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2012/04/24

検証「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」

 下記「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」『従軍慰安婦資料集』吉見義明編(大月書店)に入っている。この尋問報告は「慰安婦は公娼だった」「慰安婦は商行為を行っていたのである」「従軍慰安婦など存在しない」などと主張し、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、繰り返し利用しているものである。その内容は多くの「従軍慰安婦 」の証言とかけ離れたものであり、その資料的価値には、いろいろな面で疑問がある。その主なものについて考えたい。

 まず第1に、尋問の方法が不明であり、その記述方法が極めて曖昧なことがある。下記付録Aにあるように、<尋問を受けたのは20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人>であるが、朝鮮人「慰安婦」の証言か、日本の民間人(業者)の証言かが明らかでない記述には、大きな問題があると言わざるを得ない。なぜなら、朝鮮人「慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくいからである。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、朝鮮人「慰安婦」の立場からみれば、民間人(業者)も加害者側といえる。性交渉を強要された朝鮮人「慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)がそれを物語る。

 「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められている「東南アジア翻訳センター 心理戦 尋問報告 第2号」では、「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。センターの尋問官、アメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトは、だれが話したかを明らかにしているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの
情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである
」とも記している。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがないのである。

 次に、「性向」の項目では、朝鮮人「慰安婦」が、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的であると書かれている。また、<見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが「女の手練手管を心得ている」>ともある。20人の朝鮮人「慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、朝鮮人「慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えにくい。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、会ったこともないと思われる中国兵やインド兵について、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての誰の証言であるか、また、どのような体験があったのか、などを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。

 「生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。朝鮮人「慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれているのである。他の多くの朝鮮人「慰安婦」が証言しているような、怒りを感じたことや悔しかったこと、辛かったこと、困ったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰にどんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、朝鮮人「慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる記述である。

 「利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。朝鮮人「慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問ただしたとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはりこれも日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。

 兵士たちの反応の項目には慰問袋の話がでてくるが、<彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。

 「軍事情勢に対する反応」項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…
」とある。したがって、これも朝鮮人「慰安婦」の証言ではなく、日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。

 「宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると朝鮮人「慰安婦」の証言ではないであろう。

 「徴集」の項目の一部記述と、最後の「要望」の項目にある、<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん、他の慰安婦の生命が、危険になるからである>という記述は、朝鮮人「慰安婦」の証言かどうかは不明であるが、朝鮮人「慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができるものである。

 多くの人たちが、「従軍慰安婦」の訴えを退けるために、この資料を利用しているが、以上のことから、この「日本人捕虜尋問報告 第49号」を、当時の「従軍慰安婦」の実態を示す資料として、都合のよい所だけを引用して利用することは許されないと考えるのである。
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          第13部  連合軍による調査報告・指令
1 ビルマ  99 アメリカ戦時情報局心理作戦班 
        日本人捕虜尋問報告 第49号  1944年10月1日
                 アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
                 アメリカ戦時情報局心理作戦班 
                 APO689
秘           日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所レド捕虜収容所
尋問期間1944年8月20日 ~ 9月10日
報告年月日1944年10月1日
報告者T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日1944年8月10日
収容所到着年月日1944年8月15日

はじめに

 この報告は、1994年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために、日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。


徴  集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの4つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は、「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。


性  向
 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は、25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。


生活および労働の状況
 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を配給されていなかったので、ミッチナでは「慰安所の楼主」から、彼が調達した食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は、多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音器をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用度の高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1 兵    午前10~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円    30分~40分
3 将校  午後9時~午前0時 5円    30分~40分


 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表
 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員2名が、隊員の確認のために、慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。


日曜日——第18師団司令部。
月曜日——騎兵隊
火曜日——工兵隊
水曜日——休業日、定例健康診断
木曜日——衛生隊
金曜日——山砲兵隊
土曜日——輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は、接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。


報酬および生活状態
 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちはあらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦は、すべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が実施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。


日本の軍人に対する反応
 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に、丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応
 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。


軍事情勢に対する反応
 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」
 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。


