忍者について  

深夜の大名屋敷の大屋根の上で、敵味方の忍者が得意の忍法を駆使して対決する。
手裏剣を投げ、翔び、跳ね、自分の技に誇りと命を賭けて死闘を繰り広げる忍者たち。
非情な掟に縛られた、彼ら忍者とはどのような存在だったのでしょうか?

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はじめに
 私が忍者に興味を持ったのは、白土三平さんの「忍者武芸帳 影丸伝」という長編マンガ本を読んだのがきっかけです。約45年も前の古い作品ですが、現代のマンガにはない物語的なおもしろさに夢中になりました。
「サスケ」「忍法秘話」など白土さんの作品を次々に読み、その忍者の世界のとりこになってしまいました。

 その後、「梟の城」や、真田十勇士の霧隠才蔵を主人公にした「風神の門」など司馬遼太郎さんの忍者小説を読むことにより、私の忍者に対するイメージが完成したようです。
「真田太平記」「蝶の戦記」など池波正太郎さんの忍者小説もありますが、文体が明るくて?、なんか違うなって感じですね。忍者は闇の中で行動する、暗く非情なものという先入観があるもので。


 昔の横山光輝さんのマンガ「伊賀の影丸」(週刊少年サンデー)や、テレビの「隠密剣士」(1962〜)の忍者を見慣れた私にとって、1980年代に放送された時代劇「影の軍団」(80〜85)などは違和感があり、さっぱり忍者らしさを感じません。
 現在ではテレビやマンガから忍者の姿は消え失せ、たまに見ることがあっても、ピンクや黄色の衣裳に網タイツ姿のくノ一、あれは何だ〜(笑)。それに手裏剣を投げなくなりましたね。子供がマネすると危険ということで自主規制でもあるのでしょうか?


 ↑江戸城(皇居)半蔵門。
 徳川家康に仕えた伊賀忍者・服部半蔵の屋敷がすぐ近くにあったことから「半蔵門」として名が残りました。

 忍者とは Contents

 現代の情報収集活動には、人間的スパイによる情報、通信情報、映像情報の3種類があるといわれます。
 通信情報とは「無線傍受や電話の盗聴など」、映像情報とは「軍事衛星やスパイ偵察機による写真撮影の解読」のこと。そして第一の「人間的スパイによる情報」は諜報員(エージェント)による情報のことで、これこそが忍者による情報収集活動そのものですね。

 忍者とは群雄割拠の戦国時代に各地の武将に雇われて、敵地に潜入し、情報収集や後方攪乱、破壊工作活動にたずさわるプロフェッショナルな技能集団のこと。
 CIA(アメリカ中央情報局)やMI−6(英国軍事諜報部)の諜報員ようなものでしょうか。
 本当のスパイが007ジェームズ・ボンドのようなカッコ良いヒーローではなく、目立たないごく普通のサラリーマンであるように、忍者もごく平凡な商人やお百姓さん姿なのでしょう。

 忍者と剣豪(兵法者)が闘ったら、どっちが強いか?というのは意味のない問いだといわれます。忍者は闘うために存在するのではなく、人知れず潜入し、もしも露見すれば、その場を脱して、任務をまっとうする。敵地で闘って勝てるはずがなく、自分が収集した情報を報告するために死力をつくして逃げるのが忍者なのでしょうね。

 忍者の衣裳は黒装束に黒覆面のイメージですが、実際は柿色やようかん色、紺色の方が闇に溶け込んで相手に見えないとか。
 黒はかえって闇の中では目立つといわれますが、夜間に車を運転していて黒い服の歩行者に肝を冷やしたこともあり、黒も見えにくいと思いますけど。
 ただ黒装束は見るからに怪しいですね。見つかっても言い逃れできる服装ということから、柿色や紺色が適しているとされるのかもしれません。
 雪の中では白い装束も用いたそうです。着物の表裏を異なる色や模様にして、時に応じて裏返して着用するのが常套手段でした。とにかく目立たない、不審感を抱かせないことが肝心だったようです。


