(ニ)奈良朝の医者、呪術師(呪禁道と禁厭呪符)
前述の如く、私達の先祖達が神々の単純素朴な呪詛行為を試行錯誤しながら継承して居った六世紀末頃に新羅(朝鮮)の百済王が、天文科学、その他の先進技術、仏教経典・・等と共に、呪禁師(ジュゴンシ)達を、我が国の朝廷に献上した事から次第に隆盛となった呪詛法(道教仙術=民間の呪術信仰)が呪禁道(ジュゴンドウ)であった。
始めは、時の日本政府はこの呪禁師達を典薬療の医療期間の治療師(医者)として優遇した。彼等呪禁師達に委ねた専門の仕事は神秘的で不可解な出来事(事件)に対する原因と対策を究明検討して、それを治療する治療師としてであった。
だが、彼等はそれ等の仕事に飽き足らず、徐々に時の政府の要請を利用し、予防学、予知学としての占術部門(巫術、巫占、仙術等)へ、更に、道教仙術等を媒体として、攻撃的な武器(体術・武術幻術・経絡気孔(気功術)・鍼灸・・・等の原型)としての呪術を発展させ、次第にその勢力を拡大して行ったのであった。
さて、神怪、物怪、霊の祟り、障り、呪詛、憑依、天災、人災、病災、異常気象、その他、人事全般に至る相談者、医者、予防治療学等の権威者であった呪禁師達はその地位を利用し、政治行政軍事・・・等々へとその勢力を拡げ、終には軍事顧問の地位を確保するに到ったのである。
(参考、中国の道教には教団道教と民衆道教とがある。教団道教は[老子、荘子]を開祖として、自然に即応した無為自然な生き方(仙人になる事)等を理想とした哲理を基礎として、更に、養生法、錬丹法、房中法・・・等が加味され組織体系化された宗教である。民衆道教とは民間俗信仰に古来の神仙説が加わり、一般民衆の信仰対称として疎せく信仰と仙人伝説等の思想が加わり自然発生的に出来たのが民衆道教で、教団道教のような理論も組織体系を持たない旧来の俗信仰をそのまま受け継ぎ継承していた。民衆道教の代表的な神々には闇帝(アンテイ)、娘娘(ニャンニャン)、多くの土地神様・・等がある。でも民間道教の主神は一応「玉皇大帝」と云われている。)
彼等の呪詛法は、未だ一対一では有ったが、防衛に優れ、敵を排除する上では、距離を無視し攻撃出来る術を兼備していたが為に、当時としては「戦闘武器としての呪いのスペシャリスト」としての地位を確保する必要十分条件を満たしていたと云えるもので有った。
それでは、彼等の呪詛法がどのようなもので有ったかを、「大宝律令、続日本書紀、神明経、日本霊異記・・・」等から推測すると、凡そ、次の様なものと要約出来る。
(イ)、仙術的、武術的、呪術的な一種の護身法(バリヤ)と呼べるもの。
彼等が言うには、この呪禁道の呪術仙術を身に付けると、熱湯、火、刀剣・・・等にも損傷される事が無い強靭な肉体と、猛獣、虎狼、毒虫、精魅(物怪)、怨敵、盗賊等々、如何なるものも、襲い来たる事も進入する事も出来ない強力な結界(バリヤ)を張り巡らす事が出来ると云うものであり、当時としては画期的で斬新な呪詛法であると云われた。つまり、不死身で無敵の人間になれると云う売り込みであった。
彼等の云う呪詛法の修業は定かではないが、過酷な身心の鍛錬に依ってのみ身に付ける事が可能な武術的仙術的体術で、現在の気功法、太極拳・・等の原型。日本の相撲や柔術、忍術武術・・・等とも云える呪詛法で有ったようである。