退却および捕獲
 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。


宣  伝
 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。1人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちがたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。


要  望
 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されている投下に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
 13 「C」 21歳 慶尚南(ナム)道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城


 一部、漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、青字が書名や抜粋部分です。 

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コメント

>Q氏

ベトナム韓国関係についての参考記事ありがとう。

著者W.Conde 氏はベテラン記者でありながら英語の本を一冊も発表していない、つまり、日本以外では第一線のジャーナリストとして受け入れられていないという事だろうから、この人についてはかなり複雑な背景があることが察せられる。

私達はこのブログでかなりの議論をさせていただいたが、ここらあたりで一時休止した方がよいと思われる。

ブログを管理しておられるSyaSya 61氏は先に進みたがっておられるようだ。

議論の内容がとてもプラスになったことを伝えておきたい。

韓国政府の対応 [編集]

ライタイハンが表面化して後も、韓国政府による積極的な援護策は取られていない。しかし韓国の民間団体[1]やキリスト教団体とベトナム政府の支援により、支援施設(職業訓練学校)が設立され[11]、無償での職業訓練と韓国語の教育が行われた。ただし、ライタイハンの支援よりも、ベトナム国民を対象とした活動になっているとの批判がある[4]。

ライタイハン自身が、韓国人である父親に対して実子であることの認知訴訟を起こし、判決により韓国国籍を取得する動きもある[12]。盧武鉉政権は2006年に、写真など客観的に立証できる手段があれば韓国の国籍を付与する法案を検討するとした[13]。

なお、韓国政府は2009年にベトナム戦争の解釈をめぐってベトナム政府と衝突するという事件があった。2009年に韓国の国家報勲庁が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。この文書でベトナム戦争参戦者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現したことにベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し、外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した[14]。

ライタイハンの数と原因 [編集]

ライタイハンの正確な数は、諸説ありはっきりしない。1500人(朝日新聞・1995年5月2日)、2千人(野村進)、最小5千人(釜山日報)[1]、7千人、1万人以上(名越二荒之助[2]など)、最大3万人(釜山日報)[1]としているものもある。彼(彼女)らの中には父親の記憶を持たず、韓国語を話せず、写真だけが唯一残された思い出という者がいる[3]。韓国との混血児は名乗りでないとの主張もある[2]。正確な調査が行われないまま、援助団体が支援を主張したため、数が膨れ上がったとの批判もある[4]。しかし、集団として注目できる、まとまった数の混血児が発生したのは事実である。

原因については韓国軍兵士による強姦、兵士や民間人が「『妻』と子供を捨てて無責任にも韓国に帰国したこと[1]」とする現地婚[5]、「ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。[2]」とする慰安婦(非管理売春)などと複数のことが言われているが、十分な調査も行われていない状態でありどれが主な原因なのかは判っていない。

ただし、南ベトナム解放民族戦線が放送によって、韓国軍による拷問や虐殺事件、あるいは婦女子への暴行事件を連日報じていた[2]ことは事実であり、各地の韓国軍による虐殺、暴行事件の生存者の証言に共通する点としても婦女に対する強姦が挙げられている[6]。

戦闘終了後の治安維持に入ると韓国軍は兵士の行動を厳しく律したが、猛虎師団の一兵士が村の娘を強姦して軍法会議にかけられる事件が起きている[7]。他方、韓国軍の兵士がベトナム人の母と子を置き捨てて帰国したため、軍司令部が再志願させてベトナムに戻し、結婚式を挙げさせた旨が伝えられている[7]。

ライタイハンの事実否認する方が旧日本軍の慰安所を「人道的に問題」などと言っても説得力がありません。

当時、韓国の朴正煕政権は反共を国是とし、分断国家としてのシンパシーを訴えて派兵を推進した。安聖基は「参加する方では『男に生まれたからには、一度は戦場に赴かねば』という気風がありました」とも指摘している[8]。南ベトナムに派兵された韓国軍は、2個師団プラス1個旅団の延べ31万名。最盛期には5万名を数えた。また、「ベトナム特需」を当てこんだ産業資本や出稼ぎの民間人も進出し、これも最盛期には2万人近く[9]がベトナムに赴いた。