 忍者は高い塀や木に飛び上がったりして身の軽さが身上ですが、実際はどうだったのでしょうか?。跳躍力ですが、高跳びは約2.7mの高さ、幅跳びは約5.4mの距離をクリアすることが要求されたそうです。
 ただ陸上競技と違って、塀を越える時は足をかけたり、道具を使っても良いわけですから現実的な値ですよね。体操競技の床運動などでも跳んだりはねたりしますから、忍者の身軽さは訓練しだいで充分可能だったと思われます。


 敵城の調査を命じられたけど、調べもしないで、いいかげんな城図面を提出したとか、城に忍び込まないで、陰に隠れて震えていたという忍者もいたそうで、彼ら忍者たちも人間だったのだなと思います。


忍者人名録
  
よく知られている忍者たち

■戦国大名と忍者

■忍者関連書籍


 
↑忍び道具
「孫子」における間者(スパイ、間諜)    「孫子」は中国最古の兵法書。
 スパイを「間者」「間諜」と言います。「間」とは、二つの物のあいだ、すきまのこと。または「うかがう」という意味もあって、すきをねらう、スパイする、となります。二つの物のあいだをうかがう、表と裏のあいだ(秘密)を覗いて報告することですね。
 「孫子」の用間篇に「爵禄百金を愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり」とあります。
 爵位や俸禄や百金を与えるのを惜しんで、敵情を知ろうとしない者は不仁のいたりである、というのです。
 孫子は情報活動の重要さを強調して、敵情を知ることの必要性、「戦に勝つには敵を知り己を知らなければならない」と言っています。
 敵情は祈りや占いで知るのでなく、かならず人間(間者)によって得るものであると。

 間者(スパイ)には「郷間」「内間」「反間」「死間」「生間」の五種類あって、間者を使いこなすことは、君主たる者には大切なことであるとしています。
 郷間・・・・その郷人に因りてこれを用うるなり。 敵国の領民を使って情報を集める。
 内間・・・・その官人に因りてこれを用うるなり。 敵国の役人や要人を買収して情報を集める
 反間・・・・その敵の間に因りてこれを用うるなり。 敵の間者を買収・脅迫などして利用する。
 死間・・・・誑事(きょうじ・偽り事)を外に為し、吾が間をしてこれを知って敵に伝えしむるなり。
           死を覚悟して敵国に潜入し、ニセ情報を流す。わざと捕らえられて偽情報を自白する。
 生間・・・・反(かえ)り報ずるなり。 敵国から生きて戻り、情報をもたらす目的で潜入する間者。
 この五種類の「間」、これこそが「忍者」なのでしょう。特に「生間」、敵地に潜入して情報を得て、生還して報告する者、これがイメージ的に最も忍者らしいと思います。
忍者の歴史

 忍者の存在が世に知られたのは長享元年(1487)の「鈎(まがり)の陣」だといわれます。
 将軍足利義尚(よしひさ)が幕府に従わない近江の守護大名六角高頼を攻めた戦いですが、この時に六角方に味方した甲賀忍者軍が、放火や夜襲など得意のゲリラ戦術で将軍方の軍を悩ませました。このため、ついに将軍家が一大名に勝つことができず、ついに将軍義尚は陣中に没したそうです。

 忍者の起こりは聖徳太子の密偵大伴細人(おおとものさびと)だという説。聖徳太子は「いちどに10人の訴えを聞くことができた」といわれるのは、密偵を使った情報収集にすぐれていたのでしょう。
 また、秦の始皇帝に不老不死の薬を探すよう命じられた除福が日本に渡来して伝えたという説などいろいろあるようですが、確かなことはわかりません。忍者は闇の存在ですから当然かもしれないですね。


 忍術は主に甲信越地方と伊賀甲賀や紀州などで発展したそうです。特に伊賀と甲賀が有名なのは、地理的に京都に近く、政権の盛衰に影響されたということと、周囲を山に囲まれた地形に無数の地侍(土豪)がしのぎを削ったためといわれます。