(ロ)、呪禁道の呪詛法はこれ以外でも、怨敵が如何なる場所や遠隔地に隠れ潜もうとも、呪い殺す事が出来ると云う「厭魅(エンミ)法」。動物の魂魄(全ての霊魂・動物や虫・人間・使い魔・・・等)を操り外敵害敵を呪い殺すと言う「蠱毒(コドク)法」。併せて厭魅蠱毒法と云う恐ろしき呪詛法が存在していた。
呪い人形(形代)等にて呪い殺す呪詛法が厭魅法、動物の魂魄(霊魂)や動物、虫、人間そのものを操り呪い殺すテクニックを行うのが蠱毒法である。後世の呪詛法の中にも、この厭魅蠱毒法を原型とする変態的な呪詛が多いので、少し詳しく補足しておきたい。
始めに、厭魅法の「厭」とは、魘とか嫌悪等とか同意義にて襲われる意味がある。又、厭+土=圧(アツの旧字体)とも云われ、その字義の通り、悪魔等に教われる意味とか、それ等を(悪魔や悪霊等)を抑え込み鎮める意味であった。又、厭魅法の魅は物怪、化生、妖怪、病魔、睡魔、夢魔・・・等々の邪悪な者達。池や沼に住む精霊達・不快な者達。障りあるもの・邪気・意生・・・等人を害するもの等にて、魔性の全てを指す言葉の意味であった。上記の意味から、厭魅法にて呪詛をされると、遠隔地や如何なる場所に潜み隠れ住もうと関係なく、何か邪悪な者に憑依され、何かに圧迫され金縛りの状態で操られている状態となり、更に毎夜毎夜、一定の時間になると悪夢などに襲われ、その恐怖から不眠不休の状態となり、体は衰弱し、次第に精神が錯乱狂乱して行き、終には死に至らしめる事を目的として考案された奇々怪々な呪詛法なのである。つまり人間が鬼神化して行う現代のオーソドックスな呪詛、〈丑の刻参り〉の原型がこの時代に既に出来ていたことになる。
それはともかく、厭魅法の中、厭法の呪詛とは呪う相手を人形に見立てた〈呪い人形(形代カタシロ)を作る事から始まる。人形の材質は千差万別で、板、布、葦、藁、粘土、飾身具、骸骨・・・等何でも良く、人に作る所を見られない条件の他は、何等特別な条件は無かった。又、色彩、形状にも拘りがなく、曲がりなりにも人形と目鼻を書き入れれば良かったようである。
(参考、時代と共に、この厭法も多少形式的な拘りが出来てきた。平安朝の厄払いであった雛人形〈流し雛〉もこの風習の流れである。密教陰陽道が盛んになると、少々不気味な様相を呈する。形代も、葦、藁が多くなり、又、形代に変わるものも、頭髪、陰毛、櫛、絵像、下着、所持品、粘土等々も追加され、生年月日、生命、名前等も大いに利用された。又、呪者の衣類の色にも拘りが出来、向かう方角、時刻、日、期間、月の満ち欠け・・等々にも既定が設けられた。一般人と行者(祈祷呪詛の専門家)が行う呪詛形式には随分差異があったようである。人間が怨念に依って鬼神化出来るか否かは異論も多いが、鬼神となって、人を呪う行為は、如何に止むに止まれぬ行為だとしても、人を殺傷する目的の為に呪詛法を考案し呪詛する行為は決して許されるべきものではない。それでも、賛否両論があり一部の人々に受け入れられたのであった。人間が社会生活を営むには、多少なりとも止むに止まれぬ行為が跡をたたないのが現実だからだろうか・・・・・。)