韓国軍は30万人を超すベトナム人を虐殺したとも言われ、ベトナムでは村ごとに『「タイハン」の残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っているという[10]。

こうした中でライタイハンはこれら韓国人男性とベトナム人女性との間に生まれた[5]。

兵士や出稼ぎの民間人による本国への送金は、年に1億2千万ドルを数え、1969年の韓国の外貨収入の2割に達した[9]。アメリカによる軍事・経済援助、日韓基本条約による資金援助と合わせて、漢江の奇跡の基礎となった。

ベトナム戦争が終わり、南北ベトナムが統一して既に四半世紀が通ぎた。そして韓国ではここ数年、あの戦争をめぐり長らくタブーとされてきた過去について、かつてない議論が進められている。その過去とは、ベトナム戦争に参戦した韓国軍によるベトナム民間人の虐殺問題だ。最初にタブーを破ったのは、韓国のハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』だった。同誌は99年、韓国軍がベトナム戦当時に起こした虐殺事件について記事を掲載したのだ(5月6日号)。この記事を書いたのは、韓国人歴史研究者のク・スジョン。彼女はベトナム戦争の韓国軍の残虐行為が記されたベトナム側の資科を入手し、韓国の市民団体の一行とともにベトナム現地で検証を始めたのだ。ある地域で、猛虎部隊(韓国軍部隊)等による1か月間の作戦で1200名もの住民が虐殺されたという66年当時のベトナム側の報告を紹介しながら、同時に生存者たちの証言に基づき虐殺の様子を具体的に描いている。例えば、生存者の証言からは韓国軍による民間人虐殺の方法にいくつか共通した類型があったようだと、同記事には記されている。以下、その部分を略して引用すると「大部分が女性や老人、子供たちである住民を一か所に集め、機関銃を乱射。子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったりして火に放り込む。女性を強姦してから殺害。妊産婦の腹を、胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。トンネルに追い詰めた村人を毒ガスで殺す等々」だ。日本の戦争責任を追及してきた韓国の人々にとって、自国軍も虐殺をしていたのだという告発は、苦いものであったに違いない。続いて同誌の2000年4月27日号には、住民虐殺を行なったという元軍人による加害証言が掲載された。戦争当時、一般住民とゲリラを区別するのは難しく、我が身を守るためには仕方なかったのだとその元軍人は述壊した。しかし同時に、今やその行為に罪の意識をもち、韓国政府がベトナムに謝罪し被害者に補償することを望むという彼の声も、同誌では伝えられた。これと前後して米誌『ニューズウィーク』が「暴かれた英雄の犯罪」と題してベトナム戦争での韓国軍の虐殺問題を取り上げた(2000年4月21日号)。ク・スジョンらの調査を紹介しつつ、「8000人以上の民間人を殺した韓国軍の虐殺行為の数々」が明らかにされつつあると、7ページにわたり大々的に報じたのだ。タブーであった虐殺事件についてのこれらの報道に対し、韓国国内では激しい反撃が起きた。同年6月27日には、ベトナム戦に従軍した退役軍人ら2000人余りがハンギョレ新聞社に乱入しコンピュータなどを破壊した。彼らは「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバーで、国のために闘った戦友を冒涜されたと激しく抗議したのだ。ベトナムへの韓国人派兵は64年に始まり、延べで30万人以上の兵士を送り込んだ。米国に次ぐ大派兵であった。この戦争で約5000人の韓国人が死んだ。ハンギョレ新聞社に乱入した元兵士たちがそうであったように、アメリカ軍が散布した枯れ葉剤の被害に苦しむ元兵士らが、今も韓国には多い。ベトナム戦争当時、韓国軍総司令官だった蔡命新は、先の『ニューズウィーク』でのインタビューで「誰に対しても償う必要はない。あれは戦争だった」と明言している。アメリカ軍によるソンミ事件などの虐殺行為がベトナム戦争当時から国際的に批判を受け議論の的となったのとは対照的に、韓国軍による虐殺行為については、こと韓国国内では長く沈黙が保たれてきた。(中略)また全斗煥・盧泰愚両大統領がベトナム戦争で武勲を挙げた軍人であったという政治事情もあり、ベトナム戦での過去は、韓国では幾重にもタブーであり続けた。しかし、冷戦終結と韓国の民主化により、このタブーは破られた。(中略)韓国の歴史教科書には、ベトナム戦争についてほとんど記述はされていない。中学生向けの国定教科書に記されているのは「そして、共産侵略を受けているベトナムを支援するために国軍を派兵した」の約1行のみだ。(佐藤和「被害者史観韓国を揺るがすベトナム民間人虐殺の加害責任」『SAPIO』2001年9月26日号)

