなって以降,様々な方法を使って告訴人の所在を捜していたことを示す事実であるが,本件における被告人と告訴人の交際経緯及び告訴人の失踪経緯等に鑑みれば,かかる事実は,それ自体,被告人の恋愛感情充足目的を推認させる事実とはなり得ない。
 すなわち,本件において被告人は,結婚及び入籍を間近に控えた告訴人が突如行方不明となり,連絡を絶ったことから,告訴人を心配し,また,同女がいまもなお被告人との結婚意思を有しているか否かを確認する必要があったため,同女の所在を捜していたものである。

 このような被告人の気持ちや考え及び行動は,当時の被告人の置かれた状況を考えたとき,誰しもそのようなことを考え行動するであろうという意味において,極めて条理に適ったものであり,原判決が判示する如く,被告人自身の恋愛感情を充足するという身勝手な自己中心的目的のために同女の所在を捜し続けていたわけではない。

  したがって,前記①の事実は,本件の具体的な事実関係に鑑みれば,それ自体,ストーカー規制法における恋愛感情充足目的を推認させる事実となり得ないことは明らかである。
 

(3)また,原判決は,前記②の事実から,被告人が,原判示各行為時に,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知っていた事実を認定したが,以下に述べるとおり,これも極めて不当な事実認定である。
 
 すなわち,まず,告訴人が統一教会宛てに送った同教会の脱退及び婚約破棄の内容証明郵便について,当時,被告人は,直接,その郵便物の中身を見ていないばかりか,「脱会届が教会本部宛に来た。」としか聞いておらず,前記内容証明郵便に「婚約破棄」の内容が記載されていることを知ったのは,本件一審裁判の過程で証拠として同郵便を見たときなのである。

 またさらに,同郵便物が統一教会本部に届いた後,告訴人と電話で話した中務から告訴人の様子を聞いた被告人は,同女が偽装脱会をしていると認識した以上(中務調書8頁,第6回被告人調書23頁),前記内容証明郵便が同女の本心を表しているとは考えなかったのである。

 そうすると,被告人が,告訴人による前記内容証明郵便送付の事実を認識していたからといって,告訴人の本心,すなわち,被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知っていたと認定することはできない。

 また,平成21年12月に告訴人が被告人の実家に送った手紙とは,他の荷物(被告人が告訴人にあげた携帯電話,本など)と一緒に送られたものであるところ,そもそも,被告人がこの荷物を受け取ってその中にある手紙を見たのは,一審判決が認定したとおり,平成22年8月か9月頃,すなわち,公訴事実1,2の後のことである。
 また,それ以前において,被告人は,実家に荷物が送られたことを認識していたものの,荷物の中に手紙が入っていることまでは知らなかったのである(第9回公判被告人調書9頁)。

 そうすると,前記手紙を見た被告人の認識が如何なるものであろうと,少なくとも,公訴事実1,2当時における被告人の認識を推認させる事実となり得ないことは明らかである。

 また,公訴事実3ないし5当時における被告人の認識に関しても,控訴趣意書20頁にて詳述したとおり,被告人は,告訴人の前記手紙が同人の本心や真意を表したものであるとは思えなかったのである(第6回公判被告人調書35頁)。

 すなわち,当該荷物は,伝票(甲65・原審記録1050丁)の「ご依頼主」欄に「神奈川県相模原市■■■■■■」と書かれていたが,消印は荻窪川南の郵便局のものであったこと,また,緩衝材として杉並区や東京都の公報が入っていたこと,さらに,荷物に入っていた携帯電話のバッテリーが抜かれていたことなどから,
 明らかに不自然であると感じられ,前記荷物が工藤氏の実家から送られたものではなく,荻窪にいる強制改宗屋の宮村氏が関与して,告訴人の真意によらずに作成かつ発送された可能性があると考えたのである(第6回公判被告人調書33~36頁)。

 そして,かかる被告人の当時の認識は,一審公判廷において,当の宮村本人が,自ら荷物の発送に関与したことを認める旨の証言をしたことからも(宮村調書16~17頁),十分合理性があり信用性が高いというべきである。

 そうすると,被告人が告訴人の前記手紙を読んだ事実をもって,被告人が,告訴人の本心,すなわち,被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知っていたと認定することはできない。

 以上のとおり,被告人には,告訴人による上記内容証明郵便や上記手紙の文面が,告訴人の本心ではないという疑念を抱き,告訴人の本心がわからなかったことにつき合理的な理由があったのであり,控訴理由書15頁以下においても詳述したとおりである。

 したがって,前記②の事実をもって,被告人が,原判示各行為時に,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知っていたと認定した原判決の事実認定は,かかる認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した極めて不当な事実認定というべきである。 
 

(4)
また,前記③の事実は,被告人が告訴人に対して恋愛感情を有していたことを示す事実であるが,当該事実から,被告人の告訴人に対する恋愛感情があったことを推認できるとしても,さらに,そこから当然に,恋愛感情充足目的があったと認定することはできない。

 そもそも,被告人は,恋愛感情というかどうかは別にして,告訴人に対し,好意的な感情を抱いていたこと自体は認めている。
 しかし,本来,ストーカー規制法で処罰されるのは,恋愛感情等を「充足する」目的で行われた行為に限られ,恋愛感情等を有していること自体が処罰されないことはもちろん,恋愛感情等を背景としながら,それを充足することを目的としない行為もまた,前記「充足する」の構成要件に該当しない以上,処罰してはならない。

 特に,本件のように,良好な関係を築いていた婚約相手が突如行方不明になったことを契機とし,その婚約相手を心配し,また相手方の婚約意思や本心を確認したいとの意思ないし目的をもって行なった被告人の各行為が,自らの恋愛感情を「充足する」目的で行なわれたものでないことは明らかである。

 にもかかわらず,被告人が告訴人に対して恋愛感情を有していた事実をもって,そこから当然に,恋愛感情を「充足する」目的があったと認定した原審の事実認定は,かかる認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した極めて不当な事実認定というべきである。

(5)小括

  以上,原判決が行なった恋愛感情充足目的に関する事実認定は,当該認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した上で,当該認定に都合の良い事実のみを根拠事実として抽出する,いわば「つまみ食い」的な事実認定であって,明らかに事実誤認である。

「つまみ食い的」は、法律文章として馴染めない形容句だろうが、「高裁判決文」と「控訴趣意書」とを比較して読めば、高裁の事実認定は明らかに「つまみ食い的」と形容する以外にない。

 そして,かかる原判決の事実誤認は,本件の核心的争点とも言えるストーカー規制法上の恋愛感情充足目的の有無に関するものであるから,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認であると同時に,これを破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。 

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宇佐美さんはストーカーじゃないんだけどなぁ。 


 2 恋愛感情充足目的と意思確認目的の
非両立性


(1)序

  原判決は,告訴人と会って,告訴人の本心を確認したいという気持ちと,告訴人に対し,強い恋愛感情を有し,告訴人と会い,どうにかして告訴人との関係を修復したいという目的は両立するものであり,被告人に告訴人の結婚意思の有無を再確認する意思があったからといって恋愛感情充足目的があったとの認定が左右されるものではないと述べている。

  しかし,原判決は,前記二つの主観を,単純に抽象化して論じているに過ぎず,以下に述べるとおり,本件における被告人の具体的認識を前提とする限り,これら二つの主観は全く相容れない非両立の関係にある。

(2)両主観の前提認識が非両立であること

 第一に,本件において弁護人が主張する意思確認の目的とは,告訴人の本心が分からない状況下において告訴人と会ってその本人を確認したいという気持ちであるのに対し,
 一審及び原審判決の認定した恋愛感情充足目的とは,告訴人には被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知りながらも,告訴人と会ってどうにかして,告訴人との関係を修復したいという気持ちであるところ,
 前者が,告訴人の本心が分からない状況下における気持ちであるのに対し,
 後者は,告訴人の本心を知った上での気持ちである点において,
 これら二つの主観は,その前提として認識している状況が全く異なるだけでなく,事実として全く両立しないのである。