とにかくかくして、人形が出来上がると、深夜の一定の時間と期間を定め、法に則り、寺社、墓他、深山、大木の阻・・等にて、人形(形代)の顔、胸、腹、陰部等々の急所に、針や、釘等を金槌にて、恨みの怨念を込めて打ち込んで、満願となったなら、逆さに貼り付け、刀やハサミにて、切り刻み、火で焼く、川に流す、神社(寺院)の縁の下、道路に捨てる等々恨みの強弱に依り千差万別方法があった。勿論、その効能も千差万別であったようだ。形代を紐等で縛ったり、針、釘を打ち付けたりする行為は紐、釘、針・・等に魂を封じる力があると解釈されていたからであろう。又、逆に刀や挟み等はそれを「切断したり、削除したり、開放追放したり」する力があると考えられたのであろう。形代等を切断したり、壊したり、流したり、土に埋める等々の行為は魂の「悪霊部分・魔性部分」等を特定の場所に送る為の転移、再生、転生・変易変容等の儀式等と考えられる一面もあった。今に残る慣習としては厄払い節句の雛祭りの人形・流し雛・灯篭流し・盆の送り火・正月の締飾りの釘止め・丑の刻参り・・・等がある。又、神仏の像に針や釘を刺し願望成就の祈願の奇習、更らには、神仏像(神仏像の額に針や釘等を刺してあるのは、神魂・佛魂を神仏像に封じる為のもの) に針や釘、刀等を刺す等の奇習をしたり、願望成就を完璧しようとして神仏像を熱湯等に入れたりする鉤召法の秘儀も伝承されている。これ等は主に密教神道陰陽道が行う鉤召法の一つであり、その中に飯網法(茶吉尼天法)等々も継承されている。又、生贄等を捧げる不可怪な秘儀秘法等々、人型(人形=御幣も人型)に魂が宿るとした厭法を基礎としたと思われる怪異な儀式、風習、奇習、奇祭・・・等が今も結構多いのに驚かされる。
(参考、厭法の呪法は主に祈願札の発達と大いに関係がある。故に、悪法のみに利用されたのではなく、汚れを封じ、穢れを拭い去る、祓い清める等の意味から、浮気封じ、厄払い、家出人の足止め、病気追い出し・・・等種々応用範囲の広いものであった。しかし反面人を呪う呪詛法にも即様変わり出来るものでもあった。)
前述の神々の呪詛は、言霊と同じくその他のものにも霊魂が宿るとの信仰から始まった。厭法はこれに〈文学〉にも霊魂が宿ると云う思想を併せて呪符(祈祷札)を作った所にその特性があると思われる。そこに後述する邪霊を操る魅法が加わり厭魅法と云われる恐ろしき呪詛法が完成されるに至ったのである。
だが、この厭法の呪詛を解く方法はそんなに難しい方法ではない。相手(敵対する者等)を赦そうとするなら、呪う行為を中途で止めれば良く、逆なら、呪う者の呪い方法を探り、形代等を取り除くか、当事者が和解すれば良く、又、呪う者の能力にも大いに関係が有ったのである。これ等の意味からは、厭法は仙術的自然流的呪詛法であり、人間の悔悟を促す意味に於いて、まだまだ素朴な呪詛形式といえるだろう。又、厭法は神仏に捧げる生贄の儀式や蘇生の儀式等に使われる生贄や殉死、人柱などを人形(形代)に変え形骸化したと云う歴史的な意義も大きい.又、日本の墓相形式「殉死・順死・葬儀方法・人柱・・・」等にも多大な影響を与えたのであった。
次に厭魅法の「魅法」について説明すると、魅法の呪詛法は呪いの為に所定の呪い文字を書いた札(呪符)を作成する事から始まる。つまり、これは言葉だけでなく象形的な文字にも霊力が宿るとの思想信念があってのことであった。
さて、札の材質は、木切れ、木葉、布、紙、金属、骸骨、動直物の革や繊維・・等々色々で有り、又、札の中央部を縛る覆いや全体を隠すもの等は他の呪者との区別の為のものであり、自分の呪法を他に知られ盗まれる事を危惧して使われ出した。それ等も始めは布きれ・縄・糸・藁・蔦、藤・植物の繊維・・・等と種々雑多であった。呪字を書く筆具も血、墨、葉汁の他、釘、先の尖った者、妖しげな物の筆状のもの等とか、手の指に浸けて書いたものも多かった。札の形状は菱形・円形・方形・・・等種々雑多であった。