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フリーライター 片桐軍三の死から一年 小林 峻一(片桐軍三さんの死を考える会)より転載 ■側頭部に加えられた暴力による死因 この十二月二十一日で、片桐軍三が死んでから早くも一年。ほとんど何事もなし得ていないのではないかと不安になる。 片桐が池袋の街頭で意識不明のまま倒れていたのは昨十二月二十日午前一時前後のことだった。口や鼻の周りを血だらけにし、上着、右手甲、カバンに点々と血痕が残り、ズボンも臀部が血尿(?)でぐっしょり濡れていた。眼鏡の左のガラスは割れ、腕時計もはずれていた。 救急車で近くの池袋大久保病院に運ばれたが、ほんの申しわけ程度の診察、治療ののち、意識は未回復のまま、追い出された。二番目の病院で脳切開手術を受けるも、容態は好転せず、二十一日朝、無念のうちに死んだ。 解剖担当医の死体検案書では、右側頭部に加えられた暴力によって生じた脳腫瘍がその死因とされたが、警察はほどなく自過失死と断定しはじめた。 ■友人・知人たちで「考える会」を結成 「片桐さんの死を考える会」(以下、「考える会」と略)は、年末のあわただしさのなかで結成された。中心となったのは、マスコミ関係の友人、知人たち。次の四つの課題が会の目標として設定された。 1.池袋警察署の捜査を監視し必要な批判をおこなう。 2.池袋大久保病院の医療過誤を告発する。 3.印刷物を逐次刊行し死の真相を大衆に周知していく。 4.「片桐軍三がめざしたもの」を主題に研究会を開催する。 これに基づき、「考える会」は一年間、活動してきたわけだが、その主たるものは、裁判と広報活動であったといえよう。 裁判は、片桐遺族(夫人と三児)を原告とし、池袋大久保病院および同病院の当直医・Nを相手どり、損害賠償と慰謝料を請求する民事訴訟。 「頭部に重症を負わされ、昏睡状態に陥った片桐軍三が最初に担ぎこまれたのは、事件現場近くの池袋大久保病院でした。放置すれば死に直結する頭部の重症を負いながら、しかし、片桐軍三は大久保病院で、適切な治療を受けることができませんでした。昨年春に医師免許をとったばかりの、未熟なアルバイト当直医・Nは、頭部外傷による昏睡と泥酔による昏睡との区別すらできず、駆けつけた片桐夫人と二人の仕事仲間に、彼を引きとって帰ることを強要したのです。 片桐軍三が酒に酔ったらどんな状態になるのか---知り尽くしている夫人と仕事仲間の懇願にもかかわらず、とった処置といえば、リンゲル液を一本、点滴しただけでした。 『急性アルコール中毒です三〜四時間もすれば醒めますよ』・・・これがN医師の診断だったのです。この誤診が頭部外傷の発見と治療の遅れを招き、片桐軍三を死に追いやってしまいました。」(「考える会」機関紙�いなほ�号外・五月二十三日付) ■医療過誤の告発と死の真相追求 提訴は四月十七日。今年中の公判は四回。何度かの書面交換が行われ、争点がしぼられてきているが、同時に、病院側の論理矛盾も露呈してきている。が、優劣は予断を許さずさらに一〜二年の争いが続くことになるだろう。 「考える会」にとって、医療過誤を告発し、カネを取ることばかりが、この訴訟の目的なのではない。あわせて、片桐の死の真相に少しでもアプローチすることができるのではないか、という期待がある。その意味においても入手したかったのは、司法解剖結果を記した死体鑑定書なのだが、検察庁はこれを拒否した。理由は、捜査継続中だからというのであった。 ■捜査当局の意図的なあいまい性 ついでに言えば、当局はこれまで、捜査が続いているのか打ち切ったのか、あいまいにしている。ある時は打ち切ったといい、また別の時は継続中という。たとえば、事件数日後、新聞(三大紙等)には打ち切りと発表、二月の国会では鋭意捜査中と答弁、六月�東京タイムズ�紙に打ち切りと発表、そして今度、前述の如く、捜査継続中を理由にしているといった調子。多分、相手によって両者を意図的に使いわけているとみなしていいだろう。 さらに言えば、捜査の現状は、打ち切り同然のペンディング状態といったところだろうと推測される。捜査員は一人も動いていないだろう。捜査続行中なら不可欠なはずの、片桐の遺品もとっくに返ってきているではないか。一件書類も警察署の書類棚の最上段に放置されたまま、ほこりにまみれていたらまだましなほうで、あるいは、すでに倉庫にしまいこまれているかもしれない。万が一、有力な何かが出てこない限り、捜査が再開されることはないだろう。だから、法廷で鑑定書提出を拒否するのに捜査継続中を理由にしたことは、ほとんど虚偽である。 ■機関紙「いなほ」の刊行と今後の課題 「考える会」が力を注いできたもう一つの活動は情宣広報活動。新聞・雑誌には機会あるごとに寄稿、各種会合にも出席してアピールそしてビラまき--- ---なかでも「考える会」の機関紙としての「いなほ」はほぼ月一回のわりで刊行され、会員への通信・会の結束手段の役割を果たしてきた。十一月に第八号、十二月に第九号を発行予定、発送は二〇〇人に及ぼうとしている。 そのほか、この夏には、片桐の郷里である長野県下伊那郡根羽村を訪ねて墓参、両親、兄弟から幼少年期のことを聞き、また、彼の母校である立命館大学では、先輩、同僚たちから学生時代の様子を知ることができた。 このように一年間をふり返ってみると、案外といろいろなことをやってはいるのだが、しかし、なんとなく不満を感ずるのは、真相解明への歩みが遅々として進まないこと、片桐のやり残した仕事を継承・発展させる仕事がほとんど着手されていないことによると思われる。 後者は、時間をかけ態勢を整え、じっくりと取り組むべき対象であるが、前者はあんまりのんびりしてもいられない事柄である。医学側からの解明、管轄署からの情報収集、キャバレー(片桐が最後に立ち寄ったとされている)従業員のわり出しと接触等々、ただちにとりかかるべき方途がいくつか残されたままになっている。二年目を迎える「考える会」の今後当面の課題というべきだろう。 ■「考える会」への結集を呼びかける 「片桐軍三さんの死を考える会」は、あくまでも個人参加の会です。政治組織、党派に所属する人でも、個人の資格で入会できます。幅広く多数の方々が参加、結集してくださることを期待しています。申し込み先は左記の通りです。 東京都新宿区百人町一-二三 たいまつ社気付 後藤護Tel 371-1590 (七八・十一月記) (補注:第四回公判では、なぜか死体鑑定書は提出されたが--- ---。) 片桐軍三氏の略歴 (「追悼・片桐軍三」などより要約・抜粋---編集部) 1941年 8月 長野県下伊那郡根羽に生まる。 1960年 3月 飯田高校卒業 1965年 3月 立命館大・文学部哲学科卒業。 卒業後は競馬新聞や実用書出版にたずさわる。 1968年 10月 新人物往来社に入社 1976年 2月 フリー編集者として、たいまつ社嘱託。 ルポライターとして文殊社に参加。 1977年12月21日 死去。 文殊社の仕事の一つには1976年5〜9月までは、文芸春秋(ドキュメント狭山事件・佐木隆三)の取材があった。 それ以降は、文殊社の独自取材として、狭山事件にとりくむ。 この間、元所沢署長細田行義氏の証言を引き出す最初のきっかけをつくった。 細田証言の重要性は、亀井トム氏と栗崎ゆたか氏(文殊社)の共著「狭山事件・無罪の新事実」(三一書房)にくわしい。 |
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