1965年から1966年の間、プウエン省のタオ村で、韓国軍は、ほとんど大部分が婦人の村人42人を狩り立て、やがて小火器を浴びせ、全員を殺害した。1966年1月11日から19日の間、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省では、韓国軍は300人以上の住民を捕まえ、拷問を加え、更にまた400人以上のベトナム人を殺した。1965年12月から1966年1月の間に、韓国軍は、ビンディン省のプレアン村では数百戸の家々を炎上させ、一方キンタイ村を完全に掃討した。同じ省の九つの村々で韓国軍は、民間人に対して化学兵器を使用したのである。1966年1月1日から同月4日までの間に、ブン・トアフラおよびヨビン・ホアフラ地方で、韓国軍は、住民たちの所有物を残らず略奪したうえ、住民の家やカオダイ教の聖堂を焼き、さらに数千頭の家畜を殺した。彼らは、また仏教寺院から数トンもの貨幣をくすね、それから人民を殺したのである。「ある村が、わが軍の支配下に陥ると、その次の仕事はベトコンから村人たちを分け離すことなのだ」こう言ってのけたという韓国軍将校の話しが引用された。ナムフュン郡で、韓国軍は4人の老人と3人の妊婦を、防空壕の中へ押し込め、ナパームとガスで殺した。アンヤン省の三つの村では110人を、またポカン村では32人以上を、こうしたやり方で、殺したのである。1966年2月26日、韓国軍部隊は、137人の婦人、それに40人の老人と76人の子供も一緒に、防空壕の中へ押し込めて、化学薬で殺したり、全員を盲にさせたりした。1966年3月26日から28日にかけて、ビンディン省で、韓国軍は、数千におよぶ農家と古寺院を炎上させ、若い女性や年老いた女性を集団強姦した。8月までに、勇猛な朝鮮人たちは、ビンディン省における焦土作戦を完了した。ブガツ省では、3万5千人の人たちが、死の谷に狩り立てられ、拷問を完膚なきまで加えられてから全員が殺された。10月には、メコン河流域では、裸で両手ないしは両足の19人の遺体が川から引揚げられた。これらは、いずれも陵辱された少女たちの遺骸であった。この事件に先立って、同じ地域で共同作戦中の米軍と韓国軍が、昼日中に結婚の行列を襲い、花嫁を含め7人の女性を強姦した、との報道もあった。かれらは、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪ったうえ、3人の女性を川の中へ投げ込んだ。放火、銃剣による突き殺し、拷問、強姦、強奪こんな記事は、ほとんど毎日のように続いている。母親の胸に抱かれたいたいけな乳幼児でさえも、非人間的な殺人行為を免れることができないのだ。これは、たった一都市に起きた南京大虐殺どころの話ではないのだ。これこそ、アメリカの新聞の力をもってしても、中国の南京で起こった話を語ることのできない、今日のベトナム民族大虐殺なのである。つまり今日では米軍および韓国軍の検閲官が全強権を発動し、事実が明るみに出るのを妨げているのである。(中略)なぜ在ベトナム韓国軍がかくも攻撃的で残酷であるかという理由は、彼らが、アメリカが与えてくれた援助に対してお返しをするためであり、さらにまたそれは韓国民に対して彼らが、アジアにおいて平定の役割を演ずることができるのだという誇りと確信の感情を与えるためである、と1967年5月、ソウル政府当局は日本人記者に説明した。(D.W.W.コンデ『朝鮮-新しい危機の内幕-』新時代社、1969年)