(3)両主観の具体的内容そのものが非両立であること

 第二に,被告人が前者の意思確認の目的を持つに至った理由として,次のような認識を有していたことが証拠上認められる。
 すなわち,被告人は,過去にも,合同結婚式の相手が拉致監禁された際,後日,相手女性と会って,信仰及び被告人との結婚意思がないことを確認し,婚約を解消した経験があること(一審第6回公判被告人供述調書38~39頁),
 また,もし仮に自分が拉致監禁されて偽装脱会で何年か経って出てきた場合,相手女性が別の男性と合同結婚式を受けていたら,ショックであるとの気持ちから(一審第6回公判被告人供述調書36~37頁),
 告訴人において,本心から被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことが確認できれば,それ以上,被告人としては告訴人との関係を修復しようとする意図はなく,別の女性と合同結婚式を受けることを考えていたという認識である。

 かかる被告人の認識は,被告人が公訴事実5において告訴人と会って本心を確認することができた後,新しい相手と合同結婚式に臨むための準備をしていた事実(一審第6回公判被告人供述調書36~37頁)からも裏付けられる。

 そうすると,被告人は,告訴人と会って告訴人には本心から恋愛感情や結婚意思がないことを確認できたならば,それ以上,告訴人の意思を無視してまで関係を修復しようとする意図を有していなかったことになり,その場合,原判決が認定したような恋愛感情充足目的は存在しないと言える。
 
 反対に,被告人には,告訴人の本心として恋愛感情や結婚意思が未だあると確認できたならば,告訴人と結婚したいという気持ちがあったと言えるが,そのような被告人の気持ちは,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的とは,明らかに質の異なるものである。なぜなら,告訴人に被告人と結婚する意思があるならば,告訴人との結婚を願う被告人の気持ちは,告訴人の意思と合致する以上,ストーカー規制法により処罰すべき感情ではないからである。

 この点,原判決が,本件において,被告人の恋愛感情充足目的の内容として「告訴人に恋愛感情や結婚意思がないことを知りながら」告訴人との関係を修復したい気持ちであるとしたのも,告訴人の気持ちを無視して,自分の恋愛感情を充たそうとする気持ちが,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的であるとの解釈を前提にしていると言える。

 結局,本件における被告人の具体的な認識を考察すれば,告訴人と会って意思を確認したいという主観は,もしそれが立証されるなら,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的は存在しなかったと言えるのであり,恋愛感情充足目的と両立して存在しうるものではない。

(4)小括

 以上述べたとおり,両者の主観が両立すると判示した原判決は,明らかに誤りであり,かかる誤りは,被告人の恋愛感情充足目的の認定に影響を及ぼしたため,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認であると同時に,これを破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。

 高裁判事が一見、説得力がありそうな「両立性」という言葉を使うから、弁護人も回りくどいと思われるほど緻密に論じているが、簡単に言えばこういうことだ。
 宇佐美さんが告訴人の意思を確かめたところ、
a)婚約破棄の意思表示が本心からのものではないことがわかった場合、関係は修復するから、ストーカー規制法に違反する行為は行っていないことになる。
b)本心からのものだとわかった場合、諦めるから、ストーカー規制法に違反する行為は行っていないことになる。
 ゆえに、両立性は存在しないのだ。
 宇佐美さんの場合、後者であったから、判示5の段階で告訴人の婚約破棄の意思を確認できたことから、その後、告訴人に会おうとするようなことはなかったのだし、新しい相手と合同結婚式に臨むための準備をしていたのである。



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地裁、高裁の判事はおかしいぞっ。 


3 「待ち伏せ」に関する認定の誤り

(1)序

 原判決は,ストーカー規制法における「待ち伏せ」の要件として,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があることが必要であるとした点は,解釈論として,正当である。

 しかしながら,原判決が,被告人の一審判示各行為には,前記意思ないし目的が存在すると認定した点は,以下に述べるとおり,同認定にあたり合理的疑いが存在したと言え,明らかに事実誤認である。

 すなわち,既に述べたとおり,被告人は,告訴人に対し自らの気持ちを伝えたかったのではなく,告訴人の気持ちを聞きたかったのであるから,「待ち伏せ」の要件としての前記意思ないし目的を欠くと言える。

 また,一審判示各行為がそれぞれ,上記の「待ち伏せ」の要件を欠き,同法の「待ち伏せ」に当たらないとすると,結果として反復性の要件も欠けることになり,被告人がストーカー行為をしたという認定は,まさに判決に影響を及ぼす重大な事実誤認ということになる。
以下,詳述する。

 以下、長い文章が続き辟易されるかもしれないが、主張はきわめてシンプルである。
 
 すなわち、今回のようなストーカー行為が認定されるためには「待ち伏せ」という行為があることが構成要件となっている。(待ち伏せをしていなければ、ストーカー行為とは認定されない)
 そして、ストーカー規制法でいう「待ち伏せ」は「自分の気持ちを相手に伝える意思」「自分の気持ちを相手に伝える目的」がなければならない。相手の気持ちを聞きたいというだけでは「待ち伏せの要件」を欠き、ストーカー行為と認定することはできない。
 
 法的には厳密性を欠く説明になるかもしれないが、わかりやすく言えば、どこかで相手が来るのを待ち、相手が現れたら、「好きだ、一緒になりたい」という気持ちを伝える。
 これだけではストーカー行為とは認定されないだろうが、相手が「あなたのことは好きでない」と表明したのにもかかわらず、反復的に気持ちを伝えることを繰り返す。こうした場合、ストーカー行為になる可能性がある。
 これに対して、どこかで相手が来るのを待ち、相手が現れたら、「私のことをどう思っていますか」と質問する。この気持ちを聞くという行為はストーカー行為とは言えない。まあ、当たり前のことである。

 宇佐美さんが告訴人と接近した場面は5回(公訴事実1~5)ある。このそれぞれの場面での宇佐美さんの行動態様を具体的に分析し、「自分の気持ちを伝える意思ないし目的」があったかどうか、それとも「告訴人の気持ちを聞きたい」だけのことであったのかを、詳述しているのである。
 長文だが、主張構成はきわめてシンプルである。



(2)公訴事実1について

 一審判決は,公訴事実1について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,告訴人の父親がパーキングの精算機で精算を終えて駐車中の車に戻るのを確認した後,パーキングの出入口の横に設置された精算機近くに移動し,同所を出ようとする父親の車の中の様子をうかがっていた行為,
 及び同車内にいた告訴人からは,同所を通過して左折する車を被告人が目で追うような感じで見ていたという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,この当時,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたのであれば,告訴人の父親が精算を終えて車に戻った直後で,かつ車が動き出す前に,同車に近寄って,工藤の父親又は同乗者に話しかけたか,少なくとも,話しかけようとする行動に出たはずである。

 ところが,実際に被告人がとった行動は,父親らが車に乗り込むまで,一切そのような行動をとることなく,精算機の前に立って,車が通過するのを目で追うようにして見ていたに過ぎないのである。
 かかる行為は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。

 すなわち,被告人は,当時,告訴人の父親がパーキングの精算機で清算しているところは目撃したものの(被告人第9回,同尋問調書添付の写真4,現場見取り図),告訴人が車に乗り込むところや,車内に座っているところは全く見えなかった(乙11・原審記録1372丁,第6回公判被告人調書47~48頁)。

 また,被告人は,当時,告訴人の居場所がパーキング周辺のマンション内にあり,そこに留められていると思っていたため,初めから父親の車には父親だけが乗っているのであろうと推測しており,まさか,その車の中に告訴人が乗っているとは認識も予想もしていなかったというのである(第6回公判被告人調書47頁,第9回公判被告人調書8頁)。

 この当時,被告人は,告訴人に意思確認するための前提として,告訴人の居場所を捜している最中であり,告訴人の居場所について何か手がかりが得られないかという思いで父親の車を観察していたにすぎず,この観点から見れば,被告人の上記のような動きは,むしろ自然である。

 したがって,公訴事実1の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(3)公訴事実2について

 一審判決は,公訴事実2について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,GPS機能付き携帯電話からの位置情報により,告訴人の父親の車が新宿の山口弁護士の事務所の帰りに東京都杉並区内を経由し,公訴事実2の道路付近を通過するのを知っていたことから,同所付近を確認するために出かけたという行為,
 及び告訴人は,車内から車の進行方向と同じ方向に歩いているのを見たという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,前記認定のとおり,告訴人の父親の車が,公訴事実2の道路付近を通過することをあらかじめ知っていたとしても,そのような車が一瞬で通過して行ってしまうような場所に,被告人が自らの気持ちを伝える意思ないし目的をもって行くというのは,あまりに不自然かつ不合理な行動である。