次第に搭形・燈形となり、現在の上部を三角形の細長の長方形が一般的となり、誇張や権威を込めた自らの符牒を印した呪符をも作出して行った。とにかくこうして準備したもので、多少の呪文もあり・・・それを唱えながら、人に見られない様に注意を払い、人知れず密かに呪字を書き、作法も行い一定期間、早くて三日間か七日間。通常は二十一日間。長くて百ヶ日〜一ヶ年に渡り怨念を凝らすこともあったようである。全てが終れば呪符は恨みの強弱にて、燃やして灰とし、土中に埋めたり、川に流したり、切り裂いたり、墓場に棄てたり・・・等色々な工夫が凝らされた。つまり厭法と似た事を行い、呪いのある者、敵対する者、怨霊・・等々害する者を呪い殺そうとする呪詛法であった。たが、反面、前述の神道の魔性を祓い清める(大祓)等に類似する呪詛法でもあった。
魅とは前述の如く「化物、妖怪、物怪」等々の意味で、精霊に通ずる意であった。つまり、魅法とは人型以外の形状の「札状」のものに呪文や呪字にて、邪悪なものの妖力を封じた呪符(魔呪+マジナイ札)を作り、相手を滅す道具(武器)として利用、応用した所に厭法と違った特性が有ったようだ。
(参考、厭法も魅法も考え方によっては素晴らしきもので、本来は共に悪魔封じや災難除等のマジナイ札で有ったようだが、魅法はこれより一歩前進し、邪霊、物怪、妖怪等を鎮める方法「淨霊・除霊・鎮魂・・・」等から、特定の〈もの〉に封じる方法「霊封じ・神封じ・悪魔封じ・・・」等となり、更には、邪悪な者を駆使する方法「霊寄せ・神寄せ・興神・生贄・供養・・・」等を考案し、他に転移させる方法「神移し・霊移し・霊祓・・・」等を考案した事に特徴があった。魅法に良く見られる文字に後で説明する陰陽道でも利用される「霊、宿、動の字・合成文字・呪い用の特殊文字pシッタン文字・サンスクリット・梵字(仏の種字を示す為に考案されたもの)」等もあるのであった。)
そして、この魅法と厭法が合体して、より協力となった呪詛法が厭魅法である。
厭魅法を発展史から見ると、自然に即応した生き方を教えた中国道教の仙術錬金思想、森羅万象に霊魂が宿るとした民間道教の陰陽道の呪術や仙術、体術の思想。日本の神道の言霊信仰。更には、全てのものが陰と陽の気から成立すると説き、その気を変化させる事が出来るとする陰明道陰陽道の占術(幻術)等の思想を同調融和しながら、日本のマジナイ札や縁起札、護身の為の武術や鍼灸、気功法・・の起源である厭魅法が出来上がったと考えられる。
故に、呪禁道の呪禁師達は「呪禁道を修業すれば、何物にも害される事のない強靭な肉体、無敵の肉体と結界(バリヤ)を手に入れる事が出来、更に、形代、呪文、呪符に依り、如何なる場所に敵が隠れ潜もうと、怨敵を滅す事も排除する事も撲滅する事も出来る。」と豪語したのであろう。この事は次の蠱毒法を説明すれば、如何に妖しげで、陰湿で、恐ろしき呪法であるかが更に明確になるのである。
思うに、自らの身心を過酷なまでに鍛錬し、身を護る為の護身法を体得した超人間的存在の彼等の働く道が、人を害する武器として一部の権力者に利用されるのは昔も今も変わりは無いが、人間として、精神的には鍛錬した者が鍛錬しない者と同様に、人間の欲望を抑制されないまま、何故、本能の欲する侭に行動するのであろうか。
(参考、道教系では人間寿命はその人の生前に行った罪過の軽重によって今世の禍福と寿命の長短が決まると云い。儒教は徳行による天命を説く。仏教では自業自得と説明する。これ等を文字通り解釈出来ないが、云わんとする所は人間らしさや人間としての人格完成の努力を怠るなら、全てが、ギクシャクし、空回りとなり、少しも良くはなら無いと言う事だろう。)