 忍者は戦国時代に真価を発揮したのですが、江戸時代になり太平の世になると存在価値がなくなってしまいます。
 服部半蔵配下の伊賀同心として幕府に仕えたり、仕官できた者はごく少数で、多くは転職を余儀なくされました。得意の火術をいかして花火師になった者、薬の知識を元に製薬業を営んだ者。身の軽さから香具師や曲芸師になった者など。中には盗賊になった者もいたようですね。

 忍者には上忍、中忍、下忍という身分があります。上忍というのは、伊賀の場合は郷士(地侍)で、地主として小作人たちを支配しています。下忍は、この小作人で、実際に各地の戦国大名に雇われて活動するのは彼ら下忍でした。中忍は何人かの下忍を率いる小頭(こがしら)です。
 甲賀では「甲賀郡中惣」という自治共同体が形成されていて、「甲賀五十三家」(山中・伴・望月・鵜飼など)が対等で支配していました。伊賀における上忍三家(服部・百地・藤林)のような特定の支配者がいませんでした。そのため甲賀は上忍が存在せずともいわれます。個人技に優れる伊賀衆に対し、甲賀衆は集団技に優れていたそうです。
 忍者の「忍び六具」(必携具)
打竹
 
うちたけ
短い竹筒の中に常時火種を入れて持ち歩くためのもの(火打石などで着火すると音を立てたり時間がかかるので)。
ろうそくに火を点けたり、放火するさいに使いました。
三尺手拭い 手拭いは頬被りや覆面になり、包帯や鉢巻き、帯にも使えました。泥水を濾して飲むのにも。石を包んで振り回せば武器にもなりました。
石筆 石筆は書いた後(仲間への目印など情報連絡後)すぐに消せるので、墨より便利だったそうです。また、普通の墨の矢立も必携品でした。
鉤縄 鉤形の鉄製の金具に長い麻縄を付けたものです。高所へ登る時や降りる時など、堀や小河川を越える時に用いました。捕らえた敵を縛るのにも使えました。
忍薬 薬は虫除け、胃腸薬、傷薬、血止めがあります。他に毒薬と携帯食料を常備しました。毒薬はトリカブトやヒ素が用いられました。
編笠 顔を隠すために使いました。内側から外がよく見え、人から顔が見えない。服装を変えれば別人になりすませました。
「忍び六具」の他に必要に応じて下の武器や道具を携帯しました。
手裏剣 鉄製の小武器。サビ止めと目立たぬように黒の焼き付け塗装がされています。十字手裏剣、八方手裏剣、棒手裏剣など各種あります。
手裏剣は投げると言わず、打つと言います。1本ずつ縦に持って投げるのが基本ですが、横打ち、座り打ちなどあります。有効射程は約15メートル。
忍び刀 刀は長い物を背負うと狭い場所で邪魔になるので、刃部が50センチ以内の短い刀を腰に帯びました。刀身が光らないように黒く塗ってありました。
刀を塀に立てかけ、鍔に足をかけて登るのにも使いました(刀は下緒をたぐって引き上げる)。
まきびし 敵に追われた時に後方に撒くのですが、長い糸に約20センチ間隔で多数のまきびしを結びつけ、引きずりながら走ると、敵は危険で追いすがれなかったそうです。数十本の糸に一個ずつ結びつける(糸が切れても残るまきびしが多い)方法もあったそうです。
水蜘蛛 下駄の周囲に浮き袋を付けた物。堀など水を渡るさいに足に履いたそうですが、実験では不可能だとか。ただしこの上に座ったり腹這いになれば可能だそうです。
苦無
  
くない
鋼鉄製の平たいヘラ状の先がとがった物。雨戸などをこじ開けたり、錠前を壊すなど用途はいろいろ。土を掘るシャベルにも使え、武器にもなりました。
 しころ 携帯用のこぎり。大小あり、大は長さ約12p。鉄格子が切れるものまであったそうです。(上図参照)
 坪錐・鑓錐 つぼきり。やりきり。板戸や天井に穴をあける道具。(上図参照)
 鎖帷子
 
くさりかたびら
敵の刀や手裏剣から身体を守るためのものですが、重い鎖帷子は、行動の邪魔になるので、闘争が予想される時以外は着用されませんでした。