 また,被告人が,そのような車の通過する地点において,自らの気持ちを伝える意思ないし目的をもって,告訴人を待ち伏せするとすれば,少なくとも,バイクに乗って行くなど,告訴人の乗った車を追跡できる態勢をとって待ち伏せをするのが自然かつ合理的であるが,実際の被告人の行動は,徒歩で公訴事実2の場所まで行っており,当初から告訴人の乗った車を追いかける気など全くなかったと言える。

 このように,一審判決の認定した事実を前提としても,公訴事実2の被告人の行為は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 被告人は,公訴事実2の場所付近に,過去,GPSの発信記録が多く出た場所があったので,そこがどのような場所なのかを調べるため,同場所に行ったのであり(乙11・原審記録1372~1373丁,第6回公判被告人調書48~49頁),このとき,被告人は,あくまで過去のGPS位置情報に基づいて行動し,当日のGPS位置情報は確認しなかったのであり(第8回公判被告人p2~5),さらに,被告人は,公訴事実2の場所まで歩いて行ったが,その間,同場所付近を走行している車には関心がなく(第6回公判被告人調書49頁,第8回公判被告人調書5頁),告訴人の父親の車も見なかったというのである(乙11・原審記録1373丁,第6回公判被告人調書49頁)。

 この当時も,被告人には,まだ告訴人の居場所自体がわからず,意思確認以前の段階として,居場所を捜している最中であったのであり,この観点から見れば,上記のような被告人の動きは,むしろ自然である。

 したがって,公訴事実2の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。


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寝ころがって考えても、おかしな判決だったなあ。


(4)公訴事実3について


一審判決は,公訴事実3について,次の事実を認定した。
 すなわち,告訴人の父親の車に取り付けたGPS機能付き携帯電話の位置情報により,父親の車が新宿の山口弁護士の事務所に向かうものと予測し,同事務所があるさわだビル付近で告訴人を待っていたという行為,
 及び告訴人は,車内から同ビル前歩道上に被告人がいて,車道の方を向いて告訴人の乗った車が通り過ぎるのを目で追うような感じで見ていたという事実,
 及び,その後,告訴人らが公訴事実1のパーキングに車をとめ,さわだビルに戻るように歩いてくると,被告人がさわだビルの角に移動し,ビルの影から工藤の方を振り向き,再び,ビルの影に隠れるような動作をし,告訴人がさわだビルの入口の辺りに着くと,被告人は同ビルと反対側の歩道上に移動し,その後,告訴人がビルの中に入ると,ビルから離れるように歩いて行ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,当時,告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,告訴人がパーキングの方からさわだビルの方に向かって歩いて来るときに話しかけたはずであり,また,たとえ,そのとき話しかけられなかったとしても,告訴人らが弁護士事務所での打ち合わせを終えてビルから出てきたところを見計らって話しかけようとしたはずである。

 しかし,実際の被告人の行動は,一審判決が認定したとおり,告訴人に話しかける機会が何度もあることを認識しながら,話しかけるどころか,むしろ告訴人が被告人の方に向かって歩いてくると,反対側の歩道上に移動して告訴人に見つからないよう隠れる行動すらとっており,さらに告訴人がビルの中に入ると,その後は,告訴人がビルから出てくるのを待たずに立ち去るという行動をとっており,かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 すなわち,公訴事実2の後から同3までの間に,被告人は,告訴人が新宿の山口弁護士との打合せをするために,父親の車で送り迎えしてもらっていることを把握し,
 公訴事実3の当日も,父親の車が新宿の同弁護士の事務所に向かうことは予測していたものの,杉並区内から新宿の同事務所までは,通常,地下鉄で30分もあれば到着できる距離であるにもかかわらず,わざわざ父親が車で,相模原から杉並区内経由で新宿まで,告訴人を送迎していること,
 及び,30歳を過ぎた大人の告訴人が,両親と一緒に弁護士事務所に相談に行くことに対し,不自然さを感じたものである。

 被告人は,もしかしたら,未だに,告訴人が両親の監視下にあり偽装脱会をしているのではないかと推測し,告訴人と両親の様子を観察するため,公訴事実3の場所に行ったというのである(第9回公判被告人調書15~17頁)。
 そして,実際に被告人が見た告訴人は,後ろから両親に監視されているような雰囲気で,両親とは会話もせず,表情も強ばっており,親子関係が良さそうな印象を全く受けなかったため,ますます,告訴人が偽装脱会中であると考えるようになったというのである(第8回公判被告人調書12~13頁,第9回公判被告人調書16頁)。

 このように,公訴事実3のとき,被告人は,あくまで告訴人とその両親の様子を観察することが目的であり,当初から告訴人に話しかけることは,全く考えていなかった(第6回公判被告人調書53頁,第8回公判被告人調書12~13頁,第9回公判被告人調書16頁)。

 したがって,公訴事実3の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(5)公訴事実4について

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Kの隠れ家。宇佐美さんは右側の細い道でKと会い、咄嗟に塀の内側に身を隠した。 


 一審判決は,公訴事実4について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,告訴人の父親の車に取り付けたGPS機能付き携帯電話の位置情報により,父親の車が新宿から荻窪に向かうことを確認し,以前から告訴人が住んでいるのではないかと思っていた荻窪所在の3か所のマンション周辺の道路を歩きながら同車を待っていると,同車が被告人のいた位置の道路脇から伸びた通路の反対側の通りに停止し,告訴人とその母親が降りるのを確認したが,告訴人らが被告人のいた通路を被告人の方に向かってきたため,通路の脇にあった公訴事実4の野村方敷地内に身を隠したという行為,
 及び,告訴人は,上記通路沿いのマンションに向かい,入口の前で鍵が開くのを待っていると,斜め後ろの方で,がさがさと音がしたので振り向くと,1.1メートルほどの通路を挟んだ反対側のブロック塀の隙間から身を乗り出すようにして告訴人の方を見ている被告人と目が合ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,当時,被告人が告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,前記のとおり,被告人は,公訴事実4の場所において,告訴人とわずか1.1メートルの距離をおいて,身を乗り出すようにして告訴人の方を見ていたのであるから,告訴人に対し,話しかけたはずである。

 ところが,実際に被告人がとった行動は,一審判決も認定したとおり,前記状況においても,一切,告訴人に話しかけることなく,むしろ告訴人がマンションに入ると,公訴事実4の場所から立ち去ったのであり,かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 すなわち,このときの被告人は,当初から告訴人の居場所を探すことだけを考えていた上,予想外に至近距離に告訴人を目撃するに至ったため,告訴人に話しかける心の準備は全くなかったというのであり,
 また,被告人がとっさに隠れた場所は,第6回公判被告人調書の添付写真9に写っているとおり(被告人公判第6回60頁),他人の敷地内であり,話しかけるには不適切な場所であると考えたというのである(被告人公判第6回59頁)。

 したがって,公訴事実4の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。


(6)公訴事実5の前段について

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サウナの階段踊り場。宇佐美さんがソファに座っていると、Kや宮村たちが通りすぎていった。

 一審判決は,公訴事実5前段について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が公訴事実4の際に告訴人の居場所であることを確認したマンションに行って,付近の様子をうかがっていたところ,同マンションの入口に停めてあった車に,統一教会の脱会を支援する関係者と思われる女性らがその車に乗り込んだので,被告人は,バイクで,その車を尾行すると,その車が宮村の住む家の前に停まり,人が乗り降りするのが見え,さらにその車を尾行すると,公訴事実5のサウナセンターの駐車場に駐車したので,先回りしてサウナセンターの出入口付近の階段踊り場で上記関係者らが来るのを待っていたという行為,
 及び告訴人は,上記関係者が運転する車に乗り,途中で宮村も加わった5人で一緒に,公訴事実5のサウナセンターに向かい,駐車場に車を停めて2階の受付に向かう階段を上っていくと,被告人が階段の踊り場の椅子に座って携帯電話をいじっていたが,告訴人はそのまま知らないふりをして階段を上っていき,サウナに入ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,当時,告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,前記のように,脱会支援者や宮村が一緒にいる車を追いかけたりはせず,むしろ,告訴人が居住しているマンションを訪問して,告訴人に話しかけようと考えるのが合理的かつ自然である。