厭魅法は、これ位にして、以下蠱毒法を照会しよう。
本来、蠱の意味は蠢めくものを指す意味であったが、(イ)穀物に付く虫 (ロ)人を害するもの (ハ)人の腹の虫 (ニ)悪気、邪気、瘴気 (ホ)毒蠱、巫蠱(マジナイ用に使う虫)、妖蠱(人を殺傷するなどの邪悪用途で恨みを晴らす為の専用の虫)・・・等に転釈された。総じてマジナイに用いられる虫や動物を意味する言葉となったらしい。
又、蠱毒の「毒」とは御存知の通り、(イ)損なう意、(ロ)病毒害毒、(ハ)災いあるもの、悪いもの、怨毒・・・等の意味である。
だとすると、蠱毒法は前述の意味から、毒薬、毒虫、その他の邪悪、不気味なもの・・・等のものを用いて、隠密裡に、怨敵、敵対するもの、害敵、邪魔者、魔性の者・・等々を排除抹殺する事を目的とした呪詛法であると定義出来そうだ。如何にも中国的でジメジメした陰湿な呪詛法であったかが想像出来る。
では、その呪詛法はというと次の如くであったと想像が出来る。
(一)、主に毒蠱と呼ばれるものであるが、異種雑多な虫を、数十匹程を一つの容器(檻)に入れ餌を与えないで一定期間放置する。その間に虫達は生き残る為に「共食い」を始める。そして最後に残った虫、それが毒虫なら毒蠱、蜘蛛なら蜘蠱・・・等と呼んだが、次第に妖しげな妖蠱(マジナイ専用の虫に特別に品種改良したもの、異国の虫も多く名も不明な虫も多かった)を使うようになったと云われる。とにかく、こうして生き残った虫を育て飼い慣らし、直接人を襲わせたり、人を呪う為に使ったり、又、殺して燃やして灰とし、間接的に怨霊悪霊等と戦わせたり。相手の呪者の蠱毒等と戦わせたりしたらしい。宗教的表現を借りるなら、生き残るだけの生命力と人を怨み憎み呪う力を併せ持つように訓練され育成した虫=蠱毒にて邪魔者を排除する為に直説それにて人等を襲わせると言う方法と、虫(虫の魂と虫の体に寄生する邪霊=宿魂)を殺す事に依って、宿魂(邪霊)を怒らせ応用し、敵対する者に宿主に?依をするように、虫自体の怨霊と怒らせた宿魂との両者を怨敵に?依させる間接的な方法とがあった<邪霊(宿魂)は他の生命体に憑依し、そのエネルギーを獲ないと、妖力を失いやがては消滅して行くとの説による。>ようである。
だが、動物にて製造した蠱毒より、少々迫力が劣ると云われたが、実に陰湿極まりない呪詛法であった。又、呪者自身が、自ら飼い慣らし製造した、蠱毒、妖蠱等にて、自ら命を落した話しも多く伝わっている。
(二)、次に動物を使った蠱毒を照会しよう。
先ず、異種雑多な動物を一つの檻に入れ、餌を与えないで「共食い」させる。生き残った動物が蠱毒となり、恨みの念が吹き込まれる。使用方法は飼い慣らし直接人を襲わせるか、生き残った動物を殺して、霊媒に憑依させる。或いは、死骸の一部(主に頭部)を手厚く埋葬し、他は燃やして灰とする。埋葬する場合は何かの神として祭祀するのが通例であった。生き残った動物が蛇なら蛇蠱、狐なら狐蠱・・等と呼び、蛇なら「・・・大明神、・・・龍神」 狐なら「・・・稲荷大明神」 犬なら「・・・犬神」・・等と称され祭祀するやり方もあったらしい。たが、その地位は余程の妖力や魔力が無い限り、神々の眷属、使い魔としての地位と性格とを兼ねていた様である。