chuka 様

 再びの投稿ありがとうございます。彼らは、日本のことを論じているときに窮地に陥ると、いつも言い逃れようと、このような問題を取り上げます。閉口しています。

>そのように昔のことを掘り返すのならば1950年のベトナム朝鮮戦争で韓国兵が武器を持たないベトナム村民を何万人も虐殺したうえにレイプもした件についても検証してください。

 わたしは、”教科書から「慰安婦」問題を削除せよ” というような主張を繰り返す方々の動きに危険を感じ、「真実を知りたい」というテーマで、いろいろ調べている者です。わたしは政治家ではありませんし、外交問題や人権問題一般を研究しているわけでもありません。これからも、日本の歴史認識の問題にこだわっていきたいと思いますので、「韓国兵が武器を持たないベトナム村民を何万人…」について、ここで議論するつもりはありません。ご理解ください。かつて、310万の日本人と、それに数倍するアジア人の命を葬り去った戦争を正当化するような歴史認識は、認めることができないのです。

 それと、もうひとつ、

>あなたがた韓国人としては認めたくないでしょうが。

 わたしは日本人です。自分たちが国益と考えることに異を唱える人間は「韓国人」と決めつけ、わたしを「韓国人」呼ばわりするような態度は一日も早く改められたほうがよいと思います。情けないですよ。歪んだ考え方や浅はかな思考が露見しているといえます。わたしは、近隣諸国と歴史認識を共有することが、子々孫々のためにも必要だというのです。あなたと同じような主張をする人たちから何度か、「韓国人」あるいは「朝鮮人」呼ばわりされてきましたが、目先の利益にとらわれて、くだらないことを言うものではありません。「反日」というレッテル貼りも同じです。問題は真実です。

下記の無名の方のコメントには意図的な事実誤認が多いのはなぜだろう?

この方のメンタルヘルス状態が知りたいところだ。

実は私は韓国軍の残虐さについて、ネットでリサーチしたことがある。
元ヴェトナム米兵達によれば、誰もことさらそういった事実を目撃した事はないということだ。韓国軍の残虐さを最初に指摘したのは、ある米兵の戦記だそうだが、そこから噂が広まったと彼等は思っているそうだ。
韓国軍は前線には送られなかったのだが、皮肉にも後方でゲリラ攻撃の対象となってしまった為にかなりの死傷者を出したといわれている。
韓国兵達は自分達の事を米援助と引き換えのいけにえと考え、内部には厭戦気分が蔓延していたと伝えられている。
本田勝一氏も当時ベストセラーとなった「戦場の村」で、韓国軍のとりたてての残虐性を否定している。
しかし韓国では、元韓国兵による韓国兵の残虐さを告白した本が出版されている。
米・オーストラリア両国は膨大な数のベトナム避難民を受け入れ戦争混血児の受け入れも積極的だが、韓国についてはどうだろう。
余談ながら、ベトナム・中国紛争で、ベトナムから追い出された華僑も米国は多数受け入れている。この人達こそかって北ベトナムの勝利に重要な役を演じた。
北ベトナム軍、及びゲリラ軍に対するレイプ被害報告ははるかに少ないそうだ。

そのように昔のことを掘り返すのならば1950年のベトナム朝鮮戦争で韓国兵が武器を持たないベトナム村民を何万人も虐殺したうえにレイプもした件についても検証してください。