 また,仮に,当初から,上記車を追跡して,その外出先において告訴人に話しかける意思ないし目的を有していたならば,サウナセンターの出入口付近の階段踊り場などで待たずに,最初からサウナに入り,公訴事実5の後段の受付付近において告訴人が出てくるのを待ったはずである。

 しかし,実際の被告人の行動は,前記認定のとおり,上記車に告訴人が乗っているという明確な認識がないのに,脱会支援者の女性が乗っていることを認識していながら,上記車を追跡し,その外出先のサウナセンターの出入口付近の階段踊り場に,わざわざ先回りしたにもかかわらず,被告人の目の前を通り過ぎた告訴人に対し,何ら話しかけようともせず,ただ携帯電話をいじっていたというのであるから,
 かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。

 すなわち,被告人は,公訴事実4の後,同5の日までの間に1度だけ判明したKの居場所に行ったことがあり,そのときも,同所に前記習志野ナンバーの車が停まっているのを見て(乙12・原審記録1378丁,第8回公判被告人調書23頁),脱会支援者の車かどうか関心を持っていたところ,公訴事実5の日に,その車に乗り込む女性を目撃し,告訴人の脱会支援者の一人なのだろうか,あるいは日が暮れたので,習志野方面に帰るのだろうかと関心が膨らみ,その脱会支援者が,どのような人で,どこに行くのか,Kに限らず他の拉致監禁事件で苦しんでいる人のために何か役立つ情報が得られるかもしれないと思い,その車の後をつけることにしたというものである(第6回公判被告人調書62頁,第8回公判被告人調書25頁)。

 すると,その車は,被告人の予想に反し,宮村の家の前に停まったが,このとき,被告人は,宮村宅前で,誰が車に乗り降りしたか,全く見ることができず(乙12・原審記録1378~1379丁),車に誰が乗っているのか,ますます関心が膨らみ,さらに同車の後を追跡したところ,結局,同車は,公訴事実5のサウナセンターの駐車場に入ったので,車に誰が乗っていたのか確認するため,サウナセンターの階段途中にあった踊り場の椅子に座って,彼らが来るのを待ったというものである(乙12・原審記録1379丁,第6回公判被告人62頁,第8回公判被告人26~27頁)。

 このように,被告人が前記椅子に座った理由は,前記車に,K氏の脱会支援者が乗っていると思い,その支援者が如何なる人物か,またどこに行くのかが気になって追いかけた結果,行き着いた場所が,前記サウナセンターであり,その人物の「顔を割るために」,前記椅子に座ったというのであるから(乙12・原審記録1379丁,第8回公判被告人27頁)このときの被告人は,告訴人の存在すら認識していなかった以上,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していなかったことは明らかである。

 したがって,公訴事実5の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(7)まとめ

 以上,公訴事実1ないし5前段における被告人の各行為はいずれも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を持った行為と言うにはあまりに不自然であり,上記意思ないし目的を持っていたと認定できるほど合理的な疑いのない証明がなされたとは言えない。

 よって,ストーカー規制法上の「待ち伏せ」には当たらないというべきである。
 そうすると,ストーカー規制法上の「つきまとい等を反復した」という要件にもあたらないこととなり,結果として,被告人の行為は,ストーカー行為にはならないと解すべきである。 
 

-続く-


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-すべての教会員&統一に反対する家族はぜひ読んでください-



 12年間監禁されていた後藤徹氏の証言がブログ「拉致監禁by宮村の裁判記録」にアップされるようになった。すべての教会員は読むべし!(これまでに紹介したあとに、アップされたもの)

「原告後藤徹氏本人尋問(反対尋問 山口貴士弁護士編)-オタク弁護士のマニアックな質問に『何をおっしゃりたいんですか』と質問する裁判長」
「後藤徹氏兄の尋問傍聴記録-『続けてください』(裁判長)5連発」

(続く)



感想:私がブログで「拉致監禁問題」を取り上げないとイチャモンをつけていた「奇知外記」「韓流サッカーをエンジョイ」のpeace君と「ひだまり」のくろねこさん。宇佐美さんの上告趣意書のアップを再開したというのに、後藤裁判の証言録がアップされているというのに知らん顔。民度、低すぎ。ヘドロはどこまでいってもヘドロだなぁ。
 それに比べて、後藤裁判のことを取り上げている「いつも私のとなりに~」の松戸教会の総務部長さんは、ヘドロを洗い流したみたい。「彼は法廷で嘘をつき続けた。。。「統一教会は嘘つき集団」と言っていた兄の虚言! 【後藤裁判】」。ただ、この人のブログは日本語表記ではあり得ない、行頭ではなく行末を揃えるので、読みにくい。何度か注意してあげているのだが。


いよいよ、詐欺師の馬渕氏が御言葉で金儲け開始!

 馬渕氏が「MCI公式ブログ」で、ついに仮面を脱ぎ、金集めを開始した。
 「残り21日!あなたは『新堕落論?』を知るべき人か?」
 口上が笑えるほどに香具師そのもの。

(引用はじめ)
先回お知らせしました様に、本日、5月16日(木)からセミナーの前日、6月5日までの21日間を、新堕落論?公開キャンペーン「カウントダウン21」というPR期間として特別に設定しまして、さらなる(出来うる限りの)事前情報を提供させて頂きます。

ということで、今日からいよいよ、カウントダウン21日です。
とにかく、泣いても笑ってもあと21日です。
私としては、精一杯のところで提供させて頂きますので、何卒、宜しくお願いします。

(引用終わり) 

♪さあ、鬼が出るか蛇が出るか。入場締め切りはあと2分だよ。
 え~い!木戸銭はもう半額にしちゃう。精一杯のところで勉強させていただきます。♫

 馬渕氏にお金を払いたいのだったら、どうぞご自由に。
 その前に--。
 彼が何を示すかを無料で提供しますので、遠慮なく、個人メールで申し込んでください。それを読んでから、彼の金儲けに協力にしても遅くはありません(苦笑)

コメント

統一教会食口の考えの、耐えられない軽さ。

よね様、ご機嫌よう。

私、今大変悩んでおります。ええ、子育てに関して。
宅の養っております子豚、マーク(小学校低学年、♂)。実は勉強が大好きなんですの。
1年ほど前から懇願されまして、子供たちに大人気の、あの○○じろうの通信教育をやらせております。(これが結構お高く、我が家の家計を圧迫しています。)

ところが、一ヶ月分の教材が届きますとね、それを一日で全部やってしまうんですの。
この年齢から勉強好きなんて、将来が心配です。

えっ?下らない子供の自慢話は、よそでやってくれ!!って。
ノンノン、ここからが本題ですのよ。

実は、このマーク。こんなにも勉強好きなのに、「小学校低学年で、この点数はあり得へんやろ!?」ってな、成績を取ってくるんですの。通信簿は、二重丸(甲乙丙の甲、ね)が4個か5個のみ。しかも、現在の趣味は「あやとり」。好きなアニメは○エモン、とくればもう将来は「のび○か!?」と心配するのは必然、でございましょう。

と言うことで、上記の内容、一部訂正。勉強好きなのにあまりにも報われず、将来がマジで心配です。

ふうっ。よね様は有名大学をご卒業なさった才子。また、今はご母堂様の介護を熱心にされている孝子、でもあられます。今度ぜひ、ご幼少のみぎりのお話等、ブログにアップして下されば、参考にさせていただきたく存じます。

さて、ここまでが前振りです。
ってか、食前酒みたいなものね。つまり、ちょっと酔っぱらいでもしないと、語れない、というか。

そう、宇佐美さんの件、ですね。
私、実は拉致監禁裁判の後藤さんの件に引き続き、この宇佐美冤罪事件に関しても、火の粉ブログを読みますと、強烈な感情を引き起こされるんです。

何故ならば・・・私も「統一教会」の名のもとに、逮捕され、刑務所に入れられた経験があるからなんです!!(なんか、嘘っぽく聞こえる?)ただし、日本で、ではございません。