さて、この灰は非常に利用価値が高く貴重な物として珍重された。怨敵に送っても、怨敵の居る家に撒いても、怨敵に飲ませても良く、とにかく、その相手は霊に憑依された状態となって、苦しみ抜き、骨と皮となり、恐怖の余り精神が錯乱狂乱して、自ら死に至るとされる類の空恐ろしい呪詛法だったらしい。又、間接的に呪う相手以外の者や動物等にこの蠱毒の灰を飲ますと、その者は奴隷や使い魔の如くとなり、呪者の言うが侭に命令に服従し、催眠術を掛けられた如く記憶無き侭役目を果すとも云われていた。更に、この蠱毒法は人の秘密を探り出すスパイ的な役目は勿論、財を盗む事、財を護る事、鉱山等を探し出す事等にも駆使され、実に広範囲に渡り珍重された様であった。人を呪う為の呪詛法が財を豊かにする呪詛であるとは何とも皮肉な事でもあった。この呪詛法の中から私達は善神悪神が祭祀に依って、変化する事と、邪悪なものを利用する事との功罪のより具体的な方法を学び得たのであった。
だが、他方では、私達はこの中から宗教的色彩を帯びた西洋の魔女の饗宴とドロドロした悪魔の姿を想起させられたり、何処かの国のゾンビパウタ゛ーをも想起させられたりするのであった。
とにかく、人間の脳(心=精神)の奥底にある潜在意識の幻覚の世界(妖怪や魑魅魍魎の棲む世界)迄もあらゆる手段を用いて土足で踏み込み、催眠状態として、相手を廃人の如くして、沫殺しようと企図する呪法等には、何か、空恐ろしく、ゾクゾクするが、むしろ、怒りと腹立ちが先行する。又、呪者自身が、神(善神)の名の元に祟りを鎮めようとする行為・・・等は後世の悪魔封じに通ずるものであり、宗教的な神秘の謎に直接挑戦した意義は大きいが、何か、すっきりしない余韻が残りそうである。
この不可思議な呪詛法は呪者の縁者、血族に受け継がれ血脈相承になると言われた。つまり、修業も何もしなくとも、呪者の子孫の誰かにその能力が血脈として、遺伝として、継承伝承されて行くと言う事らしい。又より多くの蠱毒法をマスターした呪者が、より強力で強大な霊能力、呪詛力、魔勢力・・等を有す者達として、尊重尊敬され、重視され、人々から持囃されるに至ったらしい。真偽は不詳だが、現代にも、この血統血脈は密かに受け継がれているとの噂もあり、犬神伝説、飯網伝説(茶吉尼伝説(狐))、竜神(蛇)伝説・・・等種々あり、人間が犬の遠吠えや狼鳴きする家系等々も珍しくないらしい。又、昨今の霊媒師、霊感師の中にも、数多く而も著名であるとも云われている。
さて、この不可思議で不可解な呪詛法に対して、時の政府(奈良朝)でさえ、時が立つにつれて、この厭魅蠱毒法が、外敵害敵に広まる事を恐れたり、その怪異性に驚歎してか、再三に渡り厳しく規制したり罰したりして弾圧したが、却って逆効果となり、次第に地方の貴族や豪族達に広まり、政治や個人の野心、野望、私腹を肥やす欲望の道具として利用されていった。こうなれば、憎悪に満ちた呪者同士の呪詛合戦は言うに及ばず、各地で謀略等による泥試合の様相を呈し始めた。そうなると、時の政府自体にも、その勢力を押さえる事が出来無くなり、民族部族紛争の末、京都へと都を移す事を余儀なくされたのであった。つまり、宗教合戦の幕開けの犠牲となったのである。
又、この呪詛法は、後世の宗教的呪詛の根幹となり、現代に於いても、この類の宗教的行為をその侭継承していると思われる宗教が結構多いのには驚くばかりである。筆者自信、これ等が真の超能力者か否かの判定の狭間に揺れているのも確かなのである。
次に陰陽道について略記しよう。