あなたがた韓国人としては認めたくないでしょうが。

韓国は謝罪も賠償金も一切しないのはどうしてですか?
自分達が犯した罪に関しては都合よく忘れるというのは無しですよ。

chuka 様

“竹の森遠く”についてのコメントをありがとうございました。韓国はもちろん、アメリカでもいろいろ議論があるようですね。

“竹の森遠く”についてコメントさせていただきたい。
この本は1986年に米国で青少年向けの自伝的小説として発表された。12歳の日本人少女の恐ろしい戦争体験が評判を得、全米中学校の指定図書となったそうだが、たちまち今日の政治・歴史的見解の対立にまきこまれ、米国でも賛否両論に別れている。
そういった理由から日本・中国では訳本は出版されていないそうだ。韓国では'“ヨーコ物語”として出版されたが、現在は出版中止となっている。

著者は、ひたすら反戦であり、反日、反韓ではないと主張している。一読者として私も著者に同意する。

この本は敗戦で大日本帝国の棄民となった著者と姉、母が満州国境近くの北朝鮮の街から日本にたどり着くまでの悲惨な旅を一少女の目を通して描かれている。
命からがら本土に辿り着いても悲劇は続いた。かえる家もない親子三人は京都駅で浮浪者生活をはじめ、力尽いた母はそこで絶命。
しかしこの本の中には、国籍を超えた人間同志の助け合いがあった。それがなかったならば、おそらくこの一家の運命はもっと違ったものになっていただろう。

慰安婦についてリサーチをしている者から

敗戦時に外地の日本人が経験した言葉では言い尽くせない苦難、及び多大の犠牲者が出たことについてコメントさせていただきたい。

あのような惨劇を二度と繰り返してはならない。

ここで考えて欲しいのは旧大日本帝国政府の土台は決して国民の福祉の向上ではなかったという事だ。大日本帝国政府というのは、皇国維持と国土拡張を目的とし、国民の福祉は二の次であった。結果として領土拡張戦争で膨大な死者を出し、国民には経済的苦難をしい、相手国側の損害は自国の利であった。
いわば領土拡大で得られる利益のみが国土の狭い日本を救うという考えに取り付かれていたのだ。要するに過去の鎖国政策から180度転回したわけである。

当然の事ながら敗戦前になるとこの政府のプライオリティは天皇制維持に移らざるを得なかった。再び膨大な数の日本人がこの目的の為に悲惨な犠牲となったのだ。ポツダム宣言の受託を遅らせて無条件降伏に抵抗した結果が、原爆投下であった事は忘れるべきではない。

国民主権の今日の日本政府は敗戦時の大量棄民ポリシーを繰り返してはならないということだ。

Yoko Kawashima Watkins の“So far from the Bamboo Grove”
「竹林から遠く離れて」
について知らせてくださってありがとう。是非、機会を見つけて読んでみようと思う。

何がなんでも被害者ですか、当を得た反論と思うんですけどね。


慰安婦の問題を取り上げるなら日本人慰安婦も取り上げなければそれは「反戦活動」ではありません。単なる「反日活動」です。

言葉に窮して、

>何が何でも被害者にもっていきたいのですか?
>くだらないよ

>お花畑は死んで行くお花畑だけにしてください

 というようなことをコメントすることこそが「くだらない」というべきでしょうね。

灼熱の昭和20年8月15日正午。
大地は割れ、空は哭いた・・・
日本はポツダム宣言を受諾し、志半ばで敗れた。

しかし、朝鮮半島では8月9日の、
日ソ中立条約破棄によるソ連軍侵攻によって時既に大混乱が始まっていた。
半島丸ごと総バイオハザード化し次々と襲い掛かる朝鮮人から逃れることができるのか。
ヨーコ・カワシマの釜山への苦難に満ちた涙の脱出劇が始まった!

その一方で、
襲い掛かる朝鮮人から逃れる術の無い大勢の日本人が虐殺された。
生きて帰る事の出来た少数の婦女子も半狂乱状態となり
博多の「二日市保養所」で堕胎手術をうける者も少なくなかった。
今でも無念の思いで殺された日本人が何の供養もされないまま、
半島の地下で血涙を流している。

早くこの名著が日本語訳されることを心から望む

「竹の森遠く ヨーコカワシマ ワトキンス作書評より」

お花畑は死んで行くお花畑だけにしてください

何が何でも被害者にもっていきたいのですか?
くだらないよ

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