以前にも申しましたように、私、統一教会内では極めてありふれた「宣教師」なるタイトルを保持しております。つまり、過去に宣教国にて「お前、統一教会の信者やろ。見せしめに逮捕してやる!!」となり、裁判も経ずにいきなりかの国の刑務所に放り込まれたんですの。

ええ、私一人でではございませんでして、計10数名が一網打尽にされました。
刑務所に入る前に、ですね。まず、空港の出国カウンターで拘束され、「HOLD ROOM」なる場所に放り込まれました。何故出国の際、統一教会の信者だと分かったかと言うと、私たちが日本人女性だったということと、パスポートの中の、ある国の入国スタンプを見られた、これだけです。つまり、逮捕されたその時、かの国で私たち食口は迫害の嵐の渦中におり、日本女性で、ある国にある時期滞在していたものが、ターゲットになっていたのでございます。(話し、ややこしい?そう言わんと、まあ聞いて。)

もちろん、なんも違法行為はしておりません。尋問ともいえないような簡単な調書(パソコンの画面をのぞいたら、”こいつは統一教会の信者で・・・うんぬんかんぬん”と書かれておりました。)を作成された後、囚人服にお着替え。

空港の「HOLD ROOM」を出る時は、手錠で数珠つなぎにされ、空港を引き回しの刑。そして、その夜遅く正真正銘の刑務所にぶち込まれた、という次第。

刑務所に入れられる時、なんか訳分からない注射をされたし。素っ裸にされて、両足の間まで見られる。頭髪もふりふりしろ、とか言われる。凶器、とか隠し持ってないか、多分調べるため?まあ、刑務官は女性でしたけど。ものっすごい屈辱的な経験でした。

ちなみに私、統一教会の信者である、という証拠物品は何一つ所持していなかったんですのよ。それで、この扱い!?

「お父様もかつてダンベリー刑務所に入られたじゃないか。」と必死で自分に言い聞かせて耐えました。

その後、一度別の刑務所(拘置所?)に移送された後、日本国に強制送還の刑!!

でね。先ほど私、「私も統一教会の名のもとに、逮捕され・・・」と書きましたね。
そう、宇佐美さんは私の認識では、統一教会員であるため、「見せしめに」逮捕されたんだ、ということなんですね。

ところが、また自分の話で恐縮なんですけど(一応謙遜しておきます。)、帰国してから愕然としたのは、さぞや仲間から同情されるだろう、と思いきや、「あの人たちは勝手な行動を取ったからこんなことになったのよ。」(by私を見捨てて逃げ去ったアベルA)、だの「外的に歩んでたから、逮捕されたのよ。」(同じ任地で歩んだ姉妹)だのと心無い誹謗中傷の嵐に取り巻かれたこと。

もし、もしもよ。篤実なクリスチャンだったら、迫害された仲間を見たならば、その仲間の背後に十字架に架けられたイエス様の面影を見るんじゃないか、と思うんですけど。どうも統一教会というところは、そうはならないようなんですの。

私たち逮捕されたメンバーの背後に、ダンベリーでのお父様の面影を見出した人は、一人もいなかったんですの。

私ね、よね様。あくまで仮定の話ですけど、食口が宇佐美冤罪事件に無関心なのは、彼が統一教会を代表した立場で見せしめにされている、とか、お父様のダンベリーの再来だ、とかっていう認識が極めて希薄で、食口が好きな「先祖の問題」とか、「慰安婦の蕩減」とか、個人的な信仰姿勢の問題、とかにされてるんじゃない?って思うんです。

私の所属教会でも、ほとんど語られることのないこの事件。火の粉ブログの良心的な読者諸兄のように、宇佐美さんが教会を代表して、ある意味全宗教的、全世界的な迫害を受けている、との認識を持ってらっしゃる方もいるでしょうが、そうでないボンクラ食口は、彼(宇佐美さん)の個人的問題だから、自分は関係ないも~ん、とか思ってる気がする。

こういう人たちは、その迫害がひとたび自分に向って襲いかかってきたならば、一瞬たりとも耐えることが出来ません。そう、すたこらさっさと逃げるんです。

ま、でもご安心くらはい。そういう人は神にもサタンにも魅力はないので、迫害されること自体極めてまれ、と言えるでしょう。

え?そういうお前は自分は魅力がある、って思ってる、ってか?

ふふっ、どうかしら。

と言うことで、私、宇佐美さんが無事戻られたならば、是非申し上げたい言葉があるんですけど、それはその時の為に大切に取っておきます。ただ、あなた様は統一教会のゆえに迫害されている、という私の見解はこの世界が崩れ落ちようとも変わることはありません、とだけ今は書くにとどめさせて頂きます。

Re: 統一教会食口の考えの、耐えられない軽さ。

「前振りの話」
 テストで間違う場合、問題文を正しく読むことができないためというのが、かなりの割合にのぼるそうです。

 江戸時代(?)から、教育で大切なのは「読み書き・算盤」といいます。テスト問題を解くより、読書が重要。本をよく読む子は試験問題文が正しく読み取れるのでは。
 算盤(算数)でつまずくのは、小4(数十年前はそうだった)から登場する割合、通分です。
「2分の1」+「3分の1」がどうして「6分の5」となるのか。
 これを理解するのは至難の技です。

 あっそれと、公文的なやり方は良くないみたいですよ。
 その昔取材で知った実話なのですが、小4で微分積分を完全マスターした「公文の神童」がいました。
 ところが、その子、高校に入る頃には公文で覚えたことはきれいさっぱり忘れ、数学が得意ではなくなっていたとか。

「食口さんの話」

 以下は、宇佐美さんと週刊実話の記者とのやりとりです。

-あなたは無実を勝ち取ることより、敏腕脱会屋の存在を世間に知らしめようとする統一教会に利用されたとは思いませんか。つまり“究極の献金システム”と反統一教会側から指摘される“祝福つぶし”を何とか阻止しようという教会側の犠牲になったと。「愛などなかった、信者の義務として探した」と言えば、ストーカー規制法違反での有罪にはならなかったのではないか。

「いや、むしろ教会は積極的に動いてくれませんでした。あの正月には、アベル(上司)がいないからとか言い逃れて、もっと機敏に動いてくれれば、彼女は棄教を迫られる前に家を脱出できたかもしれないのです。今となっては、結局みんなが不幸になってしまった。そんな思いです」

 統一教会員だったから逮捕されたという黒い羊さんの見方は正しいと思っています。

 それなのに、教会員の大半が宇佐美さんの冤罪事件に関心を示さない。何の感情も抱かない。
 黒い羊さんのタイトルをもじれば、「耐えがたいほどの感受性の欠如」です。

 こんなんで、自分のことを信仰者だと勝手に思い込んでいる。
「耐えがたいほどのバカ」というしかありませんね。

感受性の欠如は仕方ないよ。
そんな所なんだからさ。
最初から愛を求めるのは止めた方がいい。
再臨主と信じるなら、その信仰だけ持って周りは気にしないのがいい。
アドバイスは「周りは一切気にするな。自分の信じる通りに行け」ってとこだね。

隣は何を、、

なるほど、同じ日本教会のなかで他のシックが不当に苦しい目にあっていても、「隣は何をする人ぞ」という感じで関心を示さないどころか、先祖と本人の信仰が悪い!などと言って悪者にされるわけですね。

だったら、日本のシックが苦しんでいても、他国のシックがそれを助けようとしないのも、同じことですね。

人は人、自分は自分、自分がたまたま良い位置を得てお金もあるのは、先祖が良いからで、あのシックが苦しんでいるのは、先祖が悪いから?こういう考えはどこからきたんでしょうか。キリスト教の同胞主義ではないから、仏教の因果応報ですか?清平の影響もありそうです。

統一教会がそういう団体なら、聖霊降臨(ペンテコステ)など興るはずがありませんね。文先生昇天後は、ペンテコステがあって大復興がおこるなどと予言する人たちが確かいましたが、その方たちは今は何と言っているんでしょう?

隣に関心を抱く日本食口も!

 隣の苦悩に関心を抱く日本の食口がいることがわかり、少しうれしッです。

「ブームチャイのブログ」の記事「宇佐美さんの耐え難い屈辱」がそれです。
http://ameblo.jp/poomchai/entry-11531915748.html

 是非、ご一読を。

 なお、ブームチャイさんは、馬渕氏の詐欺師ぶりを自らの体験をもとに書かれた方です。



共産党員以下の良心レベル

>「つまみ食い的」は、法律文章として馴染めない形容句だろうが、「高裁判決文」と「控訴趣意書」とを比較して読めば、高裁の事実認定は明らかに「つまみ食い的」と形容する以外にない。


 米本さんが前回の記事のコメント欄で書かれたように、宇佐美さんの告訴、裁判問題、及び有罪判決の問題は 成績目当ての公安警察の暴挙と判検癒着によるものであることが露になったと思います。

 上告趣意書と高裁判決文、控訴棄却判決文とを読んで比較する限り どちらが論理的で事実に即しているか明白です。
 上告趣意書にある「つまみ食い的」という表現に米本さんも納得されましたが、私も素直に共感できる形容句だと思います。
 弁護人が上告趣意書において指摘した「原判決が行なった恋愛感情充足目的に関する事実認定に都合の良い事実のみを根拠事実として抽出する、‥‥」という裁判官の偏った「事実」の取捨選択は それが意図的なものではないかと疑わざるを得ない程露骨なものであり、如何にも不自然です。
そして、米本さんが見抜かれた その動機と目的の醜さには悪臭がプンプン漂っています。

 このような「仕組まれた」有罪判決が私達に見せてくれるものとは、弱者を食い物にしようとする人間の恐ろしい悪意であり、良心を捨て去った人間のエゴの醜さであります。
 過去の冤罪事件を探し出そうとすれば、結構見つかりますし、村木厚子・元厚生労働省局長の冤罪事件も記憶に新しいものです。
 
 宇佐美さんが受けたような判検癒着による冤罪は良心的な人、正義感を持った人にとっては許せないことであり、心が傷つけられる不幸な出来事です。
 しかし、その冤罪であることが間違いない宇佐美有罪判決に対し「教会員の大半が宇佐美さんの冤罪事件に関心を示さない。何の感情も抱かない。」と米本さんに指摘されたことを 真剣に考えなければなりません。

 前の記事のコメント欄に、米本さんが その考えられる理由を列挙してくださいましたが、現実として統一教会員の良心レベルがこのようなレベルであることは深刻な問題であると言わざるを得ません。
 以前の記事に 食口ブロガーに対し、教団本部のIT関係の担当者が「民度が低かったですねえ」と語ったと米本さんが書いておられましたが、特に統一教会本部を中心にこの問題を真剣に考えるべきです。

 これは日本統一教会員の全てに考えて欲しいことなのですが、
もし、宇佐美さんに降りかかったと同じことが日本共産党員、あるいは左翼組織の男性に降りかかったとしたら その共産党、左翼団体は その問題に対して静まりかえっているとお思いでしょうか?
 共産主義思想を前面に出してブログを毎日更新しているブロガー達がいたとしたら、その人達はその問題に一切触れもしないとお思いですか?

 自分の知っている限りでは、それこそ蜂の巣を突っついたような騒ぎになるとしか思えません。特に左翼学生運動が盛んな時代であったら 収集がつかない社会問題に発展する可能性さえあります。

 それを思うと、恐ろしい結論を導き出さざるを得ないのです。
つまり、日本統一教会全体としての良心基準は 共産主義組織の良心基準以下とみなさなければならないのです。
 米本さんが<こんなんで、自分のことを信仰者だと勝手に思い込んでいる。
「耐えがたいほどのバカ」というしかありませんね。>とコメントに書いたのは良心的な一般人の正直な感想であることを知るべきです。

 また、良心的な一般人が統一教会員の非情さを最大限に軽蔑してしまうような現状を知って、特に本部関係の指導者、教会の教育部長といった公職者が何も感じないとしたら、「統一教会の良心」は完全に死滅したという事が言えないでしょうか?

 このような宗教団体に一般人が憧れることなどあり得ないでしょうし、その信者達が理想世界を建設できるなどとは 誰も信じることはできないはずです。

米本さんから、前の記事の私のコメントに対し以下の意見を頂きました。
<ある教えを実践するために組織が生まれる。宗教に限らず、イデオロギー色の強い団体はみなそうです。
 そして、ある教えをその組織が実践していなければ、組織の構成員は怒ります。
 ところが、統一教会はそうではない。不思議な話です。>

私が<しかし、原理のエッセンスは今の統一教会とはかけ離れたところにありますから、統一原理が問題ではなく、現実の教会という組織に問題があることは間違いありません。>とコメントに書いた内容に対する米本さんの感想なのですが、この<統一原理と組織活動が乖離>しているという問題は統一教会という組織の本質を追究する上で、欠かせない問題でありますし、さらに発展させれば「宗教」自体の問題点とも関わってきますので 自分の考えを書き尽くそうとしたら かなり長文となってしまいます。

 ここで即座に答えられることは、<統一原理と組織活動が乖離>しているのは、信者の理性と組織の中での人間関係に対する依存心の働きを比べて、その人間関係に対する依存心が勝ってしまう為だと思われます。
 尚且つ、以前コメント欄の投稿文に書きましたように その組織の絶対的中心者であった文先生が統一原理と大きく異なる李氏朝鮮時代の儒教を思わせるような御言葉を語ることがしばしばあったものですから、その乖離は益々大きくなってしまったのです。

 また、統一教会員ではない米本さんには分かり辛いことなのですが、統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。
 勿論、統一原理の基本である創造原理という理論は理想世界、地上天国について定義付けているのですが、それを実現する過程として一般常識に反する行為を実践することも肯定できる根拠となってしまうのです。

 しかし、その蕩減復帰原理は宗教性の強い理論でありながらも、最終的には創造原理に結び付く理論であり、非常識な宗教活動をして それが蕩減復帰摂理の理論に適っていると主張したとしても、その最終結果が(創造)原理的に善なるものでなければ それは蕩減復帰の行為ではなかったということになるのです。

 その辺りの解釈は結構複雑ですが、組織活動の最終的目的は理想世界、地上天国とされている訳ですから、その組織活動が統一原理と乖離しているかどうかは 理性を失わなければ、客観的に判断することが可能なのです。
 しかし 一方、理性の働きが弱く、人間信仰に偏った信徒は その蕩減復帰原理を拡大解釈してしまい、「スピッツ雌犬」や「頭がpeace」のような歪んだ人間も誕生してしまうのです。

 また、そのような理性的に生きるのは難しいという人間の弱点を利用して、教義を変形して悪用する「重臣」達がいる為、益々統一原理と組織活動が乖離することになってしまい、現在のような矛盾に満ちた統一教会に変わり果ててしまっていると言えるでしょう。

 しかし、統一原理を説いた原理講論については 今までコメントでも書いてきましたが部分的には現実と合致しない記述内容も発見できます。
 つまり、絶対的な教典、完璧な理論でないのは明らかであり、一字一句その文面を絶対化すると真理から遠ざかることになります。
 その原理講論も、実質的に完全な真理とは言えず、部分的な解釈は変更が必要です。
しかし、絶対的真理と確信することが出来、永遠不変の原理として考えられる部分がそこには存在するのです。

 私は、それが創造原理だと確信するのですが、それをここで断片的に説明しますと、暗在さんから哲学的な問いかけが飛んできそうですし、この問題を追究すると また記事のテーマから逸れた投稿となってしまいますので、その論述は別の機会にしたいと思います。

 ただ、今の統一教会には、組織の不協和音が拡大しているという問題のみでなく、教会の「生命」ともいえる「良心」が消えかかっているという深刻な問題も存在していることを全ての統一教会員は自覚する必要があります。

可笑しな原理解釈「アベル・カインの原則」

 統一教会員が「理性より人間関係に対する依存心が勝ってしまう」ことと統一原理の中にある蕩復帰原理の曲解が 統一原理と組織活動が乖離してしまう原因だと考えられるという内容を前のコメントに書きましたが、実例のない抽象的な論理になってしまい 特に米本さんには分かり辛かったのではないかと思います。

 そうしましたら、ブログ村「統一教会」の一つのブログの記事のタイトルが私の目に飛び込んできまして 滅多に見ないそのブログの記事を読んだところ、上の問題を説明するのに最適な例だと思いましたので、その記事の問題をとりあげながら説明致します。

 それは「アベル・カインの原則」ということです。
一般的な統一教会員、特に日本の教会員はこの「原則」というものに束縛されます。
そしてアベル=教会のリーダー、カイン=組織的下位の教会員という図式が作られ 下位の一般教会員は教会のリーダーに「従順に屈服」し、そのリーダーを絶対的な中心として「一体化」することが教会生活の基本だと思うようになります。

 例となるブログ記事を読めば、そのようなアベル・カインの図式を前提としていることがはっきりとわかります。
しかし、その記事のなかで 教会の中に「以外にわかっていない人が多い」として、「アベル・カインの原則」とは「中心とひとつになるということなのです。」と説いているのですが、その小節を読んだだけでも この方が原理講論をよく勉強していないこと、原理を曲解して 自分ではそれに拘っていることがよくわかります。

 そもそもアベル・カインという用語は原理講論の「アダムの家庭を中心とする復帰摂理」に出てくるものですが、そのアベルとカインの本来の意味さえこの方は理解できていません。
 原理講論を読めば、神が長子のカインと次子のアベルを善悪二つの表示体として分立されたのは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てさせる為であったことが書かれています。
 つまり、アベル・カインという用語の本来意味するところは「神が相対できる善の表示体」:「サタンが相対する悪の表示体」ということであって 相対的に善と悪を分立するための言葉なのです。

 原理講論の中にはそれに関連して「人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的にみるならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。」と書かれていますが、組織の指導者=アベル、組織の下位の者=カインなどという記述はどこにも見当たりません。

 統一教会内における組織的な上下関係は 神も干渉できない人間の5%の責任分担によって人事され、決定されたものであることは明らかですから その上位者と下位者の関係が原理的なアベル・カインの関係を意味しないというのは当然のことです。

 教会組織の中心者とは あくまで社会的な組織として体制を保持する為に職権を与えられた人物ということであって、形式的な位置づけに過ぎません。そこに善悪分立の概念であるアベル・カインの関係を当てはめ、無理矢理 教会の中心者=アベル、一般信徒=カインという考えかたをするのは強引であり、論理的にも間違っています。

 キリスト教国の歴史にも王権神授説という骨董品のような政治思想がありましたが、当然それは否定されていくようになりました。
 その王権神授説や教会のリーダー=アベルという考え方をするような間違いが起きるのは 原理講論が説いている「神も干渉できない人間の5%」という人間の責任分担の理論を理解できていない為であると言うことができます。
 組織運営の為に人事担当者によって人事された教会のリーダーが、神様から見たアベル型人物であるというような理屈は成り立たないのです。

 従って、例のブログにおいて「アベル・カインの原則」などと論じていても、そもそもアベル・カインの意味さえ理解できていないのです。
されに付け加えれば、アベル・カインとは神の視点からの観点でありますから、単純に人間的に判断できない場合もあり、内面的な意味合いも強く「原則」などといって形式化できるものでもないのです。

 つまり、例のブログに書かれている「アベル・カインの原則」は用語の前提からして間違っており、書いた人は原理講論さえ理解できていないのです。
 しかし、その方は教会のスタッフで教育と総務を担当しているということですから、マジで驚きます。

 結局、そのような原理講論の曲解と その実践によって出来上がる人間関係及び組織活動によって、統一原理と組織活動が乖離してしまう結果となるのです。
そして、統一原理の尤も重要な理論は、組織活動においては実践されなくなったりするのが現状の統一教会なのです。

 米本さんも 上の例にあげたブログのことは度々取り上げましたが、拉致監禁の問題をキチンと書いたりしていますので、あまり悪いことは書きたくないのですが 間違った原理解釈を見過ごすことはできません。
もし、このコメントを読んだとしたらご理解願いたいと思います。

 最後にそのブログ記事を読んだ素直な感想です。
米本さんが何度か書かれたように、文節の末端を揃えたレイアウトは読み辛いし、いただけません。あえて米本さんの助言を無視しているのかも知れませんが、そんなところにも頑なな性格が表れています。

 「まさに、芸術的なお父様なのです。」という記述には思わず笑ってしまいました。
文節の末端を揃えるようなセンスのない人が「芸術的」という言葉を使うとは、正しくシュールレアリズムの世界です。芸術的と褒められた人が可愛そうです。
 その教会スタッフ様は もっと知性とセンスを磨きましょう!

個人に対してとやかく言うよりも、責任者になった方が早いよ?

責任者になって自分が思うようにやればいい。

自己破産するまで、罪滅ぼし

 神々の黄昏さんの「共産党員以下の良心レベル」を読んで。

 コメントのコメント、感謝です。

>その蕩減復帰原理は宗教性の強い理論でありながらも、最終的には創造原理に結び付く理論であり、非常識な宗教活動をして それが蕩減復帰摂理の理論に適っていると主張したとしても、その最終結果が(創造)原理的に善なるものでなければ それは蕩減復帰の行為ではなかったということになるのです。

 統一原理については無知ゆえ、オカド違いになるかもしれませんが、この記述を読んで考えたことです。

 統一さんは「罪滅ぼし」とか「罪を償う」とった言葉が大好き。というか、蕩減用語にものすごく呪縛されているように思えます。

 一般的に、「罪を償わなければならない」といった深刻な事態になった場合、まず自分はどんな罪を犯したのか、イメージではなく、具体的事実に即して真剣に考えます。
 そして、そのことが認識できれば、その罪の質に見合った罪の償いをします。

 たとえば、心ない言葉によって、他の人を傷つけたのなら、その人の心の傷が癒えるような形で謝罪し、同時に、「どうして自分は他の人を傷つけるような言葉を発したのか」内省し、自分の欠点を克服しようと考えます。それによって、ときには傷つけた相手とよりよい人間関係が結ばれることだってある。

 内省と謝罪は対の関係にあり、内省なき謝罪、謝罪なき内省は全く意味がありません。

 このように考えていくと、「罪を償う」という行為は、人間を成長させます。

 この意味で、次の一文は理解不能でした。

>統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。

 非常識が肯定されるような理論は、理論としては欠陥だと思います。


 ところで、今の統一さんの「蕩減」は、罪がきわめて曖昧模糊としており、イメージ的すぎる。
 人間的営為に結びつかないどころか、教会員を苦しめている。
 罪を償うという行為が貨幣(財布)と直結し、滑稽なことにトーゲンの結果、自己破産をもたらしている。罪を償った結果、その人が不幸になる。一般社会では信じられない話です。

 だいたい教祖が亡くなれば、2代目が中心になって、矛盾や欠陥もあった教義を整理整頓し、時代にふさわしいものに発展させるものです。そうした宗教団体は伸び、そうでない団体は滅びていく。
 統一の場合、後者の道を歩んでいるように思えます。

 舌足らずで、メンゴであります。

となりの困ったさん

 神々の黄昏さんが紹介してくれた「いつも私のとなりに神さま」の記事を読んで、つい笑ってしまいました。
http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/362851598.html

 統一原理のことは知らなくても、矛盾したことに気がつかず、述べていることがわかるからです。

(引用はじめ)
アベルカインというのは、原則ですが、以外に(ママ、正しくは意外に)わかっていない人が多いと思います。中心とひとつになるということなのです。
(引用終わり)

(引用はじめ)
アベルはカインに対して「あなたたちは間違っている。カインはこうあるべきだ。絶対従順!」
そのようにして、み言を利用して相手を裁いてしまうのです。
(引用終わり)

 中心が誰を指すかは文脈によって異なるようですが、教会単位なら教会長、組織全体なら韓鶴子氏でしょう。
「中心と一つになる」ということは、具体的にいえば「中心の心と一つになる」「中心が願っていることと一つになる」というでしょう。

 中心にいる韓鶴子氏とて、神ではなく、たんなる教祖の妻だから、間違ったことを指示する場合もあります。

 その指示に従わなければ、当然、「中心と一つになっていない」と、上司は部下を叱責し、それでも中心に服従しなければ裁きます。

 それは当然のことです。

 省の事務次官-部長-課長-係長-係員の関係と同じです。本来なら、事務次官と一つとなって、省をあげて一つのことに取り組み、邁進しなければならない。しかし、事務次官の方針が間違っていれば、係員はサボタージュします。そうなれば、上司は係員を裁く。
 世俗では、よく行われていることです。

 となりさんは、イメージをもとにブログを綴るから、困ったさんです。

>米本さんが何度か書かれたように、文節の末端を揃えたレイアウトは読み辛いし、いただけません。あえて米本さんの助言を無視しているのかも知れませんが、そんなところにも頑なな性格が表れています。

 となりさんのお子が父さんの真似をして、原稿用紙に文節の末端を揃えて文を書いたらどうなるのか。彼は、そんなことを想ったことはないのでしょう。
 ちょっと溜め息が出ます。

 2世教育云々と、スコラ的なことを書くのであれば、原稿用紙の正しい書き方のお手本を子どもに示すことのほうが大切だと思うのですが・・・(泣

 ところで、aさんが神々の黄昏さんに、こんなことを書いていました。(aさん、タイトルはつけて)

>個人に対してとやかく言うよりも、責任者になった方が早いよ?
責任者になって自分が思うようにやればいい。

 気分感情はわからないでもないのですが(感情には劣情感がある)、今の統一さんで、統一原理のことを真面目に真剣に考えている人が責任者になれるとお思いですか。

「統一原理のことを真面目に真剣に考えている」教会員は、ほとんどすべてと言っていいほど、統一から離れています。

 そのシンボル的なエピソード。
 元会長の神山さんがアメリカの神学校で学んだ10名前後の教会員を日本・統一の教会長にしたことがあったけど、ほぼ全員が統一から退会してしまった。

 統一原理のことを真面目に考えている人は、スポイルされるのです。おそらく、ご存知だと思いますが。

 個人的なことになるけど、勝共の渡辺芳雄さんあたりが日本の教会長になれば、雰囲気ばかりか、人の配置は全く変わると思っております。

 まあ、統一さんが消滅しないための最後の砦になるような人は数人いますが、今のままだと「神々の黄昏」さんが責任職につくようなことは100%ないでしょうね。

 ところで、オルタナティブ。
 神々の黄昏さん、ブログを開設しませんか。
 タイトルは「統一原理を考える」
 座して崩壊を見るよりは、ダメ元で発信したほうがいいと考えます。
 どうかご検討を!

 翔子さんも、きっと大賛成ですよ(ニカッ)。

「蕩減復帰原理」の追加説明

>この意味で、次の一文は理解不能でした。

>>統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。

> 非常識が肯定されるような理論は、理論としては欠陥だと思います。


 米本さんは「統一原理については無知ゆえ‥‥」と仰いますが、文章の中にある問題点を見抜くその鋭さは 流石その道のプロであると感服しております。

 自分で書いたコメントを後で読み返して、表現としては不適切な部分があったように思われて、正しく意味が伝わるか不安を抱いたその一節や、説明が抽象的で意味不明となってしまった文章については 度々、その問題ある一文を指摘されることがあります。

 今回も、まさしくそのような問題ある一節を指摘されてしまいました。
しかし、丁度よい釈明の機会ですので 指摘された一文の内容を もう少し詳しく説明しようと思います。

 まず、「蕩減復帰という理論が大変厄介」であるというのは、決して難解であるという意味ではありません。
 それは 統一原理の歴史観がキリスト教的であり、出発点において人類始祖が堕落したことになっている為、そこから生み出された人類は堕落人間であり、その社会は堕落した社会であるというものであり、進化論的な人間観、歴史観とは大きく異なっているのです。
 その為、その人類始祖が堕落したという前提に立った蕩減復帰の理論は その人類の堕落を信じない一般人には理解し辛い理論であり、説明するのに手間がかかることになります。
さらに、その中心テーマが罪と贖罪、善と悪という宗教的で、抽象的な題材である為 解釈が分かれたり、拡大解釈されたりする恐れもあり、的確に理解する為には ある程度の思考力が必要なのです。

 そこで蕩減復帰原理について述べれば、蕩減復帰の理論から判断する善なる行為、悪なる行為とは 一般的な道徳と必ずしも一致しないのです。
 つまり、現実社会が悪なる社会であり 一般的な人々も堕落人間であるという観点が前提ですから、一般社会や一般の人々を否定するような行為も時として善として肯定される場合があるのです。

 そういう意味では、共産主義思想の革命理論と似た側面があり、その現実社会=悪という発想を参考にすることもできます。
 統一原理の歴史観では ユダヤ教(イスラエル民族)→キリスト教会(国家)→統一教会というのが神側に立つ善の本体ということになりますから、その善の本体に敵対するサタン側の勢力を攻撃することは 神によって肯定されることにもなります。

 その典型的な例としては モーセの時代、イスラエル民族がカナンの地域に王国を建設する為に、それまでそこを領有していた31の王国と戦争して侵略したことや、そこに住んでいた住民をミナゴロシにしたことは蕩減復帰原理の歴史観に立てば善なる行為とされるのです。
 また、アブラハムの時代、アブラハムの正妻との一人息子であるイサクを「はん祭として捧げよ」という神の命令を受けたアブラハムが、その生きた我が子をコロして宗教的な供え物として捧げようとしたその行為も 完全に善なる行為となるのです。
 その実子をいけにえにする行為などは 非常識という言葉では済まされない程、常識離れしていますが、蕩減復帰原理によれば 論理的に正当化されるのです。

 ちなみに、米本さんには断っておきますが アブラハムがその子イサクをはん祭として捧げるためコロそうとした時、神は「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言われて、結局神は イサクコロすなと命令を変えたのです。ご安心ください。

 そのような例にあげた、一般的な常識的道徳からは決して肯定されないことが、蕩減復帰の理論を基に考えれば肯定されることになるのです。

 しかし、そのような極端な例は 時代背景とも関連した特殊なものであり 蕩減復帰原理によっても、現代社会においては同様のことは肯定されなくなります。
つまり、蕩減復帰の思想に従えば 時代と共に善悪の基準も変わることになるのです。

 ただ、そのような複雑な善悪観に立っている為、思考力の足りない人、あるいは浅い人は蕩減復帰原理を拡大解釈して、「アベル・カインの原則」などという屁理屈を作ってしまうこともある訳です。

 この蕩減復帰の思想は、キリスト教的な観点に立たなければ理解できない宗教的なもので、その前提が変わってしまうと その思想に対する真偽の判断も変わってしまうので、大変厄介な理論とも言えるのです。

 次に「a」さんの私のコメントに対する意見には、暗在さんの場合と違って 反応する気さえ起こりませんが、米本さんがそのことに触れたので一言申し上げたいと思います。

 そこに書かれている内容自体「a」さんの読解力に疑問が沸いてくるコメントです。
私が他の人の原理解釈について追究するのは、そこに明らかな間違いがあるからであり、その間違いを指摘し、批判しながら 自分が考える正しい原理の捉え方を説明するのは、その人の思考を深める材料になるであろうし、それを読む第三者の統一原理に対する理解を深める参考にもなると思うからです。

 つまり、私が自分の組織運営方法をアピールする目的でコメントを書いているのではないことは 人並みの読解力があれば理解できるはずです。

 私がコメントを通して伝えたいと思う意思は「真理、真実発見しよう」ということであって、それによってしか統一教会が変わることはないと思っているのです。

「a」さんは あまり真理追究には関心がなさそうで、「相対基準が合わない」人との議論に時間を割くほど私も暇ではないので、これ以上何もコメントする気になれませんが、最後に一言だけ差し上げます。「読解力を磨きましょう!」

 そして、米本さんからブログの開設を勧められましたが、諸事情から実名を出して記事を書くことはできませんので、その資格がないと思っています。
また 統一原理については、絶対真理であるという確信がある部分がある一方、真偽を判断しかねる部分が多くあり、考察中ですので どこまで統一教会という組織を肯定できて、どれだけ否定できるかも定かではないので、断定して言えることはまだ少ないのです。

 それに加えて時間的な問題もあり、まだその意思がないとお伝え致します。
しばらくは、米本さんと仲良くやって行こうと思いますので、宜しくお願い致します。
 

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